LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

郡上一揆

郡上一揆(ぐじょういっき)は、江戸時代に美濃国郡上藩(現岐阜県郡上市)で宝暦年間に発生した大規模な一揆のことである。郡上藩では延宝年間にも年貢引き上げに藩内部の路線対立が絡んだ一揆が発生したが、一般的には郡上藩主金森氏が改易され、老中、若年寄といった幕閣中枢部の失脚という異例の事態を招いた宝暦期の一揆を指す。郡上一揆は、郡上藩がこれまでの年貢徴収法であった定免法から検見法に改め、更に農民らが新たに開発していた切添田畑を洗い出して新規課税を行うことにより増税を行うことを決定し、それをきっかけとして発生した。極度の財政難に悩まされていた郡上藩では、一揆開始前から各種の賦課が増大しており、一揆開始当初は豪農層や庄屋など豊かな農民や、郡上郡内でも比較的豊かであった、郡上八幡中心部よりも長良川の下流域にあった村々が一揆を主導していた。農民らの激しい抵抗に直面した郡上藩側はいったん検見法採用を引っ込めたものの、藩主金森頼錦の縁戚関係を頼るなどして、幕領である美濃郡代の代官から改めて郡上藩の検見法採用を命じたことにより一揆が再燃した。しかし藩側の弾圧や懐柔などで庄屋など豊かな農民層の多くは一揆から脱落し、その後は中農、貧農が運動の主体となる。一揆勢は藩主への請願を行い、更には藩主の弟にとりなしを依頼するが、郡上藩側からは弾圧された。また一揆本体にも厳しい弾圧が加えられたこともあって一揆勢は弱体化し、郡上郡内は寝者と呼ばれる反一揆派が多くなった。このような困難な情勢下、一揆勢は老中への駕籠訴を決行するに至る。老中への駕籠訴が受理されたことによって郡上一揆は幕府の法廷で審理されることになり、一揆勢は勢いを盛り返した。しかし当初進められていた審理は中断し、問題は解決の方向性が見られないまま長期化する。そのような中、一揆勢は組織を固め、藩の弾圧を避けるために郡上郡外の関に拠点を設け、闘争費用を地域ごとに分担し、献金によって賄うシステムを作りあげるなど、優れた組織を構築していく。また郡上一揆と同時期に郡上藩の預地であった越前国大野郡石徹白で、野心家の神主石徹白豊前が郡上藩役人と結託して石徹白の支配権を確立しようとしたことが主因である石徹白騒動が発生し、郡上藩政は大混乱に陥った。最終的に郡上一揆と石徹白騒動はともに目安箱への箱訴が行われ、時の将軍徳川家重が幕府中枢部関与の疑いを抱いたことにより、老中の指揮の下、寺社奉行を筆頭とする5名の御詮議懸りによって幕府評定所で裁判が行われることになった。裁判の結果、郡上一揆の首謀者とされた農民らに厳罰が下されたが、一方領主であった郡上藩主の金森頼錦は改易となり、幕府高官であった老中、若年寄、大目付、勘定奉行らが免職となった。江戸時代を通して百姓一揆の結果、他にこのような領主、幕府高官らの大量処罰が行われた例はない。また将軍家重の意を受けて郡上宝暦騒動の解決に活躍した田沼意次が台頭する要因となり、年貢増収により幕府財政の健全化を図ろうとした勢力が衰退し、商業資本の利益への課税が推進されるようになった。郡上一揆の舞台となった郡上藩は美濃国郡上郡と越前国大野郡にまたがった山間部の小藩であった。美濃国郡上郡は三方を山に囲まれており、郡上郡の北東部を南北に吉田川が流れ、吉田川流域のことを明方筋、北西部を南北に上之保川(現在は一般的に長良川と呼ぶ)が流れ、上之保川流域を上之保筋と呼んだ。そして吉田川、上之保川の合流地点から下流の郡上郡南部を下川筋、郡上八幡城周辺を小駄良筋と呼んだ。郡上藩領全体の石高は元文元年7月18日(1736年8月24日)の金森頼錦が襲封した時点での記録によれば38,764石余りとされ、うち郡上郡内に当たる美濃領内は宝暦6年(1756年)の記録では23,293石となっている。当時の郡上郡内では水田による稲作と畑作以外に、山間部では広く焼畑が行われヒエ、粟、大豆、蕎麦などが栽培されていたが、焼畑での生産力は限られたものであった。江戸時代の郡上一揆発生当時に農民たちは郡上での農業について、郡上藩は白山に近く大日ヶ岳、鷲ヶ岳などという山々に囲まれているため、春は遅くまで雪が残る上に水が冷たく、秋は霜や降雪が早く、稲作りに困難が多い上に、山間部にあるのでイノシシ、シカ、サルが作物を荒らすことが頻繁であり、農業による生活が苦しいと訴えた文章が残っている。延宝4年(1676年)にはこれまで一石につき三升であった口米が四升に増税されることが決められたため、豊かではない郡上藩領の農民は強く反発し、増税取り下げを要求した。当時の郡上藩主遠藤常春は幼少であり、郡上藩内では増税派、反増税派の争いが激しさを増して藩政の主導権争いとリンクし、大混乱に陥った。そのような情勢下で農民たちは一揆を起こし、結局、喧嘩両成敗の形を取って増税派、反増税派双方の責任者クラスを処分したという事態が発生していた。その上に、もともと生産性が高くなかった郡上郡内にも、時代の変革の波はやってきていた。郡上一揆が発生した江戸時代の中期には商品経済が発達を見せ、米以外に養蚕やタバコなどといった換金性の高い生産活動に従事することが増えた。これは本業である稲作においても、鉄製の農機具や肥料等の購入代金を得るために現金収入を得る必要性が高まっており、この結果、郡上でも養蚕や紙漉きなどといった労力を要する現金収入手段を得られる豪農と、そのような余裕が無い貧農との農村社会内の分化が始まっていた。またこのような社会情勢の変化に応じて、郡上藩は商品作物などに対する課税強化を進めていた。郡上一揆当時の郡上藩主は金森頼錦であった。金森氏は天正18年(1585年)に金森長近が飛騨を平定し、3万8,700石の領有を認められた後、関ヶ原の戦いで東軍に属したため、金森氏は引き続き高山藩主として飛騨一国を治めていた。第6代藩主である金森頼時の元禄5年(1692年)7月、金森頼時は飛騨の領地を召し上げられ出羽上山に転封となった。金森氏領地であった飛騨は天領となり、これは幕府が飛騨の豊かな山林資源や鉱物資源に目を付け、天領とするために金森氏を転封させたとも言われているが、転封の真の理由ははっきりしない。しかし金森氏の上山領有はわずか5年足らずで終わり、元禄10年(1697年)6月、今度は郡上へ転封となった。二度に渡る転封により金森氏の財政は大きく圧迫された。上山時代、財政難に見舞われた金森頼時は幕府の許可を得て家臣の召し放ちを行ったが、郡上藩主となった直後の元禄12年(1699年)、前々藩主であった井上正任、前藩主井上正岑の定めた、作物の収穫高を行った上で年貢高を決定する検見法による税率が高かったことにより、農民らが江戸表の金森藩邸に訴えるという事態が発生したため、金森頼時は作高に関わらず定率の年貢を賦課する定免法へと変更し、それに伴い税率も引き下げられた。転封とその直後に実施した税率引き下げにより財政状況が更に悪化したため、元禄14年(1701年)には幕府の許可を得て更なる家臣の召し放ちを行わざるを得なかった。その上、江戸の芝金椙邸は享保2年(1717年)に焼失し、享保8年(1723年)9月には再建されたが、翌10月に再び焼失してしまった。藩の財政難を案じた金森頼時はその後江戸藩邸の再建を行わず、元文元年(1736年)、仮住まいの江戸芝の藩邸で死去した。17世紀初頭の江戸幕府の開始時からしばらくの間、幕府財政は健全財政を保っていた。当初、幕府の財政を支えていたのが天領からの年貢収入の他に、金山、銀山からの鉱業収入、そして貿易収入であった。しかし17世紀後半になると鉱山の金銀産出量は激減し、貿易も厳しい制限が加えられるようになったためやはり収入が激減し、勢い幕府財政はそのほとんどを天領からの年貢収入で賄わざるを得なくなった。また支出の面から見ても、明暦の大火、そして5代将軍徳川綱吉による盛んな神社仏閣の建立、そして貨幣経済の発展による物価上昇によって、支出は膨らむ一方となり、元禄年間に入り幕府財政は赤字に転落した。幕府はまず貨幣の改鋳で収入を得るなどの対応策を立てるが、徳川吉宗による享保の改革によって、新田開発による耕地面積の拡大、そして年貢徴収率を高める年貢増徴策を押し進めることになった。幕府で年貢増徴策を強力に進めたのが老中の松平乗邑と勘定奉行の神尾春央であり、農村支配に通暁した「地方巧者」と呼ばれた人材を登用し、その結果、延享元年(1744年)には年貢収公量が180万石と江戸幕府最高の数値を記録した。幕府の天領で進められた厳しい年貢の取立ては、やはり財政難に悩む諸藩にも広まっていったが、年貢増徴は必然的に農民の激しい反発を招いた。享保期には一揆が頻発するようになり、更に一揆そのものの形態も、宝暦、天明期には年貢増徴策に対抗するために藩全体が蜂起する、全藩一揆と呼ばれる広範囲に影響が及ぶ大規模な一揆が頻発するようになった。郡上一揆はこうした全藩一揆の1つであった。そのような中、幕府は寛延3年(1750年)には幕領、大名領の農民の強訴、逃散を禁じる法令を出し、その後も厳しく一揆を取り締まる法令を次々と出して一揆の封じ込めに腐心したが、延享元年(1744年)以降、年貢収公量はじりじりと下がり始めた。また、米の値段が他の物価に比べて安い状態が続いたため、年貢米に依存する幕府や諸藩、そして武士の実収入も伸び悩み、そのような点からも年貢を厳しく取り立てることによって幕府財政健全化を図る政策に限界が見えてきた。郡上一揆が発生した宝暦期、幕府では享保の改革の方針を守る年貢増徴派に対し、商業資本などからの間接税収入に活路を見出そうとする派が現れ始め、路線対立が表面化していた。元文元年5月23日(1736年7月1日)、郡上藩主金森頼時は江戸芝の仮藩邸で没した。頼時の長男であり嫡子であった金森可寛はすでに亡くなっていたため、可寛の長男である頼錦が元文元年7月18日(1736年8月24日)に正式に郡上藩藩主の地位を継承した。頼錦は藩主継承時23歳であった。金森頼錦は自ら絵筆を取って寺社に絵馬を奉納し、また現在まで頼錦が描いた絵画が遺されており、歌集、漢詩集の編纂を行い、盛んに詩碑の建立を行うなど、詩歌、書画を好んだ文化人であった。そして時の将軍徳川吉宗は、金森頼錦が学問の志厚く、天文に興味を持っていることを聞き及び、延享元年(1744年)、頼錦に対して郡上八幡で天文観測を行い、その成果を報告するよう命じた。頼錦は吉宗の命に従い郡上八幡で天文観測を行い、翌延享2年(1745年)に観測結果を献上したとの記録が残っている。延享4年(1747年)、金森頼錦は奏者番に任じられた。奏者番は大名や旗本らが将軍に拝謁する際の取次ぎや、法要や大名家の不幸に際して将軍の代参を行う等の役目を担っており、将軍の身近で仕事をこなすために高い能力が必要とされた。そのため幕府内で有望株と目される若手大名が任命されるポストとされ、奏者番で有能であると認められれば、奏者番に寺社奉行の兼任を命じられ、その後大坂城代、京都所司代を経て若年寄そして老中へと出世していく道が開かれた。奏者番に任じられた頼錦の前途は明るいものと思われた。だが、奏者番は職務上諸大名らとの広い交際を必要としまた社交も派手になるため多くの費用が必要となった。藩邸の再建を抑えた祖父の頼時とは異なり、藩主継承後まもなく藩邸の再建に取り掛かったり、盛んに詩碑の建立を行うなど、文人肌の金森頼錦の生活は元来派手な面があったが、奏者番就任後は衣服等が華美になっていくなど、ますますその派手さを増していった。金森頼錦は藩主就任当初、将軍吉宗の施策に倣って郡上八幡城下に目安箱を設け、民衆の声を取り入れようと試みたが、目安箱に投じられた誹謗中傷をよく調べることなく採用して処罰を行うなどの失策を犯していた。そして藩主金森頼錦を苦しめたのが郡上藩の財政難であった。元来郡上領は豊かではない上に、二度の転封の結果、金森家の財政に余裕がなくなっている中で、元来派手な一面があった藩主頼錦は奏者番就任後にその派手さを増し、また諸大名家との交際費も嵩み、その結果として郡上藩の財政状況はどんどんと厳しくなっていった。また宝暦初年になると豊作のため米価が下落したため、藩財政はよりいっそう困窮することになった。厳しい財政事情の改善策として、藩主頼錦は藩士の俸禄の切り下げを行うなど、経費節減策を全く講じなかったわけではない。しかし財政難の解決方法として主に採用した対策はやはり増税であった。早くも頼錦が藩主となった直後の元文元年(1736年)に、藩邸の再建のために臨時の賦課にあたる御用金の徴収を命じ、領内の農民、町人、寺院に御用金を割り当てて2500両を集めた。そして金森頼錦はその後も毎年のように御用金、御供米の賦課を行い続けた。また生糸にかける税を引き上げたり、牛馬の往来に通行税を徴収することとしたり、そして親類などへの贈り物を持って番所を通過する際に、贈り物に対して税を取り立てるなど、あの手この手を使っての課税強化に努めた。また税の取立て以外にも多くの馬を御用として徴用したり、郡上城の工事などに人々を徴用するなど賦役も度重なるようになった。このように様々な手段で税を取立てるようにした上に、御用金、御供米の賦課、工事などへの使役といった施策を行っても、藩財政は改善を見せず厳しい状況が続いたため、元禄12年(1699年)に前藩主金森頼時によって定免法とされた年貢取立てを、見取免(検見取)にして年貢の増徴を図ることとなった。財政難に苦しんだ郡上藩は、年貢を増徴して収入の増加を図ることとなった。藩主頼錦の側近であった金森藩の江戸詰め役人である家老の伊藤弥一郎、用人の宇都宮東馬、宮部半右衛門らと、国元の役人の大野舎人、半田園右衛門らは協議して、年貢の徴収法をこれまでの毎年基本的に同じ分量の年貢を納める定免法から、実際の収穫高を算定して年貢高を決定していく検見法の中でも、特にそれぞれの田の収量を細かく把握して年貢高を決めていく有毛検見法に変更し、更に農民らが新たに開発していた切添田畑を洗い出して新規課税を行うことを計画した。年貢の徴収方法の変更には幕府老中の承認のもと、幕府勘定奉行の許可が必要であった。ここで役に立ったのが藩主金森頼錦の縁戚関係であった。金森頼錦は当時老中を務めていた本多正珍の娘と婚約していたが、正珍の娘は婚姻前に死去したものの、その後頼錦は正妻を娶らなかったので、本多正珍は頼錦の義父とされた。また金森頼錦の実弟、本多兵庫頭の養父は寺社奉行本多忠央であった。幕府要人との縁戚関係の他に、金森頼錦が務めていた幕閣と諸大名との交渉窓口である奏者番の役職も年貢徴収法の改正の許可を得るのに役立ったと考えられる。結局、勘定奉行の大橋親義から年貢徴収法改正の許可を得た上に、大橋勘定奉行から検地の名人とされる黒崎佐一右衛門を紹介され、宝暦3年(1753年)12月、郡上藩は黒崎を用人格として新たに召抱えることとなった。宝暦4年(1754年)2月、郡上藩は領内の各村に対して、田畑の詳細について記録した「田畑反別明細帳」の提出を命じた。同年6月から黒崎佐一右衛門は郡上藩領内を巡検し、各村から提出された田畑反別明細帳をもとに田畑の調査を始めた。黒崎の経歴ははっきりしないが常陸国の農民の出とも言われ、農村事情に明るく、郡上藩に召抱えられる以前も美濃国加納藩で代官を務め、やはり検見法の導入を図った前歴があり、郡上領内でも厳しく田畑の調査を進めていった。黒崎が行った郡上領内の田畑調査は、農民らに大きな不安を巻き起こした。まず宝暦4年7月11日(1754年8月28日)、小駄良口(旧八幡町)の庄屋たちが御用金負担が重いことを訴え、新規の課税と御用金の徴収を止めるよう嘆願した。宝暦4年7月15日(1754年9月1日)には、郡上領内の農民が吉田村(旧八幡町)に集まって藩に対して万事これまでの先例通りに行うように嘆願することを決め、宝暦4年7月16日(1754年9月2日)には那留ヶ野という場所に郡上郡内の庄屋、組頭が集まって、黒崎佐一右門が行った郡上領内の巡検は容認できるものではなく、何事によらずこれまでの先例通り行って欲しい旨の嘆願書を作成した。なおこの際、ほとんどの郡上郡内の庄屋が参加したが、3、4名の庄屋は参加しなかった。嘆願書は郡上藩側に宝暦4年7月17日(1754年9月3日)手渡された。黒崎佐一右衛門の郡上領内巡検に対して郡上領内で広範な抗議行動が発生したことにより、結果としてその後まもなく行われた郡上藩側の年貢徴収法の改正申し渡しに対して、農民側がすばやく抗議態勢を固めることが可能となった宝暦4年7月20日(1754年9月6日)、郡上郡全域の庄屋を郡上藩庁に呼び出した上で、代官猪子庄九郎、別府弥格の名で年貢の徴収法を元禄12年(1699年)に定めた定免法から検見法に変えることを申し渡した。申し渡しの趣旨としては、現行の年貢徴収法である定免法は元禄12年(1699年)に定められたもので、幕領ではすでに年貢徴収法が改正されており、現在の年貢徴収法は定法と異なっているため改正が必要であり、豊作年には多くの年貢を納め、凶作時には減免を行う検見法によって年貢を納めることは農民にとっても利益になるという内容であった。申し渡しを受けた庄屋らは、その内容が重大であるため農民たちと相談の上で回答する旨を回答した。庄屋が郡上藩庁に呼び出された時点で、危機感を強めていた農民らは八幡榎河原に集結し始めていた。このような情勢下で帰村した庄屋は、各村で行われた寄合で農民の年貢徴収法改正への激しい反発に直面することになる。各村はそれぞれ惣代を選び、宝暦4年8月2日(1754年9月18日)、郡上郡内の約120名の庄屋ら各村の惣代が郡上南宮神社に集まって惣代寄合を行い、神社の神前で一味同心の誓いを立てた上で傘連判状を作成し、年貢徴収法改正お断りの嘆願書を作成した。しかし嘆願書は藩側に手渡されたものの、藩側からきちんとした年貢徴収法改正断念の返事はなかった、結局、庄屋たち中心の惣代寄合メンバーによる交渉解決は断念され、農民らが直接藩に嘆願する方針に変更された。庄屋中心の惣代寄合メンバーによる交渉解決が行き詰った段階で、郡上郡中の各村農民に動員がかけられた。宝暦4年8月10日(1754年9月26日)郡上郡中そして郡上藩の越前領内からも集結した大勢の農民たちは、藩側に検見法への年貢徴収法改正断念を願う願書とともに、金森頼錦が藩主となって以降の各種の税や御用金、使役の負担増を指摘し、負担免除を願った十六か条の願書を差し出すという強訴に及んだ。この強訴には一般農民たち以外に、郡上藩が進めていた絹や茶、紙などといった商品作物に対する課税強化や、牛馬などに対する通行税取り立てに苦しむ豪農層、商人層の協力があり、郡上領内でも比較的豊かである郡上川沿いの藩南部、下川筋が主導していた。なお、この宝暦4年8月10日の強訴時点で、農民層の中に藩の施策に対して従順である農民が現れており、やがて藩に従順な農民たちのことを寝者、一方、藩に対抗していく農民らを立者と呼ぶようになる。強訴に対して藩側はまず代官猪子庄九郎、別府弥格が対応を行った。両代官は大勢の農民らの剣幕に恐れをなし、続いて家老である渡辺外記、粥川仁兵衛らが農民たちへの対応に当たった。農民の怒号が響き渡る中、両家老は願書を受け入れ検見法への年貢徴収法改正を断念する旨記した免許状を渡し、十六か条の願書についても了承する旨の免許状を手渡した。しかし免許状には渡辺外記、粥川仁兵衛両家老の署名印形はあったが、当時蟄居中であった筆頭家老の金森左近の署名印形がないことに農民たちが騒ぎ出したため、金森左近の署名捺印を経て、農民代表の小野村半十郎、剣村庄屋に免許状が手渡され、要求が受け入れられたことを確認した農民らは各村へと引き上げていった。なお郡上藩に召し抱えられた後、藩領の巡検を行って年貢取立て方法の改正を進めていた黒崎佐一右衛門は、宝暦4年8月10日の強訴騒ぎの中、郡上藩領から逃亡した。農民たちの強訴が当初比較的すんなりと受け入れられたのは、郡上藩内での路線対立が背景にあったものと考えられている。郡上藩内には年貢徴収法の改正によって農民たちから厳しく年貢を取り立て、藩の収入増加を図る方針に反発する勢力があり、筆頭家老の金森左近はその勢力の代表格であった。藩内の意見対立はその後も尾を引き、年貢増徴反対派の金森左近らは罷免されていくことになる。宝暦4年9月9日(1754年10月24日)、郡上郡内の庄屋たちは南宮神社に参拝し、宝暦4年8月2日に作成した傘連判状と三家老の署名印形がされた免許状を重要文章として1年ごとに各村巡回で庄屋が預かることを決定した。一方藩側は、農民らの強訴が行われた翌日の宝暦4年8月11日(1754年9月27日)、事態を伝える飛脚が郡上八幡から江戸へ向かい、江戸在府中の藩主に国元の事態を伝えた。続いて宝暦4年9月10日(1755年10月25日)には家老の渡辺外記、粥川仁兵衛らが江戸へ向かい、藩主金森頼錦に事態の報告を行った。宝暦4年11月26日(1755年1月8日)には郡上藩国元の役人の人事異動があり、年貢増徴派の役人が登用された。しかし宝暦4年12月8日(1755年1月20日)には、郡上郡中の村方三役が呼び出され、8月10日の強訴は不届きではあるが、農民らの訴えを聞き届ける旨の藩主の意向が示された。宝暦4年8月10日(1754年9月26日)の農民らの強訴によって、農民たちの訴えを聞き届ける旨の三家老の免許状が出され、藩主金森頼錦も国元家老の措置を追認したことによって、郡上藩の有毛検見法への年貢徴収法の改正はいったん頓挫した。しかし郡上藩内の年貢増徴派は有毛検見法採用を目指して巻き返し工作を開始した。年貢増徴派は美濃郡代の代官である青木次郎九郎から検見法採用の申し渡しを行い、幕命ということで農民たちに納得させる方法を考えついた。まず宝暦4年(1754年)12月、藩主金森頼錦の病気見舞いに幕府寺社奉行の本多忠央が訪れた際に、美濃郡代の代官から検見法採用の申し渡しを行うアイデアを説明し、代官青木次郎九郎の上司にあたる幕府勘定奉行の大橋親義への仲介を依頼した。先述のように本多忠央の養子である本多兵庫頭は金森頼錦の実弟であり、縁戚関係を利用しての依頼であった。本多は郡上藩側の依頼を了承し、宝暦5年(1755年)正月、江戸城内で大橋親義に対して郡上藩の意向を伝え、協力を指示した。その結果、大橋親義のもとに郡上藩の江戸家老伊藤弥一郎や、宝暦4年8月10日(1754年9月26日)の強訴時に郡上藩領内から逃げ出した黒崎佐一右衛門らが出入りするようになり、美濃郡代代官である青木次郎九郎を利用して郡上藩の検見法採用を強行する作戦が固められていった。その結果、幕府勘定奉行の大橋親義は美濃郡代代官の青木次郎九郎に対して郡上藩の検見法採用への協力を命じることとなった。しかし当初、青木次郎九郎は大橋の命令遂行に難色を示した。それは幕領ではない郡上藩領の年貢徴収法について、幕府役人である代官が命令するのは筋違いではないかという理由からであった。そこで郡上藩側は藩主金森頼錦の義理の父に当たる老中本多忠珍、そして大目付曲淵英元にも協力を依頼した。その上で大橋親義から更なる厳命もあり、青木は郡上藩領の検見法採用の命令を行うことは幕命同様のものであると判断し、郡上藩主頼錦ともたびたび相談をした上で、郡上藩領民に対して検見法採用を命じることとなった。なお金森頼錦は青木次郎九郎との相談時に、自らが幕府における重要な職である奏者番を勤めていることをことあるごとに強調し、圧力を加えた。宝暦5年7月16日(1755年8月23日)、郡上郡内36ヵ村の庄屋、組頭が郡上藩側から呼び出され、笠松陣屋に出頭するように命じられた。庄屋らは郡上藩の役人らに引率され笠松陣屋へ向かった。宝暦5年7月21日(1755年8月28日)、笠松陣屋で庄屋らは美濃郡代代官の青木次郎九郎から、昨年、領主から検見法の採用を言い渡されたが、検見法は土地の善し悪し、収穫の多少によって年貢高の変更がなされるため、農民にとって不都合な点はない。また郡上藩領でいまだに定免法が採用されているのは地方役人の怠慢と言え、幕府の定めた年貢徴収法である検見法を説明し、受け入れるように言い渡すものである。また十六か条の願書は検見法の受け入れ反対に乗じて強訴を行ったものであるため認め難いものではあるが、検見法を受け入れるのならば十六か条で取り上げられた課税について考慮することにするとの内容の申し渡しがなされた。その上で昨年手渡された農民たちの訴えを聞き届ける旨の三家老の免許状も提出せよと命じられ、もし承知しなければ重い罪科に問われると脅された。また笠松陣屋の元締めからは郡上藩主の金森頼錦が昨年は病気であったこともあって、美濃郡代に検見法の言い渡しを頼まれたものであるとの説明があった。青木次郎九郎らの言い渡しに対して、庄屋らは昨年の経緯を説明してみたものの、全く聞き入れる様子も無い上に代官所の役人、同行していた郡上藩士らの圧力もあって、庄屋らはやむを得ず印形をした。宝暦5年7月27日(1755年9月3日)には、笠松陣屋から11名の使いの庄屋が郡上に来て、残りの郡上郡内の約100名の庄屋も笠松陣屋へ出頭することとなり、宝暦5年8月1日(1755年9月6日)には、全ての庄屋がやはり強制的に印形をさせられた。もっとも富裕な農民、地主であった庄屋たちにとって、検見法を受け入れれば各種の税や御用金、使役の負担増の軽減を願った十六か条の願書受け入れの検討をするという方針は、商品作物や通行税への課税減免の検討という利益に繋がる内容であり、検見法受け入れは庄屋たちの利益に即したものであったとの説もある。宝暦5年8月2日(1755年9月7日)、笠松陣屋から三家老の免許状を受け取るための飛脚として小野村孫兵衛、甚十郎が派遣された。免許状を預かっていた小野村半十郎は飛脚に対して、いったんは農民らと相談した上で書状を渡すと告げたが、美濃郡代の命であると引渡しを強要されたため、やむを得ず渡すこととなった。しかし小野村半十郎は各村に三家老の免許状引渡しについて知らせており、宝暦5年8月4日(1755年9月9日)、問題の書状を携えた飛脚は追いかけてきた大勢の農民たちに郡上境の母野で追いつかれ、書状はその後行方知れずとなった。その結果、小野村半十郎、小野村組頭弥兵衛、小野村孫兵衛、甚十郎は三家老の免許状紛失の咎で村預け扱いとなった。宝暦5年8月4日(1755年9月9日)、笠松陣屋からの飛脚から三家老の免許状を奪い取った大勢の農民たちは、ただちに解散することなく今後の対策を協議した。その中でまず郡上郡中の代表として各村1名ずつ、総勢130名あまりが藩庁に行き、三家老の免許状を笠松陣屋に渡さぬように嘆願した。しかし藩側は、三家老の免許状を笠松陣屋に渡すことは殿様(金森頼錦)のご意思であり、殿様のご意思に背くのか背かぬのかと詰問され、これに対して橋詰村庄兵衛が「背くでもあり、背かぬでもあり」と答えたため、村預けとなってしまった。宝暦5年8月11日(1755年9月16日)には、笠松陣屋から庄屋代表9名と足軽4名が美濃郡代の命を携えて郡上郡境までやって来たが、大勢の農民たちによって追い返された。その後も農民たちは郡上郡境を固め、宝暦5年8月17日(1755年9月22日)には15名の庄屋と4名の足軽の計19名が郡上へと向かったが、農民たちは検見取了承に印形をした庄屋たちを郡上に入れるわけにはいかないとして、やはり追い返された。農民たちの庄屋の帰還阻止行動は約2ヵ月半に及ぶことになる。宝暦5年8月12日(1755年9月17日)、藩の弾圧が及びにくい郡上八幡の中心部から離れていて、山に囲まれた谷間である白鳥那留ヶ野に、主だった農民約70名が集まり盟約を結び傘連判状を作成した。その上で読み書きの能力などを考慮の上で各人の役割分担を行い、更に江戸にて訴訟を進めるための計画を立てた。この時点で郡上郡内各地域の農民代表による集団指導が成立した。農民代表らの構想は、まず藩主へ直訴することによって悪い役人が強行しようとしている年貢徴収法の改正を中止させることを目指した。那留ヶ野の盟約の後、郡上郡内の各地で農民らの盟約が交わされ、連判状、傘連判状などが作成された。これは農民らが団結して笠松陣屋から宝暦5年7月21日(1755年8月28日)に行われた申し渡しを受け入れないことと、庄屋の同申し渡しの受け入れ印形撤回を要求するものであった。那留ヶ野で盟約を交わした翌日の宝暦5年8月13日(1755年9月18日)、70余名の農民代表が江戸の金森藩邸に出訴するため郡上を出発した。農民代表の江戸出訴を1500名余りと伝えられる多くの農民が見送ったが、江戸に送った代表たちのことが気がかりになった農民は、宝暦5年8月22日(1755年9月27日)には、百石につき一名の割合で選んだ200名余りを新たに江戸に送った。しかし8月13日に出発した農民たちは那留ヶ野の盟約時に選ばれた農民代表であったが、8月22日に出発した農民は特に選ばれた人たちではなかったため統制が取れず、いつしかちりぢりとなってしまい全く役に立たなかった。なお当時、各街道には関所が設けられ通行手形のチェックが行われていたが、乞食、非人、渡世人ら村や都市に籍を置いていない人々については手形無しの関所通過が黙認されていた。江戸に向かった郡上の農民たちのいで立ちはみすぼらしく、乞食同然の姿であったため、通行手形無しの関所通過が咎められることはなかった。宝暦5年8月13日(1755年9月18日)に郡上を出発した農民代表は、9月初旬に江戸に到着した。江戸到着時、出発時70余名であった農民代表は40名に減少していた。江戸到着後、農民代表は馬喰町猶右衛門、鉄砲町太郎右衛門などに分かれて宿を定めた。代表たちはまずは江戸金森藩邸に願書を提出することとした。宝暦5年9月5日(1755年10月10日)、農民代表40名のうち3名が、宿屋江口屋仁右衛門の案内で郡上藩江戸屋敷に出向き、総百姓名で「宝暦4年に定免法の継続を明記した三家老の免許状を頂いたが、このたび笠松陣屋から庄屋たちが呼び出され、検見法を了承してしまった。ただでさえ生活が苦しい我々農民たちは検見法にされては生きては行けぬので、国元でもお願いしたが叶わなかったので、こうしてお願いに参上した。昨年秋に提出した十六か条の願書は添えなかったが、お尋ねがあればお渡しする。定免法にしていただければ大勢の農民が助かるのでぜひお願いしたい」という内容の願書を提出した。この願書を受け取った江戸金森藩邸は十六か条の願書提出を命じたため、農民たちは十六か条の願書に加えて、新たに十七か条の願書を作成し、一緒に提出した。十六か条と新たに作成された十七か条の願書を比較すると、十七か条はまず十六か条にはなかった総百姓名での提出であることと、農民が使役された際の賃金支給や、藩が勝手に村有林を伐採して伐採した材木を農民に運搬させることを中止するように願うなど、農民の生活に直接関係する訴えが多く、一揆の運動主体が中、貧農層に移ってきたことが想定される。宝暦5年8月13日(1755年9月18日)に農民代表が江戸へ向けて出発したことが、郡上藩の国元から江戸屋敷への急使によって知らされていた。郡上藩江戸家老の伊藤弥一郎らは対応策を練っており、農民代表らの対応に当たった用人の宇都宮は、代表を宿預けとした上でたびたび藩邸に呼び寄せたあげく、最終的には農民代表全員を牛込御箪笥町の藩別邸に監禁した。郡上領の境にあたる母野には、庄屋たちの郡上帰還を阻止するために大勢の農民が集まり続けていた。宝暦5年7月21日(1755年8月28日)の笠松陣屋における検見法受け入れの強要後に再燃した一揆は、騒動開始直後の高揚に加えて、農民内の主だった者が江戸に出訴した後には押さえが効かなくなったこともあり、過度に先鋭化した行動も見られた。例えば年貢を納めるように郡上藩側から指示が有ると、母野から少しも年貢を納めてはならない旨の指示がやってきたり、特に水呑百姓の中には寺社奉行の高札を引き抜くなど過激な行動に走る者も現れた。しかし早くも一揆勢内部に意見対立が現れ始めた。まず江戸出訴を行った40名の農民代表が分かれて宿泊した馬喰町猶右衛門宿、鉄砲町太郎右衛門宿の農民たちの間に意見対立が発生した。馬喰町猶右衛門宿に止宿した切立村喜四郎らはあくまで検見法を受け入れない立場を貫くべきだと主張したのに対し、鉄砲町太郎右衛門宿に止宿した歩岐島増右衛門らは宝暦4年(1754年)の十六か条、そして江戸出訴組が提出した十七か条の願書の受け入れを条件として検見法を受け入れるべきであると主張した。検見法受け入れ絶対阻止の切立村喜四郎らは郡上一揆の主流派となり、その後の運動を主導していくことになるが、反主流派となった歩岐島増右衛門らはやがて一揆に反対する強固な寝者となっていった。宝暦5年10月1日(1755年11月4日)、郡上藩の役人らが郡上藩境の母野で庄屋の帰還阻止活動をしている農民たちのところに現れ、農民らに宗門改めを行わねばならぬ時期に、宗門改めの実務を行う庄屋の帰還を阻止しているのは不届きであると通告した。同日、郡上藩の寺社奉行である根尾甚左衛門からも母野に集結していた農民らに騒動を止めるよう書状が送られたが、農民たちは那留村丹右衛門家来文六を使いに出して書状を寺社奉行に送り返した。使いとなった文六は縄手錠をかけられ、那留村丹右衛門家預けの処分となった。宝暦5年10月7日(1755年11月10日)、寺社奉行根尾甚左衛門は各村に宗門改めの実施を正式に通知した。そして根尾寺社奉行は各村の寺院に対し、宗門改めの実施のため農民らに庄屋帰還阻止運動を止めるように説得するよう伝えた。宝暦5年10月15日(1755年11月18日)、庄屋約120名が母野にやって来て、宗門改め実施のために郡上郡内に戻れるよう、農民らに説得を行ったが、この時は3000人と伝えられる農民らが庄屋たちの郡上帰還を阻止した。翌16、17日も5、6000人と伝えられる農民が母野に集結して庄屋帰還を阻止しようとしたが、宝暦5年10月23日(1755年11月26日)には、郡上郡の南部である下川筋の庄屋はひそかに帰還して宗門改めを行った。その後母野の農民たちの間で、庄屋の不在によって宗門改めを実施できないのはやはりまずいとの判断がなされ、約2ヵ月半に及んだ庄屋帰還阻止運動は終結した。庄屋が郡上郡内に帰還した頃には藩による弾圧が強化されたため、母野に集結していた農民たちは郡上藩外の関(現関市)の新長谷寺付近に家を借り、活動拠点を移すことにした。関寄合所と呼ばれようになった新たな拠点は、新長谷寺の門前町として賑わい人々の往来が盛んな関にあるため、郡上の農民らの出入りが目に付きにくかった。また郡上からも比較的近く、交通の要衝にあるため、郡上、江戸との連絡にも便利であった。宝暦8年(1758年)の郡上一揆解決まで、関寄合所は郡上藩の弾圧から逃れる避難所として利用されるとともに、江戸からの情報は藩や一揆に反対する寝者の情報操作を警戒して、必ず関連絡所を通じて郡上に伝えられることにするという情報統制を行い、文字通り郡上と江戸とを繋ぐ中枢の役割を担った。江戸に出訴を行った農民たちからの連絡がないため、宝暦5年10月下旬、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛の2名が新たに江戸に派遣された。二名は宝暦5年10月29日(1755年12月2日)、江戸に到着し、豊島町森田屋藤右衛門宅に宿を定めた。剣村藤次郎、栃洞村清兵衛はさっそく金森屋敷に向かい、40名の農民代表の消息について探りを入れてみたが全く手がかりがつかめなかったため、40名が郡上藩によって軟禁されているものと判断し、郡上藩に改めて訴えを行うことは危険性が高いため、公事師であった医師の島村良仙の協力で新たに訴状を作成した上で、藩主金森頼錦の弟である井上遠江守の邸に訴状を提出した。訴えを受けた井上家側は、翌宝暦5年11月1日(1755年12月3日)、家老の井上源太夫が郡上藩邸に出向き、訴状を役人に見せたが郡上藩側は全く取り合おうとはしなかった。かえって郡上から新たに上訴を行う農民がやって来たことを知った藩側は、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛が泊まる豊島町森田屋藤右衛門宅に足軽を差し向け捕えようとした。突然、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛の消息を尋ねる郡上藩足軽が現れた森田屋藤右衛門宅では、藤右衛門がとっさに2人とも不在である旨伝えたものの、足軽からは2人の引渡しを命じられた。善後策を協議した剣村藤次郎、栃洞村清兵衛は、1人が江戸に残りもう1人が江戸の状況を伝えるために郡上に戻ることにしたが、大きな危険が予想される江戸に残る役割を、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛ともに自分が担うといって聞かなかった。結局2人のうち年長の栃洞村清兵衛が江戸に残り、剣村藤次郎が郡上に戻ることになった。栃洞村清兵衛はまもなく郡上藩側に捕えられ、江戸金森藩邸に監禁された。清兵衛は取調べが行われることも無く重病になっても監禁され続け、結局牢死した。後に評定所で郡上一揆の吟味が行われた際に、郡上藩役人の手落ちの1つとして栃洞村清兵衛の牢死が取り上げられた。また郡上に戻った剣村藤次郎はその後も一揆の中核の1人として活躍を続け、宝暦8年(1758年)に行われた目安箱への箱訴を行った農民の1人となった。庄屋たちが郡上藩領内に戻った宝暦5年(1755年)10月末頃から、藩による一揆の弾圧が激しさを増すようになった。弾圧は江戸在府中の藩主金森頼錦の命を受け郡上に戻った用人宮部半左衛門が中心となり、宝暦5年10月25日(1755年11月28日)に三家老の免許状を紛失した件で村預けになっていた小野村半十郎に入牢を申し付けたのを皮切りに、一揆の首謀格と見られた農民30名あまりを拘束し入牢を申し付け、更に100名余りを手錠、村預けの処分を下した。宝暦5年11月になると藩の弾圧はいよいよ激しさを増した。郡上領内では入牢、手錠、宿預けの処分が連日60-70名行われ、激しい弾圧を避けるために郡上領内から逃げた農民も約200名に及んだ。一揆を弾圧しながら藩側は検見法による年貢取立てを強行し、とりわけ抵抗が激しい郡上郡内の上保之川(長良川)流域の上保之筋と吉田川流域の明方筋では、藩側も重点的に一揆勢の取締りを行った。井上正辰邸に訴状を提出した後に郡上へ戻ることになった剣村藤次郎も、11月半ばに関寄合所まで戻って江戸の情勢を伝え、その後郡上領内に戻ったものの、やはり藩側に拘束後投獄された。一揆勢に対する藩側の攻勢により、一揆から脱落する農民が続出し、最盛期には約5000人の農民が参加していたという一揆勢は数百人にまで減少した。この頃からあくまで一揆に参加し続ける農民たちを立者、立者が多い村を立村、一方、一揆から脱落し藩側に従順な農民たちを寝者、寝者が多い村を寝村と呼ぶようになった。なお郡上一揆と同時期、郡上藩の預り地であった石徹白では石徹白騒動が起きており、宝暦5年11月末から宝暦5年12月21日(1756年1月22日)にかけて500余名の人々が石徹白から追放されるなど混乱が長期化していた。郡上一揆と石徹白騒動は発生原因や経緯が異なる別個の事件であり、両者の事件当事者間ではっきりした連携がなされた形跡も見られない。しかし郡上藩側としては、石徹白騒動で行った500名以上の社人追放というきわめて強硬な処分は、一揆を続ける郡上藩領の農民への見せしめとする意図があった。宝暦5年(1755年)11月半ばに江戸から戻った剣村藤次郎は、関寄合所、それから郡上領内に戻って江戸の実情を伝えた。藤次郎から宝暦5年8月13日(1755年9月18日)に江戸に向かった農民代表らが郡上藩側に拘束されたと見られ、また藩主の弟、井上遠江守の邸に訴状を提出した剣村藤次郎、栃洞村清兵衛も藩側から追われる身となったことが伝えられ、一揆勢に参加する農民たちは憤激した。折りしも郡上領内では藩側の弾圧が激しさを増し、一揆から脱落する農民が相次いでいた。一揆勢は窮地に追い込まれている状況を打破するために、郡上藩ではなく幕府に直接裁きを受ける越訴を行うことを決定した。関寄合所では越訴を実行する願主を選ぶこととし、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、那比村藤吉の5名が願主に選ばれ、うち東気良村善右衛門、切立村喜四郎の両名が本願主となった。宝暦5年(1755年)11月半ば過ぎ、5名の願主に55ヵ村から選ばれた73名が付き添い、江戸へ向かった。一行は江戸に到着すると神田橋本町の秩父屋半七宅に宿所を定め、井上遠江守への追訴の際にも訴状作成に協力した公事師島村良仙の協力を仰ぎ、訴状を作成するなど幕府への追訴の準備を進めた。宝暦5年11月26日(1755年12月28日)、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、東気良村長助、那比村藤吉の願主5名に高原村弁次郎を加えた6名は、駕籠訴を決行するために老中酒井忠寄の江戸城登城の行列を待った。酒井老中の行列が現れると、訴状を提出しようと老中が乗った駕籠に駆け寄った。供の侍らに蹴散らされながらも、大声で泣きながら訴える声を聞きつけた酒井老中から声を掛けられたため、「美濃国郡上の百姓で、御訴訟願い奉る」と訴状を差し出した。酒井老中は駕籠訴人らの宿所を尋ね、自らの邸に連れて行くよう命じた。老中酒井忠寄の邸で帰宅を待っていた駕籠訴人は、夕刻の老中帰宅後に訴状が受理され、明日宿の主人とともに出頭するように伝えられた。宝暦5年11月27日(1755年12月29日)、宿の主人である秩父屋半七とともに出頭した駕籠訴人は、老中酒井忠寄から事情聴取を受けたあと、遠いところからやってきたので宿でしばらく休息するようにとの言葉をかけられた。なお江戸時代を通じ、老中など幕府要人の駕籠に直訴を行ういわゆる駕籠訴はしばしば見られたが、駕籠訴という言葉が初めて用いられたのは、郡上一揆における宝暦5年11月26日(1755年12月28日)の老中酒井忠寄に対して行った直訴が最初であり、越訴という言葉もほぼ同時期に定着することから、宝暦から天明期にかけて一揆や騒動の訴訟で越訴、そして駕籠訴という方法が多く用いられるようになったものと考えられる。また駕籠訴の実行は、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、東気良村長助、那比村藤吉の願主5名に加えて高原村弁次郎が参加したと考えられるが、弁次郎は土地を持たぬ水呑百姓であったため、正式な駕籠訴人とは認められなかった。そのため駕籠訴の後も、他の5名の駕籠訴人と異なり村預けの処分も下されることなく、一揆勢の江戸への飛脚などとして活躍を続け、後の評定所の裁判の際も罪を免れることになった。宝暦5年12月18日(1756年1月19日)、駕籠訴人願主の5名が町奉行の依田政次に呼び出され吟味を受け、宿預けとなる。宝暦5年12月18日(1756年1月19日)、宝暦6年(1756年1月19日)以降、町奉行依田政次によって駕籠訴人が提出した訴状の内容についての吟味が続けられた。そして笠松陣屋に提出を指示され、飛脚が陣屋へ向かう際に農民らに奪われた三家老の免許状も依田町奉行に提出された。駕籠訴によって郡上一揆の吟味が行われることとなり、あわてたのが美濃郡代代官の青木次郎九郎に対し、郡上藩の年貢徴収法改正問題への介入を命じた幕府勘定奉行の大橋親義らであった。幕領ではない郡上藩の年貢徴収法に対して幕府の代官が命令することは筋違いの異例な措置であり、事実が明るみとなれば問題とされるのは明らかであった。大橋親義はともに郡上藩の年貢徴収法改正問題への介入を行った大目付の曲淵英元らと相談してもみ消し工作を行い、更に町奉行による駕籠訴についての吟味や、宝暦7年(1757年)に行われた勘定所内の吟味においても、大橋はやはり曲淵らと話を合わせながら、美濃郡代の郡上藩年貢徴収法改正問題への介入への関与を否定し続けた。宝暦5年12月6日(1756年1月7日)、関寄合所に江戸からの駕籠訴決行の知らせが届いた。藩側の弾圧により窮地に追い込まれていた一揆勢にとって、駕籠訴決行は反転攻勢のきっかけとなった。同時期に駕籠訴について連絡を受けた郡上藩側は、まずは拘束していた農民に厳しい事情聴取を行ったが、続いて一揆勢との対立を和らげることを目的とした妥協策を立てることになった。また駕籠訴決行の連絡後、江戸からは駕籠訴の願主から資金不足について訴える書状が届けられている。江戸で訴訟を進めていくためには多くの資金が必要となるため、闘争資金の調達が大きな課題となってきた。またこの時期の願主からの書状には、郡上には「犬」がいると聞いているので、これまで交わした書状の扱いなどには十分に気をつけるように書かれているものがあり、一揆勢にとって体制を固めていくことが大きな課題となっていた。宝暦5年(1755年)末、関寄合所から郡上郡内へ送られた回状で、駕籠訴の決行と幕府による吟味が開始されたことを伝えるとともに、駕籠訴によって一揆が解決するとの見通しを伝え、併せて運動資金の調達を依頼した。このように駕籠訴は藩側の弾圧によって弱体化した一揆勢の組織再強化に格好の材料となった。また宝暦5年(1755年)末以降、一揆勢を構成する農民たちは駕籠訴を決行した5名の願主に対して証文を提出して結束を固めるようになった。駕籠訴の願主は立者と呼ばれる一揆勢から御駕籠訴様、願主様ないし大御公儀様と呼ばれるようになり、組織の象徴として強い権威を持つようになっていった。また一揆勢の間で指導者を選び出し、選ばれた指導者と一揆参加者がお互いに頼み頼まれ証文という証文を交わすといった組織固めが始まった。この組織は既存の村方三役といった農村組織とは異なった一揆勢独自のものであり、一揆組織の指導者を帳元と呼んだ。駕籠訴の受理を受け、郡上藩の別邸に監禁されていた40名の農民代表は放免された。宝暦6年1月6日(1756年2月5日)、放免された農民代表のうち15名が飛脚のように郡上に急ぎ帰った。江戸から郡上に戻った15名の農民代表から江戸の状況が詳しく知らされるとともに、江戸に残った農民代表は郡上に帰る旅費が工面できないので資金を送るように要請された。なお15名の農民代表が郡上に帰る際、藩側は農民たちに検見法を取りやめる代わりにこれまでの定免法で税率2分5厘増しとするという内容の、一揆勢との妥協案を記した添状を託した。郡上に戻った農民代表はすぐに郡上藩側に添状を渡した。宝暦6年1月18日(1756年2月17日)、郡上藩側は郡上郡内の村方三役を呼び出したが、明方筋、上之保筋の三役らはほとんど逃散し、下川筋の三役も逃散が相次ぎ、結局下川筋24村の村方三役が、藩側から検見法を取りやめる代わりにこれまでの定免法で税率2分5厘増しとするという内容の申し渡しを受けた。24村の村方三役は農民たちの意見を確認したいとして即答を避けた。藩側の意向で24村の村方三役は逃散した各村の村方三役にも藩側の意向を伝え、郡上郡内の村方三役は農民たちに検見法取りやめ、定免法で税率2分5厘増しとの藩側の妥協案を伝えた。しかし農民たちはこれまでかたくなに検見法にこだわっていた藩側が、駕籠訴が行われるや妥協案を提案してきたことに何か裏があるのではないかと考え、藩側の提案を受け入れようとはしなかった。結局村方三役らは宝暦6年1月25日(1756年2月24日)、農民らが承知しないとして藩側の提案を断った。一揆勢は大勢の人員を動員し、駕籠訴は大願成就であり、訴状が受け入れられるとの見通しを郡上郡内で宣伝し続けた。宝暦6年(1756年)の1月から2月にかけて、藩側の激しい弾圧によって一揆勢から脱落した上之保筋の寝者の多くが、立者と呼ばれた一揆勢に詫び証文を入れた上で一揆側への再加入するようになった。そして上之保筋で優勢となった一揆勢は明方筋そして下川筋でも攻勢に転じ、一揆勢への加入を強制する動きが強まった。このような藩に従順な反一揆側である寝者に対する一揆勢の攻勢を「寝者起し」と呼んだ。また一揆勢は立者と寝者を厳しく峻別するようになり、立者同士の団結を固めた。一揆が長期化する中で立者と寝者との対立は激しさを増していく。宝暦4年(1754年)7月の藩側の検見法言い渡しに始まる郡上一揆は、翌宝暦5年(1755年)7月には幕府の美濃郡代が介入し、その後、江戸出訴、追訴そして駕籠訴と活動を強化し、それに伴い多くの人員が訴訟のために江戸に詰めるようになり、また藩側の弾圧に対抗して郡上藩外に関寄合所が設けられ活動拠点となった。一揆勢は宝暦4年(1754年)8月の一揆開始当初から必要な費用を地域ごとに分担していたが、江戸、関、郡上をまたに掛けた活発な活動を継続するためには資金調達が欠かせず、活動資金を郡上郡内で分担する郡中割が行われるようになった。宝暦6年8月27日(1756年9月21日)、郡上藩側から、郡上郡内の村方三役から庄屋10名、組頭10名、百姓代10名の計30名が選ばれ、駕籠訴吟味において事情を確認するため江戸に向かわせることが言い渡された。一揆勢との軋轢に悩んでいた村方三役にとって、江戸で駕籠訴吟味の事情聴取を受けることは大きな負担であり、遠慮したい旨嘆願した。一部の村方三役は江戸行きを強く拒否して逃走したり、入牢、手鎖処分を受けた者もいたが、幕府の手によって進められている吟味を断りようもなく、9月に入って郡上藩代官猪子庄九郎、別府弥角の引率で30名の村方三役は江戸に向かい、宝暦6年9月17日(1756年10月10日)到着した。宝暦6年10月24日(1756年11月16日)、町奉行の依田政次役宅に5名の駕籠訴人と30名の村方三役が呼び出され、両者が対決する形で駕籠訴の吟味が進められた。吟味は駕籠訴で提出された訴状の内容について確認する方法で進められ、依田町奉行は5名の駕籠訴人の申し立てに好意的であり、吟味も優勢に進められた。また30名の村方三役に付き添った代官猪子庄九郎、別府弥角にも尋問がなされたが、両代官は厳しく叱責された。老中の駕籠になされた駕籠訴が受理され、町奉行による駕籠訴吟味の内容が一揆側の農民たちに比較的好意的であったのは、幕府内の路線対立が影響しているとの説がある。当時、あくまで年貢増徴によって幕府財政を維持しようという派と、年貢増徴策に対する農民たちの頑強な抵抗を目の当たりにして、年貢増徴策一本槍の財政再建に批判的な派の対立が表面化しており、郡上一揆の駕籠訴吟味は、年貢増徴策一本槍の財政再建に批判的な派によって推進されていたため、一揆勢に好意的なものになったと考えられる。また駕籠訴吟味が一揆勢に好意的であったことは、その後の一揆活動に少なからぬ影響を与えた。幕府は一揆勢の訴えに好意的であると判断したため、駕籠訴吟味の判決が出されることなく継続した一揆の裁きを、農民たちは目安箱への箱訴を行い改めて幕府に求めた。しかし箱訴によって開始された評定所での吟味は、一転農民たちにとって極めて厳しいものになった。郡上藩主金森頼錦は、宝暦6年(1756年)7月に参勤交代に伴う郡上帰国を予定していたが病気により延引され、宝暦6年9月7日(1756年9月30日)に郡上へ戻った。藩主の郡上入りに際し、在郡中であった郡上郡内の村方三役は藩領入り口で恒例の藩主の出迎えを行ったが、この時の藩主帰国時には出迎えに来なかった者も現れた。江戸での駕籠訴吟味の過程で、駕籠訴人は郡上で拘束されている者たちの赦免を願い出ていたがそれが認められ、郡上藩側に赦免を行うように通知された。その結果、宝暦6年(1756年)10月には郡上郡内で入牢、手鎖、村預けとされていた者の多くが赦免された。一方、藩主の郡上帰国後、郡上一揆のきっかけとなった有毛検見法の採用に批判的であった筆頭家老の金森左近が改易され、替わりに田島又五郎が取り立てられた。金森左近以外の有毛検見法採用に反対した郡上藩士も次々と失脚し、一方経済関連の役職が増員された。そして郡上藩側は宝暦6年も検見法による年貢取立てを強行し、宝暦6年中に年貢を納められない農民らは各村で手鎖の処分を受けた。宝暦6年10月24日(1756年11月16日)に町奉行の依田正次役宅で行われた5名の駕籠訴人と30名の村方三役の吟味後、宝暦6年(1756年)12月、駕籠訴人と村方三役代表双方に帰国が言い渡された。村方三役代表は自由に郡上へ向かうよう言い渡されたが、駕籠訴人5名は郡上藩の江戸藩邸から25名の足軽が付き添い、郡上へと向かった。5名の駕籠訴人は当時罪人扱いの者が乗せられた、籐丸駕籠に乗せられることもない上に、当時百姓身分では厳禁であった帯刀をして郡上へ向かった。なお、郡上への帰途に帯刀したことは後に行われる郡上一揆の幕府評定所での判決で罪状の1つに挙げられることになる。宝暦7年1月7日(1757年2月24日)、大勢の一揆勢農民の出迎えを受け、駕籠訴人は郡上へ戻った。駕籠訴人は郡上藩側から村預けを言い渡され、各村の庄屋宅の座敷牢に監禁処分となった。各駕籠訴人の座敷牢は郡上藩の足軽、そして各村の農民らによって昼夜わかたず交代で見張り番が行われ、親類縁者や立者農民との接触は厳しく禁止された。駕籠訴人の帰国によって一揆勢の活動は更に盛り上がり、駕籠訴受け入れの採決が下るであろうとの内容の文書を郡上郡内に広めた。一方、駕籠訴人と同時期に郡上へ戻った30名の村方三役代表や藩側は、駕籠訴は却下されたと触れ回った。実際には駕籠訴の吟味は裁決が下されることなく放置された。一揆勢の中で急進派であった上之保筋の立者は一揆勢有利の裁決が下されるものと楽観視して活動を更にエスカレートさせていくが、明方筋や下川筋の立者は上之保筋の活動に必ずしも同調せず、駕籠訴の吟味についても店晒しになるのではないかと冷静に分析していた。なお、駕籠訴の吟味は進められることなく放置されたが、幕府内部では宝暦7年(1757年)から宝暦8年(1758年)にかけて、郡上藩の年貢徴収法について幕府役人である美濃代官が介入したことに関して、勘定奉行の大橋親義に対する事情聴取は続

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。