高橋 信次(たかはし しんじ、1927年9月21日 - 1976年6月25日)は日本の宗教家。会社経営者。ハードウェアエンジニア。新宗教・宗教法人GLA創始者。高電工業株式会社の創業者であり、初代社長。人道科学研究所所長。長野県南佐久郡平賀村(現在の佐久市)の農家に男3人・女7人の10人兄弟の次男として生まれた。10歳の終わり頃(1938年9月)から現在で言う「幽体離脱」的な疑似体験をするようになり、身体とは別な意識を「もう一人の自分」と呼び、その現象に幼心に疑問を持ち続けた。1940年に平賀尋常高等小学校(現・佐久城山小学校)を卒業し、野沢中学校(現在の長野県野沢北高等学校)に入学。その後は本人談によると、中学を二年生(14歳)で中退し、当時の日本陸軍の陸軍幼年学校(仙台陸軍幼年学校)に進学。ついで陸軍士官学校に進学・卒業して、航空士官として出征し、終戦の翌年の1946年に復員。帰郷後、上京して大学入学資格検定試験を通過、日本大学旧工学部(現・理工学部)に通い電気工学を中心に学んだが、卒業論文が教授に不評だったため卒業資格は得られず、中途退学した。大学在学中の1952年(25歳)に大田区上池上に五、六人の従業員と共に自動制御装置を開発する為の工場を借りて仕事をするようになる。一方で、神秘世界の探求も行うことで「もう一人の自分」を求めたが、従来の宗教書はあまり読まずに独自の考えを続けた。その結果、「生と死」・「人生の目的」・「苦悩」、そして「それに対する祈りとは何か?」等、人生全体に対する疑問が増えて行き、知り合いの親しい仏教の僧侶に「あの世というのはあるのですか?」、「何故お寺を建てるのですか?」等と質問したが正直に応えるはずもない僧侶のはぐらかしに納得出来なかった。キリスト教会で牧師の説教を聞いたりしたが、「イエス・キリストを信じる者は、救われる」という話で、信じなくては救われない/地獄に落ちる、という教えに不合理さを感じ、離れた。また、キリスト教以外にも世界真光文明教団などいくつかの新宗教団体をも訪れているが、そのいずれにも納得が行かず、オリジナルな宗教の必要性を求めていったという。1954年12月には、日本橋の電気店で働いていた青果商の娘・一栄と27歳頃に結婚。1956年長女が生まれる。後の継承者、GLAの代表となる高橋佳子である。その頃から予言はほとんど的中する等のフレコミで人を集め、相談に来る人でアパートが溢れる事も何度かあったという。二度の事業失敗を経て、1962年(35歳頃)に個人商店として大田区大森にコンピュータ機器を開発する高橋電工を設立、1964年(37歳頃)に高橋電工を会社組織に改め高電工業株式会社を設立し代表取締役社長に就任。同時に自身もハードウェアを開発する工員として医療器具製品を開発する。ほか、八起ビル管理株式会社社長、人道科学研究所所長等を兼務した。そして、1968年頃(40歳頃)から霊現象が生じるに至り、義弟を通じて「ワン・ツー・スリー」や「フワン・シン・フワイ・シンフォー」と名乗る霊からの連絡を受けると、執着を捨てた安らぎの境地に到達した気分になれたという。その後、それらの霊魂は後のGLAの教義で言う「守護・指導霊」に位置付けた。「フワン・シン・フワイ・シンフォー」は、高橋の「守護霊」であるとし、後にイエス・キリストその人であると設定された。また、「ワン・ツー・スリー」と名乗ったとする霊魂は、高橋の「指導霊」であるとし、後に歴史上のモーゼ/ヘブライ人奴隷であると設定された。その後、彼らからの指導を受けて悟りの境地に到達したと自負する高橋は、宗教家としての道を歩みその経験を著作として著し始めるとともに、人々の過去・現在・未来を見通すというフレコミ等で人を集め、また肉体を持たない「霊」を霊視(文字通り霊を目視すること)し、これとコミュニケートしたり、人々についているという霊を取り除いた(ただし、「神理」を口説き、その非を悔い改めさせるスタイルがメインであった)等と、自身の講演会において数多くの奇跡を残したと自画自賛した(高橋信次『心の発見 現証篇』参照)。古代エジプト語、ヘブライ語、5世紀の中国語、古代マガダ語(マガダ国)等を少しは話せるとしたが、高橋は、これらはあくまで人々を救うため、天上界で予め約束されていた(また証明としての)「方便/布教」であるとし、特に興味本位的に過度にとらわれることを嫌った。これらは、モーセの時代にも、イエス・キリストの時代にも、ゴータマ・シッダールタ(釈迦牟尼仏)の時代にも、現れた現象だと設定されている。著書や講演会で高橋は「慈悲」と「愛」、そしてその実現のための実践として「八正道」、「反省」(キリスト教的には懺悔・悔い改めに相当するとされる)を布教活動ツールにしていたといえる。また、仏教、ユダヤ教、キリスト教、は天上界(いわゆる「あの世」において特に調和された世界とされる。以降を参照)の指導によって作られたものであり、その精神は、「法」(自然の法則、宇宙の法則)に発するものであり、時代背景によってモディファイされているが本質は変わらない、GLAも同類であるとした。会社経営や教団運営、信者の個人指導や著作の執筆等により、高橋の睡眠時間は一日3-4時間という生活(不眠症)であったともされ、以前から自分の生命に関わることが48歳の時に起こると予告していた。晩年には、1976年3月に白浜の研修会にて自身をエル・ランティーであると宣言。同年6月4-5日東北研修会の『新復活』『太陽系の天使達』を最後の講演とし、同6月25日午前11時28分、48歳で死去。GLA総合本部は佳子が継承、2代目主宰者となった。高電工業株式会社は一栄が社長に就任、引き続き医療機器・バイオ関係装置の開発・製造を行っている。高橋がイエス・キリストとモーセとの出会いを経て悟りの境地に到達した、という口コミに引き寄せられた人が自宅に招かれた。当初は毎週土曜日に集まっていた為に、「土曜会」と称していた。1969年4月頃からそれらの人々が百人近くに増えた為、都営浅草線浅草駅近くの自身の所有する八起(やおき)ビルで説くようになった。当時、この団体を、「大宇宙の神の光というものを顕現する会」という設定で、「大宇宙神光会」と称していた。その後、大阪にあった瑞法会教団(霊友会の支部が竹本千代を会長として分派独立。竹本没後、次長の中谷義雄が会長となり、高橋を瑞法会教団に招聘した)が集団帰依・合併するに至ったことを契機に宗教法人となり、名称を「宗教法人ジー・エル・エー総合本部」、略称を「GLA」とした。また、瑞法会教団は高橋没後に見解の相違から離脱、「宗教法人GLA関西本部」となった。高橋の没後、その考えを学ぼうと、法人格を持たないグループ、または個人はいる。また、弟子等による関連著作が出版されている。高橋が創設したGLAから派生した団体、教義に影響を受けたとされる団体等を総称して、GLA系諸教団と呼称されることがある。高橋は、時代が変わっても変わる事のない「正法・神理」(神が定めた自然の法則。「法」とも)、すなわち釈迦、イエスが説いた教えと大差はないことを主張し、魂の実在、実在界(あの世)の実在を説いた。各人の魂は死後、その人格(魂の光の量として反映。神との調和度が高いほど、光量が多い)にリンクした地位に赴くとし、各人の魂の成長及び地上の調和のための方法である釈迦の説いた八正道を基礎とし、不調和な想念と行為により自らが作り出したとされる精神の汚れをぬぐい、本来魂が受けているとされる神の光を受けるために必要とされる「反省/アンテナ」の重要性を訴えた。また、反省後の想念・行為の実践を重視し(詳細は、以降の教義の節を参照)。また、人々の心と心の調和のとれたユートピアの建設、諸宗教の誤りの是正、いずれもが天上界の指導によって作られたとする仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラームの統合を目指した。高橋は、上記の、自身の説いた「正法・神理」(神が定めた自然の法則。「法」とも)を、自ら実践していたとされ、講演会が地方で行った後、数時間は自身の「法」に誤りはないか、等「八正道」に基づく「反省」をしていたとされる。また、ホームレスや知的障害を持ち家出癖のある女性、反社会的勢力(やくざ)の構成員など、自立が困難な人を引き取り、生活させていたとされる。また、宗教、思想における盲信・狂信を批判、マルクスに習い「盲信による宗教はアヘンである」とし、自身の説くGLAについても、信じる前に疑問を持ち、疑問を持ったならその疑問の追究を怠ってはならず(これは途中脱会の予防に繋がる)、疑問がすべてなくなったときに到達するものは神理(神の摂理・自然の法則)であると位置付けている。神理でないから必ず矛盾が生じているとした。 さらに、宗教を生活の糧にするべきではないと位置付け、宗教活動による収益は蓄財し、高電工業株式会社の収益で生活していたとされる。GLAの運営が厳しい時期には会社の収益の一部を充てたとされる。
出典:wikipedia
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