2008年のF1世界選手権は、FIAF1世界選手権の第59回大会となる。2008年3月16日にオーストラリアで開幕し、11月2日にブラジルで開催される最終戦まで、全18戦で争われた。2007年シーズンの最終戦まで激しいタイトル争いを繰り広げたマクラーレンとフェラーリが2008年もタイトル争いの中心となった。マクラーレンのルイス・ハミルトンはエースドライバーに成長したが、ドライビングマナーを問われて度々ペナルティを受けた。一方、フェラーリでは前年チャンピオンのキミ・ライコネンに代わり、フェリペ・マッサがタイトル争いに名乗りを上げたが、トップ走行中の2度のトラブルなど不運に見舞われた。前年に続き、最終戦ブラジルGPがチャンピオン決定戦となった。レースはラストラップに向かう時点でマッサの逆転チャンピオンが濃厚になっていたが、チェッカーまで残り僅かとなってハミルトンが順位を上げるという劇的な結末によって、ハミルトンのチャンピオン獲得が決定した。前年は1ポイント差でタイトルを逃したハミルトンは、今回は1ポイント差で栄光を手にした。23歳300日での戴冠はのフェルナンド・アロンソを抜く当時の最年少記録となり(にセバスチャン・ベッテルが更新)、「黒人初のF1チャンピオン」という肩書きも与えられた。2008年シーズン中の優勝者は7人を数え、新たに3名のドライバーと2つのチームが初優勝を経験した。BMWザウバーのロバート・クビサはカナダGPで優勝し、ポーランド人初のF1ウィナーとなった。BMWザウバーは前進のザウバー時代も含めて初勝利を手にした。クビサはこの勝利で一時ポイントリーダーとなり、終盤戦までチャンピオン争いに加わった。マクラーレンのヘイキ・コバライネンはハンガリーGPで初優勝し、の選手権開幕以来100人目の優勝ドライバーとなった。トロ・ロッソのセバスチャン・ベッテルはイタリアGPで最年少ポールポジションと最年少優勝を達成した。トロ・ロッソも前身のミナルディ時代を含めて初勝利となり、最終的に本家のレッドブルを上回るコンストラクターズランキング6位を獲得した。また、古巣ルノーに復帰したアロンソは終盤戦のアジアラウンドで2連勝し、シーズン後半戦はハミルトンやマッサに匹敵するポイントを獲得した。2007年最終戦ブラジルGPでスポット参戦した中嶋一貴が、ウィリアムズからF1フル参戦を開始した。2006年シーズンから参戦を続けていたスーパーアグリは開幕前から資金難が表面化し、チーム存続を賭けた売却交渉も成立せず、第4戦スペインGPを最後に活動を休止した。さらに、スーパーアグリを後援していたホンダも、リーマン・ショック後の経営環境悪化を受けて、シーズン終了後にF1からの撤退を発表した。チームは当時のチーム代表であったロス・ブラウンに売却され、ブラウンGPとして2009年シーズンに参戦することになった。また、2年続けて日本GPを開催した富士スピードウェイは、2009年から鈴鹿と隔年開催することが決まっていたが、2009年7月に返上を表明したため、結果的に2008年が富士での最後のF1開催となった。その他2008年度のエントリー申請は2006年3月31日に締め切られ、12枠に22チームが応募したと発表された。既存の11チームに加えて11の新チームが応募したことになる。これだけ新規参戦希望が集まった背景には、マックス・モズレーFIA会長が断行するコスト削減案がある。コンコルド協定の改訂により2008年からオリジナルシャーシを開発せずとも、カスタマーシャーシを購入して参戦することが認められるという見込みがあった。また、FIAと対立し、2008年からの新シリーズ発足を表明しているグランプリ・マニュファクチャラーズ・アソシエーション (GPMA) 加盟メーカー5社に対する牽制という見方もあった。最終的にGPMA側が分離独立を断念し、2008年のエントリー申請を行った。FIAは22チームの名を公表しなかったが、報道では以下のような新規応募者が予想された。その他に、元F1ドライバーのエディ・アーバイン、B・A・R元チーム代表のクレイグ・ポロック、ジョーダン元オーナーのエディ・ジョーダンといった人物の名も挙げられた。2006年4月28日、FIAはエントリーを承認した12チームを発表。既存11チームに加えて、プロドライブが選出された。しかし、カスタマーシャーシの解禁を巡る調整が難航し、コンコルド協定の更改が不透明になったことから、2007年11月にプロドライブは2008年の参戦を断念すると発表した。
出典:wikipedia
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