アイク&ティナ・ターナー (Ike & Tina Turner) は、1960年代から1970年代にかけて活躍したアメリカのポップ、ソウルデュオ。
アイク・ターナーとティナ・ターナーの夫婦(後に離婚)のチーム。16年間にわたって、ロック、ソウル、ブルース、ファンクなど幅広い音楽を手がけた。グラミー賞を獲得した「プラウド・メアリー」のカバーが有名。1991年にロックの殿堂入り。1956年、16歳のアンナ・メイ・ブロック(後のティナ・ターナー)は、彼女の母親、姉妹と同居するために故郷テネシーからセントルイスに移住。
アンナは彼女の姉妹と共に夜な夜なナイトクラブに通い詰め、そのうちのひとつでザ・キングス・オブ・リズム(The Kings of Rhythm) のメンバーとしてステージに立つアイクと出会う。
バンドが聴衆をステージに上げて歌わせているのを見て彼女も果敢にステージに上がり、「アイ・ノウ・ユー・ラヴ・ミー・ベイビー」("I Know You Love Me Baby") をB.B.キングバージョンで歌い上げた。
今も彼女のトレードマークとなっている、喉をきしませる独特の歌い方はアイクを感動させ、仲間内で「リトル・アン」と呼ばれていた少女はバンドのバッキング・シンガーとして雇い入れられた。ある日、バンドのメインボーカリストがレコーディングに現れなかった際、アイクはアンナを抜擢。当時アイクとの子供を身ごもっていた妊娠8カ月のアンナは「ア・フール・イン・ラヴ」("A Fool in Love") を彼女のボーカルでレコーディングした。
当初はその場限りのつもりであったアイクは、彼女のボーカルを聞いた後、アンナを前面に立ててプッシュしていくことを決め、彼女の芸名をティナに変えて、彼の姓であるターナーを付け加えティナ・ターナーを誕生させた(当時アイクはまだ別の女性と結婚していたが)。彼はグループ名もザ・キングス・オブ・リズムからアイク・アンド・ティナ・ターナー・レビューに変えた。「ア・フール・イン・ラヴ」はアイク・アンド・ティナ・ターナー・レビューのファーストシングルとして1960年冬にリリース。ビルボードのホットR&Bチャートの2位、アメリカン・ポップ・シングル・チャートの27位にまで達するヒットととなり、2人は一躍全米クラスの知名度を得る。
翌1961年にリリースした、ローズマリー・マッコイ作のセカンド・シングル「イッツ・ゴナ・ワークアウト・ファイン」("It's Gonna Work Out Fine")は、前作に続きホットR&Bチャートの2位、アメリカン・ポップ・シングル・チャートの14位にまで上昇した(この曲にはバックグラウンド・ボーカルとして、一発屋のデュオミッキー&シルヴィアのミッキーが協力している)。
この曲で、2人のコンビは早くも初のグラミー賞ノミネートという快挙を成し遂げる。1962年の3枚目のヒット「プア・フール」("Poor Fool") も38位まで上昇。しかしながら、彼らの人気を後押ししたのはチャートアクションのみならず、一連のエキサイティングなショウによるところも大きかった。彼らは『シンディグ!』("Shindig!")、『ハリウッド・ア・GoGo』、『アメリカン・バンド・スタンド』などのテレビ上にも積極的に露出し、ティーンエイジャーたちを熱狂させた。1960年代の半ばまでにアイク&ティナ・ターナー・レビューは国民的人気を獲得した。1966年、フィル・スペクターのフィリーズ・レコードと契約。「リヴァ-・ディープ - マウンテン・ハイ」("River Deep – Mountain High")をレコーティング(アイクは録音に参加せず、ティナの単独レコーディング)。アメリカではビルボード・ホット100の88位までしか上がらずスペクターを失望させたが、イギリスで3位まで上昇する大ヒットとなり、これがきっかけとなってローリング・ストーンズの1966年と1969年のアメリカ・ツアーのサポートアクトに抜擢され、2人は国際的スターへの足がかりをつかむ。1969年には、ブルース色の強い「オウタ・シーズン」("Outta Season") と、アルバート・キングのカバー「ザ・ハンター」("The Hunter") のリリースでより大きなチャートアクションを獲得。ティナはアルバム『ザ・ハンター』からの「ボールド・ソウル・シスター」("Bold Soul Sister") でグラミー賞ベストR&B女性ボーカルに2度目のノミネートを受ける。1970年、「エド・サリバン・ショー」に出演、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのカバー「プラウド・メアリー」と「ボールド・ソウル・シスター」を披露した。「プラウド・メアリー」は1971年春にシングルとしてリリースされ、ポップシングル・チャートで4位まで上昇し、アメリカのチャートにおける過去最高位を記録、1972年にグラミー賞を獲得した。1975年頃には、アイク・アンド・ティナ・ターナー・レビューの人気は色あせた。
最初にアイクのバンドに加入してから17年後、ティナはソロ活動に向けて行動を開始、「シェール・ショー」や「マイク・ダグラス ショー」などの番組にアイクを伴わず単独で出演した。同じ年に彼女は、ザ・フーのミュージカル映画『トミー』にアシッド・クイーンの役で出演、素晴らしい演技を披露した。このころよりコカインを常用するアイクのティナに対するDVが深刻になり、彼はティナへのコントロールを保つために彼女に暴行を続けるようになった(後に、ティナは自伝"I, Tina" の中で、アイクがグループ活動の期間中ずっと、また16年の結婚生活の間中彼女を監督するのに暴力を続けたと述べた)。
ティナは最終的に、ダラスでのショーの直前にホテルから逃亡。1976年にグループは解散した。その後ティナは離婚訴訟を起こし、1978年に和解するまで2人は法廷で争った。注釈なきものはすべてティナのリード・ボーカル
出典:wikipedia
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