パリメトロ5号線(パリメトロ5ごうせん、"Ligne 5 du métro de Paris")はパリ交通公団(RATP)の運営するフランス・パリのメトロ(地下鉄)路線の一つ。パリ南東部のプラス・ディタリー駅からパリ市の東よりを南北に縦断し、北東部郊外のボビニー=パブロ・ピカソ駅に至る。5号線の南端のプラス・ディタリー駅は13区のイタリー広場の地下にある。ここから北北東に進み、オステルリッツ駅を経由してオステルリッツ高架橋でセーヌ川を渡り、サン・マルタン運河の西に沿うように北上してバスティーユ広場を通り、やや西寄りに向きを変えてレピュブリック広場、東駅、北駅などを経由する。北駅からは北東方向に向かい、ポルト・ド・パンタンで市境を越えて北東部郊外のボビニー市に至る。5号線は1906年に開業した、パリで5番目のメトロ路線である。1907年から1942年までは現6号線のエトワール(現シャルル・ド・ゴール=エトワール駅)〜プラス・ディタリー間も5号線の一部であり、パリを南部から東部にかけてほぼ3分の2周していた。サン・マルセル駅北方からセーヌ川を渡ってケ・ド・ラ・ラペ駅南東までの区間は高架線となっており、ケ・ド・ラ・ラペ駅の前後は掘り割り状の地上線である。またボビニー-パンタン-レイモン・キュノー駅とボビニー-パブロ・ピカソ駅の間も地上線である。1898年のメトロ整備計画では、5号線(E線)はオステルリッツ橋(現ケ・ド・ラ・ラペ駅付近)からストラスブール大通り(現東駅付近)までとされており、プラス・ディタリー〜オステルリッツ橋間は環状路線の2号線(B線)の一部とされていた。なお2号線はプラス・ディタリー以西では現6号線のルートを通り、オステルリッツ橋以東ではリヨン駅で1号線と合流してナシオン駅に向かうことになっていた。後に2号線の環状運転計画は取りやめられ、また北端は北駅まで延長されてプラス・ディタリー〜北駅が5号線として建設されることになった。ただしケ・ド・ラ・ラペ駅〜リヨン駅間には単線の連絡線が建設され、初期にはリヨン駅が仮の終点となっていたこともある。1906年から1907年にかけてプラス・ディタリー〜北駅間が開業し、また1907年10月には2号南線のエトワール〜プラス・ディタリー間が5号線に編入された。1942年にはエトワール〜プラス・ディタリー間が6号線に移管され、また北駅から北東方向に郊外のエグリーズ・ド・パンタン駅まで延長された。延長にあたって北駅は東よりに移設され、ループ線状の終点となっていた旧駅は放棄された。この部分は現在乗務員の訓練施設として使われている。1985年にはさらに北東へ延伸された。なおプラス・ディタリーから南西方向への延伸も計画されたことがあるが、実現しなかった。1978年から1980年にかけて投入されたMF 67が使われている。全長は約90m。各車両ごとに片側4つのドアがある。非常時を除き車両間の往来はできない。車両基地はボビニー-パンタン-レイモン・キュノー駅とボビニー-パブロ・ピカソ駅の間の本線沿いのボビニー(Bobigny)にある。大規模な検査や改修作業は7号線のショワシー(Choisy)車両基地で行われる。ケ・ド・ラ・ラペ駅とバスティーユ駅の間にはアルスナル(Arsenal)駅があったが、1939年9月2日に廃止されている。開業時の北駅は現在よりも西寄りにあり、ループ線状の終着駅だった。またループの途中から2号線、4号線への連絡線があった。5号線の北への延伸にあたって北駅の構造が障害となったことから、東駅のすぐ西からトンネルが掘り直され、新たな駅が建設されて旧駅は廃止された。この跡は現在ガール・デュ・ノールUSFRT(Gare du Nord USFRT)と呼ばれ、1981年にRER B線建設のために一部が取り壊されたものの、残った部分は乗務員の訓練施設として使われている。現在貨物線として使用されている環状鉄道グランド・サンチュールの北部を旅客化する構想Tangentielle Nordがあり、これに合わせてボビニー-パンタン-レイモン・キュノー〜ボビニー-パブロ・ピカソ間に新駅を建設して乗換駅とする構想がある。
出典:wikipedia
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