六角 義秀(ろっかく よしひで)は、戦国時代の武将。六角義実の子(または義実の父・六角氏綱の子)とされているが、歴史学の一般的な通説においては、氏綱の弟の六角定頼が家督を継承し、以降定頼の子孫が六角氏の家督を継いだと考えられており、義秀の系統は信頼性は高くない近世の系図類と江源武鑑などの偽書にしかなく、子孫を称した沢田源内による江戸期の系図改変のなかで創作されたものとされている。以下は六角義秀実在説を唱える佐々木哲の説に基づく。天文14年(1545年)、元服して義秀と名乗り室町幕府に出仕する。この少し後、自ら火薬の製法を学ぶなど鉄砲の導入に積極的だった将軍足利義輝の命令を受け、近江国友村に庇護を与えて組織的に鉄砲を製造させている。以後国友村は豊臣政権の時代まで鉄砲の産地として天下に知られ、中央の管理と庇護を受けることとなる。天文22年(1553年)、義輝と三好長慶が合戦に及んだ際に負傷し、以後は病身となり六角義賢が陣代を務めたが、義賢の専権はやがて観音寺騒動を引き起こしそれが引き金となって幕府崩壊の危機を招くまでになる。永禄8年(1565年)、この義賢の専権が遠因となって将軍義輝が暗殺されると義輝の弟一条院覚慶(足利義昭)を庇護。織田信長の同母妹(諸説あり)お市の方と浅井長政の婚礼成立に周旋する(周旋したのは木下藤吉郎という説もある)など、外交を駆使し織田・浅井・朝倉ほかの支持勢力を糾合して義輝を暗殺した松永・三好氏に対抗、のみならず覚慶を領内に庇護し足利義昭として還俗させ将軍足利義栄の対抗馬として擁立することに成功している。病身となり武将としての行動には支障を来たしたものの、完全に病臥するほどではなかったようである。その後は家中の分裂・混乱に翻弄され、永禄11年(1568年)信長が上洛すると、これに呼応し、信長の指揮下に入る。その後の動向は不明であるが、信長時代に死去したという。没年として永禄12年(1569年)が伝わる。放浪時代の秀吉を召抱えたという説がある。また当時元吉と名乗っていた藤吉郎に偏諱を与えて秀吉と名乗らせた事跡が天正三年の項目に書かれ、天正十二年の項目では秀吉の口から語られている(『江源武鑑』巻十七、巻十八)。このほか斎藤秀龍(道三)、明智光秀らにも偏諱を与えたのではないかと言われている。
出典:wikipedia
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