イーノス・スローター(Enos Bradsher Slaughter, 1916年4月27日 - 2002年8月12日)は、1940 - 1950年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの選手。主なポジションは右翼手。ノースカロライナ州ロックスボロ生まれ。右投げ左打ち。ニックネームは"Country"(カントリー)。1940 - 1950年代のカージナルスの看板選手だった。にセントルイス・カージナルスと契約し、3年後の1938年にメジャーデビュー。1年目から112試合に出場し打率.276の成績を残す。スローターはスムーズなレベルスイングから、確実にボールを打ち返すコンタクトヒッターとしてカージナルスのレギュラーに定着、2年目には打率.320と、リーグ最多の52本の二塁打を放つ。打率は戦時下でプレーをしなかった1943 - 1945年を除いて5年連続で3割を維持し、1942年シーズンにはリーグ最多の188安打、打率.318を記録して最多安打と首位打者のタイトルを獲得する。第二次世界大戦中は従軍しサイパン島に派兵されていた。後日スローターは当時を回顧し、『俺たちが球場を作って野球をしていると、崖の上から日本兵が無防備に見ていた』という証言を残している。戦後、シーズンには130打点でリーグの打点王を獲得。ワールドシリーズでも二塁打、三塁打、本塁打それぞれ1本を含む8安打を放ち、カージナルスをワールドシリーズ制覇に導いた。またオールスターゲームには、1946年以降トレードされる1953年まで8年連続の出場を誇る。1953年にカージナルスを離れ、ニューヨーク・ヤンキース、カンザスシティ・アスレチックスと渡り歩く。シーズン途中からヤンキースに復帰。この年から3年連続でワールドシリーズに出場した。にミルウォーキー・ブレーブスに移り、この年が大リーグ最後のシーズンとなった。その後も、はマイナーリーグでプレーした。1985年にベテランズ委員会がアメリカ野球殿堂入り選手に選出。彼の現役時代の背番号『9』は、1996年にカージナルスの永久欠番に指定された。2002年に悪性リンパ腫のためノースカロライナ州にて死去。1946年のレッドソックスとのワールドシリーズ、3勝3敗で迎えた最終第7戦で、3-3の同点の8回、打者ハリー・ウォーカーが二塁打を放ち、一塁走者のスローターは一塁から一気に本塁に生還、シリーズを決定づける決勝点を挙げる。この時の闘争心むき出しの走塁は、ファンに「マッド・ダッシュ」と名づけられスローターの代表的なプレーとなった。このプレーでは記録上、ウォーカーの打撃結果は二塁打とされているが、実際の当たりはシングルヒットがふさわしい内容で、バックホームの間に二塁に進塁しており、「シングルヒット」と「野手選択」が記録されるのが相応しいと言われている。ツーベースヒットで一塁走者がホームインするのはまだ通常に考えられるプレイであるが、実際のスローターのこの走塁は「シングルヒットで一塁から生還した」からこそ、後世に伝えられるほどの好走塁なのである。当時、ある記者は記録員室に「あなたがたがあのヒットを二塁打と記録することで、この素晴らしい走塁から感動と興奮を奪ってしまうんだぞ。」とクレームをつけたという。現在カージナルスの本拠地ブッシュ・スタジアム横に、スローターのマッド・ダッシュの像が建てられている。スローターの闘争心むき出しの走塁スタイルは、後にピート・ローズがそれを真似たといわれる。
出典:wikipedia
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