プエルト・プラタ(Puerto Plata)はドミニカ共和国の州、及び同名の州都の都市である。都市を指す場合の正式名称は、「サン・フェリペ・デ・プエルト・プラタ(San Felipe de Puerto Plata)」であるが、単純にプエルト・プラタ市と呼ぶことが多い。人口約130,000人。プエルト・プラタとはスペイン語で「銀の港」の意味である。歴史家はプエルト・プラタの設立した年月を特定できていない。1502年頃島の北海岸に港が存在していたというニコラス・デ・オバンドーの記録により、1502年という説がある。1555年頃には、プエルト・プラタの港町としての重要性は低下しており、海賊の頻出するアンティル諸島の一地区となっていた。クリストファー・コロンブスが第一回目の航海の時、付近の山の頂が頻繁に霧に覆われ銀色に見えるので、その山を銀色の山"Monte de Plata"と名付け、港の名前も銀色の港"Puerto Plata (銀の港)"となった。クリストファー・コロンブスとその弟のバルトロメ・コロンブスが1496年に、ニコラス・デ・オバンドーが1502年に街を設計した。スペイン植民地としての初期段階において、街は島の商業と港湾の中心と考えられていた。 1605年、英国の海賊の勢力拡大を妨げようと、スペイン王の命により街は放棄されたため、人口が減少し荒廃した。プエルト・プラタ港の戦いで、アメリカ海軍は島に上陸し、フランス軍及びフォルタレザ・デ・サン・フェリペ(Fortaleza de San Felipe)を襲撃した。 フランスの私掠船サンドウィチ"Sandwich"を捕獲し、城壁の武装を解除して、アメリカ海軍は勝利をあげて撤退した。 これは1798年から1800年に、フランスとアメリカの間で起きた宣戦布告の無い擬似戦争(Quasi War)中の出来事である。100年後、街にはカナリア諸島からの農民が再度移住していた。1822年から1844年まで、島は配置の支配下にあった。1844年にドミニカ共和国となり、街は再び海事的、商業的な重要性を取り戻した。街はヨーロッパからの移民の影響の下で発展し、島の他の街とは違う独自の文化的、社会的な形跡を残した。1863年の復興戦争中、街は徹底的に破壊された。1865年初頭より現在あるプエルト・プラタの建設が開始された。そのため、現存する建築にビクトリア様式が多く残っている。ドミニカ共和国の中でもリゾート地としての観光開発が盛んで、プエルト・プラタの東郊、プラジャ・ドラーダ(Playa Dorada)やコスタ・ドラーダ(Costa Dorada)と呼ばれる地域では特にリゾートホテルが林立している。カリブ海地域唯一のロープウェイが、市内から793メートルのピコ・イサベル・デ・トーレス山に設置されている。山頂付近には、リオデジャネイロのものと同じようなキリスト像がある。プエルト・プラタの港湾近くには、16世紀に建造され、ラファエル・トルヒーヨの長期独裁政権時代には監獄として使用されたサン・フェリペ要塞がある。クリストファー・コロンブスが入植した、新世界で初めてのヨーロッパ人の入植地ラ・イサベラ(La Isabela)はここプエルト・プラタにある。プエルト・プラタ空港とも呼ばれる。IATA空港コードはPOP、ICAOコードはMDPP。リゾート客のチャーター機の発着が多い。
出典:wikipedia
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