アントニオ・フランシスコ・ペーニャ・パディーヤ(Antonio Francisco Pena Padilla , 1957年6月4日 - )はドミニカ共和国・モンテクリスティ出身の元プロ野球選手(捕手)。現在はMLB・ニューヨーク・ヤンキースの一塁コーチを務めている。ピッツバーグ・パイレーツに入団し、9月1日にメジャーデビュー。持ち前の強肩と粘り強い打撃で、には66試合に出場し、規定打席不足も打率.300をマーク。には打率.296、11本塁打、63打点の活躍でオールスター初出場を果たす(通算5回出場)。には打率3割(.301)をマーク。同年、初のゴールドグラブ賞を受賞(以後、3年連続を含む4回受賞)。1980年代半ば頃のパイレーツは、毎年最下位争いをする弱いチームで、チームの財政状況も悪化し、高年俸のベテラン選手を次々と放出。その中で活躍を続けた。オフにはデーブ・ジョンソン監督率いるメジャーリーグオールスターの一員として来日。当初、捕手は3人の来日が予定されていたが、ゲーリー・カーターがキャンセルし、来日後2戦目でリッチ・ゲドマンが負傷して帰国したため、以後の試合を一人でマスクをかぶり続け、打っても2本塁打の活躍でMVPを受賞。落合博満(当時ロッテ)を、座ったまま二塁に送球して牽制アウトにしたプレイで、日本のファンを唸らせた。開幕直前にアンディ・バンスライクら3選手との交換トレードでセントルイス・カージナルスに移籍。この年は故障もあって116試合、打率.214にとどまったが、自身初のワールドシリーズ出場を果たす。敗れはしたが、ミネソタ・ツインズとのワールドシリーズでは43打数17安打(打率.395)、4打点を記録。以後、(出場試合の少ないシーズンを除いて)フルシーズンの打率が.263を越えることはなかったが、まではコンスタントに出場を続ける。はボストン・レッドソックスに移籍。]には6年ぶりにゴールドグラブ賞を受賞。にはクリーブランド・インディアンスに移籍。出場機会は減ったがここぞという場面では貴重な存在で、のア・リーグチャンピオンシップシリーズ第1戦では、前所属球団のレッドソックス相手に決勝本塁打を打ち、チームを38年ぶりのワールドシリーズに導いた。1997年はシカゴ・ホワイトソックス、さらにヒューストン・アストロズでプレイし、この年を最後に現役を引退した。祖国ドミニカのウインターリーグで監督を務め、2度優勝し、にはカリビアンシリーズ優勝を果たす。アストロズのコーチを務めていた途中にトニー・ミューサー(元西武)の後を受けてカンザスシティ・ロイヤルズの監督に就任。、戦力の劣るチームで前半戦を首位で折り返す、結局83勝79敗で3位に終わったが、リーグの最優秀監督賞を受賞。しかしは104敗を喫して最下位に沈み、5月10日に解任された。解任の時点で8勝25敗で、これは開幕から33試合に限ればア・リーグのワースト記録(開幕から21連敗した1988年のオリオールズよりも下)であった。2005年11月3日にニューヨーク・ヤンキースの一塁ベースコーチに就任。11月13日にヤンキースのベンチコーチに異動した。には、第3回WBCドミニカ代表の監督を務め、母国を優勝に導いた。1月12日にヤンキースの一塁コーチに異動した。弟のラモン・ペーニャはデトロイト・タイガースで投手として8試合に登板している。なお、ピッチャーのトニー・ペーニャの本名はラモン・アントニオ・ペーニャだが、本稿のトニー・ペーニャの息子でもラモン・ペーニャの息子でもない。息子トニー・ペーニャ・ジュニア(遊撃手)、フランシスコ・ペーニャ(捕手)はプロ野球選手である。
出典:wikipedia
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