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ジョン・F・ケネディ

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(、1917年5月29日 - 1963年11月22日)は、アメリカ合衆国の政治家。第35代アメリカ合衆国大統領。在任中の1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された(ケネディ大統領暗殺事件)。1960年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党候補として指名を受け、対立候補の共和党のリチャード・ニクソンと歴史的な接戦の末、わずかな票差で破り合衆国大統領に当選、翌1961年1月20日に第35代アメリカ合衆国大統領に就任した。大統領就任時の年齢は43歳で、アメリカ合衆国の歴史上、選挙で選ばれた大統領としては最も若い大統領であった(就任時42歳であったセオドア・ルーズベルトは副大統領からの昇格であった)。20世紀生まれの最初の大統領であり、カトリック教徒として初の(現在まで唯一の)大統領であり、アイルランド系アメリカ人としても最初の大統領となった。さらに(著作『勇気ある人々』で)ピューリツァー賞を受賞した唯一の大統領である。ケネディの在任中、ピッグス湾事件、キューバ危機、ベルリンの壁の建設、米ソの宇宙開発競争、公民権運動の高まり、ベトナム情勢の悪化など多くの歴史的事件が発生しているが、特にキューバ危機の対応においては「第三次世界大戦」「米ソ全面核戦争」の危機を回避したと評価される。若くして大統領となったケネディは就任時からアメリカ国民に期待され、現在に至るまでアメリカ人の好きな大統領ランキングの上位にいるが、大統領選挙における不正やマフィアとの関係、マリリン・モンローをはじめとする複数の相手との不倫、ピッグス湾事件やベトナム戦争における優柔不断な態度などに対する批判も多い。1963年11月22日、テキサス州ダラスで遊説のため市内をパレード中に暗殺された。犯人として捕らえられたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、わずか2日後にジャック・ルビーによって射殺された。ケネディ暗殺事件は、その衝撃と陰謀説など数々の謎に包まれて、歴史に残る事件となった。1917年5月29日にマサチューセッツ州ブルックラインで、アイルランド系移民で実業家のジョセフ・P・ケネディ・シニア、ローズ・フィッツジェラルド・ケネディ夫妻の次男として生まれた。名前は母方の祖父で当時ボストンでの実力者で合衆国下院議員の後にボストン市長を務めたジョン・F・フィッツジェラルドにちなんでいる。ケネディ家のルーツは1848年にジョン・F・ケネディの曽祖父パトリック・ケネディ(1823〜1858)が、まだ英国領であったアイルランドでの差別と飢饉を逃れて新大陸アメリカを目指したことに始まる。翌1849年にアメリカに着きボストンに居を構え、ブリジット・マーフィー(1824〜1888)との間に男子2人を含む5人の子どもが生まれたが3番目の長男ジョン・ケネディ3世がコレラで僅か2歳に満たずに早世し、末子の二男が祖父パトリック・ジョセフ・ケネディ(1858〜1929)で、やがてボストンで港湾労働者から身を起こして実業家となりマサチューセッツ州下院議員そして上院議員となり地元ボストンの有力な民主党員となった。彼はマリー・オーガスタ・ヒッキ―と結婚して二男二女の4人を育て、次男は早世したが長男がジョセフ・パトリック・ケネディ(1888〜1969)で、ジョン・F・ケネディの父である。父ジョセフ・パトリック・ケネディと母ローズ・フィッツジェラルド(1890〜1995)との間に四男五女の9人生まれた。36歳の時に結婚。3人の子どもが生まれた。しかし1人は2日後に死去。ジョン・F・ケネディは10歳まで家族そろってボストンのブルックライン地区で暮らしたが、ジョンは幼少期からいくつもの原因不明の病気にかかって、病弱で不健康な子供だった。生まれつき背骨部分に障害があり、怪我をしやすく、しばしば激しい苦痛に襲われた。3歳の時に猩紅熱にかかった際には、母ローズが教会に通ってその回復を祈るほどであった。これに水疱瘡やおたふく風邪に罹ることがあり、また原因不明の「継続的な風邪の症状」に襲われて常に全身が熱っぽく怠さを感じるものであった。ケネディはブルックラインでエドワード・デボーション・スクール () の幼稚舎から公立小学校へあがり、小学4年生からは私立デクスター・スクール() へ転校し、そして翌1927年、小学校5年生に上がった10歳の時に一家はボストンを離れてニューヨーク郊外のブロンクス地区リバーデールのハドソン川が見下ろせる家に引っ越したので、ジョンはリバーデール・カントリー・スクール() に転校した。この時期に父ジョセフはボストン郊外のケープコッド(コッド岬)のハイアニスポートに別荘を、さらにフロリダ州パームビーチにも別荘を購入した。1929年にはリバーデールからニューヨーク市郊外のウエストチェスター郡ブロンクスビルへ引越し、6エーカーの広大な土地に屋敷を構えた。1930年、13歳の時にコネティカット州ニューミルフォードのカトリックの寄宿学校であるカンタベリー・スクール()に入学したがホームシックになり体調不良になって、翌年には家に送り返された。父ジョセフはジョンを兄ジョセフ・P・ケネディ・ジュニアの在籍していたチョート校(現在のチョート・ローズマリー・ホール)に転校させた。兄ジョセフ・ジュニアはスポーツ選手として活躍し学校に順応したが、兄に対して激しいコンプレックスを持っていたジョンにとってチョート校での日々も鬱屈したものになり、反抗的な生徒として有名になり、学校では「モッカー」(mocker.校則違反者、人を馬鹿にする人)というあだ名をつけられ、放校処分になりかけたこともあった。卒業の前年には再び体調を崩し、消化器の障害と判断され、ステロイドの投与を受けた。戦後下院議員になってから副腎機能不全(アジソン病)で苦しむことになるが、常に日焼けしたような皮膚の色であったのはその症状の一つであり、このときの大量のステロイド投与が原因であるとの説もある。ジョンは生涯、背骨の痛みに悩まされた。ケネディ家では「大学時代のフットボール中の怪我が原因」とされていたが、実際のジョンはとてもフットボールなどできる健康状態ではなく、生来の腰痛を隠すためともいわれている。1935年にチョート校を卒業したジョンは兄ジョセフ・ジュニアと同じようにロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでハロルド・ラスキ教授のもとで学んだが、すぐに体調を崩して「黄疸」の診断を受けて帰国した。その後プリンストン大学に入学したが、ここでも体調不良で白血病の診断を受け通学できなくなりボストンの病院に入院し、プリンストン大学にはわずか6週間在学しただけであった。成績も抜群でスポーツも万能な兄ジョセフ・ジュニアに対する劣等意識、そして厳しすぎる父ジョセフへの負い目がジョンを苦しめた。幼児から何度も胃腸の不調で入退院を繰り返したのもそれが原因とされている。だが勝てないと知りながらも兄に挑戦し続けたことで、困難から逃げず、不可能なことに挑み続ける精神力と根気強さが養われたのだった。彼は決して病弱ではなかった。後にケネディの大統領顧問を務めスピーチライターでもあったセオドア・C・ソレンセンが、ケネディ暗殺の2年後に出版した『ケネディの道』の中に、ジョンの幼い日のエピソードを書いている。母方の祖父ジョン・フィッツジェラルドに連れられて政治集会に行った時に老ジョン・フィッツジェラルドは幼いジョン・フィッツジェラルド・ケネディを抱き上げてテーブルの上に乗せて「これがわしの孫じゃ。世界一の孫だ」と皆の前で紹介すると幼いジョン・フィッツジェラルドは「僕のお爺ちゃんは世界一のお爺ちゃん」と言った。その場にいた人々は小さな少年に喝采を送ったという。これがケネディ大統領の生涯最初のスピーチであった。ソレンセンは、父ジョセフの期待に応えるためとか兄の身代わりとして政治家になったとか、ジョンについて後にそう語られることが多いが、彼の資質は政治家向きであり、不本意ではなく彼自身の理想と関心の表現であり、しかしそれに至るまでの道のりは絶えず病気との闘いを強いられて、それがジョンに反抗心を植え付けながら練り上げられたものであったと述べている。またマイケル・ドブズはその著書『核時計零時1分前』の中で、ケネディが富と特権を享受する名家に生まれながら典型的な御曹司タイプにならなかったのは、生涯彼を苦しめた健康問題と第二次大戦における最前線での経験(PT109)の2つの要素が彼の人格形成に影響を与えたからだ、と述べている。そして翌年改めて兄のいたハーバード大学に入学した。ジョン・F・ケネディの成績ではハーバード大学入学は不可能だったが、父ジョセフの尽力で入学できた。在学中の成績は当初落第ぎりぎりであった。この頃から健康を取り戻して水泳、ゴルフ、ヨットに興じていたハーバード在学中に父が在イギリスアメリカ合衆国大使に任命されたこともあり、ケネディは二度ヨーロッパを旅行して見聞を広めた。1939年にベルリンを訪れた際には、駐ベルリン米大使のアレックス・カークから「開戦近し」のメッセージをロンドンの父に届けている。そして1940年にハーバード大学の卒業論文でイギリスのチェンバレン首相とドイツのヒトラー総統とのミュンヘン会談を扱った『ミュンヘンの宥和』 (Appeasement at Munich) を書き、この論文で高い評価を大学教授から得て、教授の中には出版してもいいくらいだという意見もあった。早速ケネディがこの論文を父に送ると、父は自らのスピーチライターであるハービー・クレマーに推敲させ、さらに自らの御用記者としていた『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニスト、アーサー・クロックに送った。クロックはさらに原稿を手直しし、チャーチルの著書『英国が眠っている間に』(While England Slept) を踏まえて『英国は何故眠ったか』(Why England Slept) というタイトルをつけ、父ジョセフが依頼して『タイム』及び『ライフ』を創刊した保守派ジャーナリストのヘンリー・ルースに序言を書いてもらい同じ年に出版した。『英国は何故眠ったか』はイギリスとアメリカで8万部が売れ、イギリスでの利益をドイツ空軍により爆撃され被害を受けたばかりだったプリマス市にケネディは寄付した。そしてケネディは優等の成績で1940年6月にハーバード大学を卒業した。1941年の春にケネディは陸軍士官候補学校と海軍を受験したが、健康状態を理由に合格できなかった。そこで父ジョセフは大使館付き武官だったアラン・グッドリッチ・カーク海軍大佐に頼んで、海軍士官養成コースに入れるよう手配してもらった。ケネディは1941年9月25日に海軍士官に任官されたが、父の配慮で戦場に赴くことがないワシントンD.C.の海軍情報局に配属された。この頃に妹キャサリンがたまたまワシントン・タイムズ・ヘラルド紙に勤めており(彼女の就職を世話したのがアーサー・クロックであり、また偶然であるが10年後にジャクリーン・ブービエもこの新聞社に勤務した)、その妹がケネディに同僚記者を紹介したのがインガ・アバドで、彼女はスウェーデン女性で二人はすぐに深い関係となった。スウェーデンは中立国であったが、FBIはジャーナリストであるインガが1936年ベルリン五輪の取材でアドルフ・ヒトラーと会ったことがありナチス党支持者である疑いがあるとしてスパイではないかと疑ったため、周囲の勧めもあって2人は別れた。そして間もなくサウスカロライナ州チャールストンに再配属となったが、インガ・アバドとの関係はチャールストンでも続き、ケネディは結婚を真剣に考えた時期もあった。しかし、やがてインガが別の男性との結婚を選び、この恋は終わった。父ジョセフはこの後2人が会うことのないように1942年7月に海軍長官ジェームズ・フォレスタルに頼んで息子ケネディを海上勤務に転勤させた。そして魚雷艇操縦訓練を受けたケネディは、1943年4月25日に大日本帝国海軍と対峙していたソロモン諸島のツラギ島に配属され、パトロール魚雷艇の艦長となった。魚雷艇は1943年8月1日にソロモン諸島のニュージョージア島の西で日本海軍艦隊の輸送業務を妨害すべく他の13艘と出撃したが、深夜になっても敵を発見できず基地に帰還しようとした。その帰路で8月2日午前2時半にPT109は日本海軍の駆逐艦「天霧」に不意に遭遇し衝突した。小さな魚雷艇の船体は引き裂かれ乗組員は海に投げ出され、2名が死亡、数名が重傷を負った。事故直後は生存していた10名の乗組員は海に飛び込み、日本軍が去るまでじっとしていた。その後大破した船体の木にしがみついて夕刻になって近くの小島まで泳ぐこととした。ケネディは負傷した仲間を命綱で結びつけて6キロ泳ぎ、なんとか小さな島(プラム・プディング島。地元ではカソロ島とも呼ばれ、後にケネディ島と名付けられた)にたどり着いた。そこは全長が100mに満たない島で水も食料も無かった。そこでケネディは1人でそこからさらに4キロ南にあるオラサナ島とナル島を泳ぎながら往復して救難方法を探り、食糧が確保できる所を探した。そしてオラサナ島に生存していた乗組員全員を導いた。この島にはヤシの実があり、水が確保できた。そこで島民に出会い、が操るカヌーと接触した。ケネディはココナッツにメッセージを刻んでガサとクマナに託し、2人はオーストラリア軍兵士にこれを届けた。司令官は痕跡を残さずに沈んだと判断して、捜索を開始せず、海軍省は乗組員全員が戦死したとみなしていた。しかしコースト・ウォッチャーズのオーストラリア軍監視員中尉はPT109の爆発を確認し、捜索の為に原住民のカヌー2艘を派遣していた。救助隊が到着したのは遭難から6日がたっていた。海軍内では、駆逐艦と魚雷艇の衝突時にケネディがとった行動および彼の魚雷艇指揮に疑問を呈する意見もあった。しかし父ジョセフはこのチャンスを見逃さずケネディが海軍・海兵隊勲章を受け取れるよう手をまわした。1944年6月17日付けの『ニューヨーカー』誌で記者ジョン・ハーシーにケネディの英雄譚を掲載させ、さらに『リーダーズ・ダイジェスト』1944年8月号がその要約を掲載したことでケネディの名前は全米に知られるようになった。後にケネディが下院に立候補した際には父ジョセフは『リーダーズ・ダイジェスト』のコピーを大量に配布した。ただしケネディは自分が英雄視されることを好んでいなかったようで、なぜ英雄になることができたのかを問われた際には「簡単なことだ。日本軍が私のPTボートを真っ二つにしたせいだ」、「本当の英雄は戦場で戦っている者だ」と語ったという。1952年の上院選と1960年の大統領選の際には天霧の元乗員一同から激励の色紙を贈られている。またメッセージを書いたココナッツはその後にケネディが大統領に就任してからホワイトハウスの執務室に置かれていた。ケネディは救出後に部隊に復帰したが、健康不良を理由に1944年1月に本国に帰還した。1944年秋にケネディは海軍病院で背中の治療を受けたが、背中の痛みはとれずマラリア感染も判明したため、1945年3月1日に名誉除隊した。この時にはヨーロッパ戦線も太平洋戦線もその帰趨が明らかで第二次世界大戦の終わりが見えていた。父ジョセフはもうすでに戦後の青写真を描いていた。マイケル・ドブスは1962年のキューバ危機を描いた著書「核時計零時1分前」の中で、ケネディが富と特権を持つ名家に生まれながら御曹司タイプにならなかった理由として、2つの要素が彼の人格形成に影響を与えたからであるとしている。1つは後述の健康問題で戦後に彼を苦しめることになるが、もう1つの理由として太平洋戦争で魚雷艇PT109での最前線の経験であった。大義のために死んでいくことへの疑問であり、全面戦争とか総力戦といった言葉を軽蔑し、政治家は我が子を戦場に送り出すことに留意しそこには目的が明確なものがなければならない、としている。そして後に大統領に就任後は、大国同士の誤算を懸念し、意図せずして戦争に巻き込まれていくの危険を常に意識していた。ケネディは父ジョセフの世話でハースト系のインターナショナル・ニュース・サービス社の特派員となり、ポツダム会談やサンフランシスコでの国連創立総会、イギリスでのチャーチル首相の総選挙敗北を取材した。この通信社の各新聞への配信記事の末尾にジョン・F・ケネディの署名と合わせてその経歴を入れて「魚雷艇PT109での活躍」「『英国は何故眠ったか』の著者」と書き入れていた。この頃には父ジョセフの政界への野心がはっきりとしていて、長男ジョセフ・ジュニアが大戦中の1944年8月12日に海軍パイロットとして任務中事故死したため、彼の死去とともに、次男ジョンにかける期待は大きいものがあった。そして1946年6月に、当時マサチューセッツ州で合衆国下院議員であったジェームズ・M・カーレイがボストン市長になるために民主党下院議員を辞職したため、ケネディはまず民主党の予備選挙に立候補してその後に共和党候補との本選の中間選挙に立候補した。父ジョセフは長男ジョセフ・ジュニアに期待した政界入りの野望を次男ジョンにその役割を担わせ、ジョンは父の支援により政治資金に困ることはなく公約として戦地から戻ってくる兵士のための住居の保障、老齢年金を強化して老後の生活保障、最低賃金の値上げなどを掲げ、《新しい世代から指導者を》をスローガンにして選挙戦に入った。選挙戦では母ローズの陣頭指揮でユーニス、パトリシア、ジーンの妹たちとロバート、エドワードの弟たちの支援に支えられながら長く精力的な選挙活動と母方の祖父で前ボストン市長でもあったジョン・F・フィッツジェラルドと父ジョセフの多大な協力もあり、本選では69,000票を超える記録的な得票で26,000票余りであった共和党候補レスター・ボウエンを破り、29歳の若さで下院議員となった。母方の祖父ジョン・F・フィッツジェラルドと立候補の時には亡くなっていた父方の祖父パトリック・J・ケネディは共にボストン政界での民主党の有力者であった。特にフィッツジェラルドはボストン市長を退任してまだ間が無くその支持基盤がそっくりケネディに引き継がれている。1992年にエドワード・ケネディはテレビ番組「ケネディ家 野望と権力の系譜」の中で「ジョンが政界入りできたのも母と母方の祖父ジョン・F・フィッツジェラルドのおかげである」と語っている。下院議員に選ばれてからの5年間は、当時の議会が共和党が多数を占めて積極的に法律の制定を働きかけることはなく、また実際出来ないことでもあった。新人議員としては教育労働委員会と退役軍人問題委員会に所属することとなったが、それは父ジョセフと親交のあった民主党のジョン・マコーマック下院院内総務の特別な配慮があったとされている。この間に多くの外国を訪問し見聞を広めた。その中には1951年9月に7週間の視察旅行でインドを訪問した時にネルー首相と会見して、ネルーから東西対立で共産主義国が多くなったのは西側諸国がこれらの国に対して何もしないことが原因であり、武力だけでは貧しい発展途上国の共産主義化は防げない、彼らが本当に必要としている問題に取り組むべきだと指摘を受けた。下院議員の時にまだ独身であったケネディは、さまざまな女性とのロマンスが噂された。映画女優ジーン・ティアニー、モデルのフロレンス・プリチェット、テニスプレーヤーのケイ・スタマーズなどと社交界で浮き名を流した。そしてジュリー・マルコムの名が上がっている。下院議員を3期務めた後、1952年にマサチューセッツ州から合衆国上院議員選挙に出馬し、父ジョセフから潤沢な選挙資金を得て総投票数2,353,231の51.5%を獲得して70,737票差で辛うじて共和党候補の現職ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを破り、上院議員となった。ケネディに敗れた対抗馬のヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアの祖父ヘンリー・カボット・ロッジは祖父ジョン・フィッツジェラルドの長年の宿敵であり、1893年から亡くなる1924年までマサチューセッツ州から合衆国上院議員を務め、上院外交委員長となり当時のウイルソン大統領の国際連盟加入に反対し最後は上院院内総務となった実力者であった。1916年の合衆国上院議員選挙でマサチューセッツ州で民主党から立候補したのが母方の祖父ジョン・フィッツジェラルドで共和党からはヘンリー・カボット・ロッジであり、ジョン・フィッツジェラルドはこのジュニアの祖父に敗れている。父ジョン・カボット・ロッジは若くして死去したため孫のヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアがその後に1936年の上院議員選挙でマサチューセッツ州から当選して合衆国上院議員となった。そして6年後の1942年にロッジが再選を目指した時に当時マサチューセッツ州の民主党内が割れて、ジョセフは党内で対抗馬を立て、それがジョン・フィッツジェラルドで、民主党が分裂したためロッジが漁夫の利で勝利した。その後戦争に参加して上院議員を辞職し戦後1946年に3たび上院議員選挙に立候補して3回目の当選を果たしている。その6年後の1952年にジョン・フィッツジェラルドの孫がロッジを初めて破り、この後ジョン・F・ケネディが大統領となった後に空席となったマサチューセッツ州の合衆国上院議員に1962年に選挙で立候補して当選したのが弟エドワード・ケネディであり、その時の共和党からの対抗馬がジョージ・カボット・ロッジ・ジュニアでヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアの息子であった。19世紀末からマサチューセッツ州の合衆国上院議員を輩出していて1932年以降は無敗であったロッジ家であったが、これ以後2009年にエドワード・ケネディが死去するまでケネディ家がマサチューセッツ州の合衆国上院議員を勝ち続けていく。またヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア自身は、この上院議員選挙の落選直後に1953年アイゼンハワー政権の国連大使となり、以降8年間務め、1960年にはニクソンと組んで共和党副大統領候補となり、民主党ケネディ・ジョンソン組と争った。その後ケネディ政権で南ベトナム大使を務め、ケネディ暗殺の直前に起こった南ベトナムのクーデターで大きな役割を果たすことになる。その後もベトナム和平交渉のアメリカ代表を務め、アメリカ外交の分野で功績を残した。ケネディは36歳になった1953年の9月12日にフランス系アメリカ人の名門の娘である当時24歳のジャクリーン・リー・ブーヴィエと結婚した。ジャクリーンは父はフランス系のジョン・ブービエ、母はアイルランド系のジャネット・リーで、父ジョン・ブービエは株取引で財産を築いたが大恐慌で財産を失い、アルコール依存症となって母ジャネット・リーとはジャクリーンが11歳の時に離婚し、母はその後裕福な株式仲買人でスタンダード・オイルの相続人の一人であったヒュー・D・オーチンクロスと再婚していた。名門ヴァッサー女子大に進学し、フランスのソルボンヌ大学に留学し、アメリカに戻るとジョージ・ワシントン大学に編入してフランス文学を専攻した。二人が知り合ったのは、ジャクリーンが1951年ジョージ・ワシントン大学を卒業後に継父オーチンクロスの紹介でワシントン・タイムズ・ヘラルド紙の記者となった時に、ケネディ兄弟と親しいチャールズ・バーレットの自宅で開かれたパーティーに招かれた時だった。1951年6月からデートを重ねていたが、1953年に入ってアイゼンハワー大統領の就任祝賀舞踏会に同伴で出席してから真剣な交際に発展した。父ジョセフは早くからジャクリーンを気に入った様子だった。二人の仲が深まって「オムニ・パーカー・ハウス・ホテル」でプロポーズした。ジャクリーンがケネディのプロポーズを受け入れるとケネディ家は豪華な挙式を執り行った。但し場所はジャクリーンの継父ヒュー・D・オーチンクロスが持つ97エーカーの広大な土地と豪邸のあるロードアイランド州ニューポートのハマースミス・ファームであった。まず6月25日にヒュー・D・オーチンクロスとジャネット夫妻の主催で正式な婚約披露パーティーが開かれ、9月12日に結婚式がニューポートのセント・メアリー教会で行われて、クッシング大司教のもとで二人は愛を誓い合った。この時ローマ教皇ピウス12世からの祝辞が読み上げられ、また式後の結婚披露宴はハマースミス・ファームで1300人が出席する豪華なものであったが、この日に参加したジャクリーンの実父ジョン・ブービエは前日に酔い潰れて式に出席できなかった。しかしケネディは結婚直後からその後2年間に多くの脊椎の手術を受け上院本会議を長期にわたって欠席せざるをえなくなった。実は下院議員時代の1947年9月にアイルランド訪問中に体調を悪くし、ロンドンで診察の結果アジソン病と診断された。副腎の機能不全により虚弱体質で食欲不振・体重の減少、そして循環器系が衰弱する病気であり、病原菌に対する抵抗力がなくなるため不治の病と考えられた。その後コーチゾン剤(ハイドロコーチゾン、今日のコルチゾール)の開発で病死を免れて議員活動を続けられるようになったが、そのコーチゾンの副作用は「著しく気分が昂揚し陶酔状態に似て、また精力・集中力・筋力及び筋持久力の増進を伴う」とされ、歳を取ってもふさふさの髪、日焼けしたような肌の色、過剰なまでの自信、さらに際限のない性的衝動が現れるともされていた。ケネディの身体はこの時に進行性副腎機能障害で寿命はあと10年か15年と告げられて、今日の医学的見地から見るとすでに彼の脊椎の組織はステロイド治療の影響で壊死しかけていたと考えられている。ケネディ家はジョンのアジソン病もハイドロコーチゾンによる徹底した治療も一切秘密としていた。そして結婚して翌年1954年の春から夏にかけて幼少時から悪かった背中の具合が悪化し、松葉杖をつかないと歩けない状態になった。ケネディはアジソン病に罹ってからコーチゾン療法を続けていて3ヶ月ごとにホルモン注射を打ち、毎日錠剤を服用していたので、手術は複雑で非常に危険性が高いとされたが1954年10月21日に背骨をいったん取り除き接合しなおす手術を受けた。その間は「ケネディ上院議員は戦争中に受けたケガを完治させるために脊椎の手術を受ける」と公式発表した。しかし術後に昏睡状態に陥り、病室に司祭が呼ばれて終油の秘蹟が施されるほどになったがようやく回復して12月下旬にはいったん退院した。しかし翌1955年2月には再び容態が悪化して2回目の手術を受け、その後はパームビーチに戻ってじっくりと回復を待ち、ワシントンに戻ってきたのは1955年5月であった。手術後に退院して回復した後も、1955年から1957年の間に実に9回も入院し、背中の腫瘍や大腸炎、性感染症に罹り、自分では靴ひもが結べない状態でホルモン剤のテストステロンや鎮静剤のネンブタールを含む何種類もの薬を摂取して身体を維持していた。これより7年後の1961年6月に米国大統領としてフルシチョフ首相とのウィーン会談に臨んだ時に随行した侍医のジャネット・トラヴェルは腰痛を和らげるためにノボカインの一種である強力なプロカインを注射していた。ホワイトハウス医務官のバークリー提督はこのプロカインについて懸念していた。またトラヴェルは大統領となった彼に慢性腎炎、高熱、高コレストロール血症、不眠、そして胃・結腸・前立腺の異常で治療して、この時期に大統領に与えた錠剤や注射について「薬剤投与記録」を付けていた。尿路感染症と膿瘍のためのペニシリン、睡眠用としてツイナール、下痢と体重減少を防ぐためのトラセンチン、その他テストステロン(男性ホルモン)やフェノバルビタール(睡眠・鎮静剤)などで、この他に特異な医師による特異な治療が行われていた。手術から回復するまでの間に、ケネディはこれまでの歴史で勇気ある行動をとった上院議員たちについて本を書くことを思い立った。病室でハーバード・エイガーの「統合の代償」を読み第6代大統領ジョン・クインシー・アダムスの何ものにも動じない信念に大きな刺激を受けていた。このジョン・クインシー・アダムスとダニエル・ウェブスター、トーマス・ハントン・ベントン、サム・ヒューストン、エドモンド・ロス、ルキアス・レイマー、ジョージ・ノリス、ロバート・タフトの7名の上院議員の計8名を選び、多勢に媚びず自己の信念に従って行動(この中には1860年代のリンカーン暗殺後に昇格したジョンソン大統領の弾劾裁判で反対に廻り、その1票差で大統領弾劾が否決されたケースも描いている)した者たちの伝記とケネディの政治家としての信念を綴った『勇気ある人々』 (Profiles in Courage) を執筆した。この本は1956年1月2日にハーパー&ロー社から出版されるとベストセラーとなりそしてピューリツァー賞を受賞した。しかし出版当時から、スピーチライターのセオドア・C・ソレンセン(後の大統領顧問)が執筆したものだとの噂が囁かれ、コラムニストのドルー・ピアソンは1957年のABCのテレビ番組で「ケネディはゴーストライターの本で賞をとった」と発言し、セオドア・C・ソレンセンは2008年に出版した自伝の中で、自身が『勇気ある人々』の調査、執筆に関わっていたことを認めている。そしてピューリツァー賞の審査では最終選考になって突然現れたことに対しても不正が疑われている。ケネディは後にリベラル派とみなされるようになったが、1950年代初めには父ジョセフの友人であるアイルランド系カトリックの共和党上院議員ジョセフ・マッカーシーによる赤狩り(マッカーシズム)に協力的であった。民主党リベラル派のエレノア・ルーズヴェルトはそのことを忘れず、後の大統領選でもケネディを信用しなかった。マッカーシーの行き過ぎた言動は批判を呼ぶようになり、1954年にハーバード大学である演説者が「そこいらの大学と違ってハーバードからはアルジャー・ヒス(国務省職員でソ連のスパイ)やジョー・マッカーシーのような人物を出していないのが自慢だ」という発言をしたのに対し、ケネディは「偉大なアメリカの愛国者と売国奴の名をよくも一緒くたにできたものだ」と激怒した。しかし上院は1954年6月にマッカッシーの譴責決議案が上程され、12月2日に65対22でマッカーシーを「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」として決議案は可決され、マッカーシズムは終結にむかった。民主党の方針でマッカッシーの譴責決議案に賛成票を投じざるを得なくなったケネディだったが「かねてから必要とされていた手術を受ける」ことを口実に投票を棄権している。実はこの時期は脊椎の手術の後で生死の境を彷徨った時期であるが誰も知る由もなく、このことでエレノア・ルーズヴェルトから「世間の目ばかりを気にせず、勇気を示すことは出来たはず」と非難されてしまった。1950年のカリフォルニア州選出上院議員選挙で共和党候補リチャード・ニクソンがリベラル派の民主党候補ヘレン・ガーガン・ダグラスを「共産主義者」、「アカの信奉者」と批判するなど激しい組織的中傷により勝利した際には、秘密裏にニクソン陣営に献金していた。ケネディは組織犯罪と労働組合の腐敗を追及する「上院マクレラン委員会」(ジョン・マクレランが委員長を務めた。旧称「バラキ公聴会」)の委員として名を連ねていた。実弟でロバート・ケネディはこの委員会の首席顧問として司法省から派遣され検事役を務めた。この委員会の最大の功績は、アメリカ一の組合員数を誇ったトラック運転手組合の「チームスター組合」とマフィアとのつながりを明らかにしたことであり、また「マクレラン委員会」はバティスタ政権下のキューバからアメリカに密輸されるヘロインの中継基地が、南部の港湾都市で港湾労働者組合をマフィアが掌握していたニューオリンズであると特定した。これによりチームスター組合のジミー・ホッファとケネディとの対立が始まった。この委員会の活動によりケネディ兄弟は知名度を高めた。それと同時に、妹パトリシアの夫でハリウッド俳優のピーター・ローフォードとその親友のフランク・シナトラを通じて、サム・ジアンカーナやジョニー・ロセリなどのマフィアとの関係を構築していった。ケネディの政治家としての最初の10年間は全米で知名度の高い政治家とは言えなかった。全国的な舞台に立つこともなく、議会でも重要な法案を任されるこもなかった。そのケネディが一躍全米で知られるようになったのは1956年民主党全国大会においてであった。アイゼンハワー大統領と大統領選挙を争う民主党候補に指名されたアドレー・スティーブンソンと組む副大統領候補の1人となり、エステス・キーフォーヴァーと民主党副大統領候補を争い敗れたがこの時の風格ある敗北宣言が党内で称賛され、また民主党大統領候補となったアドレー・スティーブンソンの指名推薦演説を任されて演説は見事な出来で、有力候補でなかったケネディの善戦が民主党党員に強い印象を残し全国的にその名を知られるようになり、次の大統領選挙への足がかりを掴んだ。やがて1958年の中間選挙では上院議員の再選をめざして、次の大統領の有力候補者として雑誌「LIFE」にもジャクリーンと二人での写真及び生まれたばかりのキャロラインを抱いての家族写真が表紙に掲載されて、着々と大統領への道を切り開いていった。共和党の対抗馬がヴィンセント・セレストで知名度がなく、87万4608票で73.6%の得票率で圧倒的な勝利を収めた。これはマサチューセッツ州で過去に例を見ないほどの圧勝であった。上院議員としても外交委員会のメンバーに入り、全国的な注目を集める政治家となった。1958年8月14日の上院本会議でケネディは演説して、米ソ間で大きな軍事力の差が存在しているとしてアイゼンハワー政権を批判し、この時にミサイル・ギャップという言葉を使い、アメリカの弾道ミサイルの開発、配備が遅れていると主張し、これはアイゼンハワー政権の共和党の責任であると批判した。(ミサイル・ギャップ論争)この頃のケネディは後年高い評価を受けた平和主義者ではなく共産主義の拡大を阻止しなければならないという冷戦の闘士の一人であった。1960年1月2日にケネディは上院幹部会議室において民主党予備選挙に立候補することを表明した。この予備選挙には有力候補と見られたリンドン・B・ジョンソン上院議員や前回の大統領候補アドレー・スティーブンソンは立候補しなかった。この時代はまだ予備選挙を実施する州が少なく(50州のうちの7州)予備選に立候補しなくても党大会で大統領候補になれる時代で、予備選をせずに党員集会や州幹部会で代議員を決める州が多かった。したがって民主党の中には、ハリー・S・トルーマン元大統領が支持するウイリアム・S・サイミントン上院議員が最終局面でダークホースとして浮かび上がってくることも予想された。ケネディは民主党予備選挙が行われる7州で出馬し、その中で特にウィスコンシン州とウエストヴァージニア州が注目されてヒューバート・H・ハンフリーや他の候補者に対し勝利を収めた。ウィスコンシン州はハンフリー上院議員の地元ミネソタ州の隣に位置しており、ウエストヴァージニア州は圧倒的にプロテスタントが多い州であった。そこでケネディは56%(ウィスコンシン州)、61%(ウエストヴァージニア州)の得票率を得た。特にプロテスタントが95%のウエストヴァージニア州で圧勝したことは、一部の民主党幹部がカトリック教徒であることが不利になると考えていたことが、何ら問題になることではないことを示していた。むしろ、その若い年齢が不安視されて、経験不足を指摘する声が多く、その彼らの声を代表して元大統領のハリー・S・トルーマンは記者会見を行い、ケネディに出馬を思いとどまるよう訴えた。その若さが不利であるとのトルーマンの指摘に、ケネディはこれを逆手にとってニューヨークで記者会見を開き、全ての予備選に出馬したのは自分だけであること、14年間の自分の政治経歴が大統領職に十分でないのであれば、トルーマン自身を含めて歴代の大統領の大部分が経験不足ということになること、44歳以下の人間が国家に対して責任ある地位に就けないのであれば、建国の父たちは存在し得なかったことを挙げて反論した。また、妹パトリシアの夫で映画俳優のピーター・ローフォードの協力を受けて、ハリウッド俳優や歌手などの芸能人による選挙協力を受けた。ローフォードの友人でマフィアとの関係も深いフランク・シナトラやサミー・デイヴィスJr.などが、カリフォルニア州やネバダ州、ハワイ州で行われた選挙資金調達パーティーに出演するなど、ケネディの予備選勝利に向けて協力を行った。さらに民主党全国大会直前の7月10日、ビバリーヒルズのビバリー・ヒルトン・ホテルで開かれた資金調達パーティーでは、シナトラやローフォード、デイヴィスのほか、ジュディ・ガーランドやトニー・カーティスが出席し、シナトラはアメリカ国歌を斉唱したばかりか、会場をまわり代議員へのケネディへの投票を呼びかけた。こうした事前の派手な選挙活動の結果、カリフォルニア州ロサンゼルスのロサンゼルス・オーディトリアムで行われた1960年民主党全国大会3日目の7月13日の大統領候補指名投票において、ケネディは獲得代議員数806票で、ジョンソン409票、サイミントン86票、スティブンソン80票を押さえ、1960年大統領選挙の民主党大統領候補に指名された。そして翌日の民主党全国大会4日日にケネディは民主党副大統領候補にテキサスの上院議員リンドン・B・ジョンソンを指名して、7月15日の全国大会最終日には会場をロサンゼルス・メモリアル・コロシアムに移し、演壇に立って大統領候補指名受諾演説を行い、その演説でケネディは「ニューフロンティア精神」を高く掲げた。「今日、我々はニュー・フロンティアに直面している。1960年代のフロンティア、今だ知られぬ機会と道、今だ満たされぬ希望と脅威を孕んだフロンティア・・・私はあなた方の一人ひとりにこの新しいフロンティアの新しい開拓者となるように求めたい。」。「私は米国民に与えようとしているものでなく、求めているものである。プライドに訴えるものであり、財布に訴えるものではない。より大きな安全ではなく、より大きな犠牲の約束を差し出すものである。ニューフロンティアは、我々が求めようが求めまいが、ここにある。・・・公共利益か私的利益か、国の発展か衰退か、新鮮な進歩の空気か凡庸な陳腐の空気か・・・の選択を迫られているのである。」「ソ連が将来のために現在を犠牲にしているのに、我々は現在を犠牲にできるでしょうか。それができなければ現在を享受するために将来を犠牲にしなければならない。」当時日本では「ソ連は将来のために現在を犠牲にしている。我が国は現在のために将来を犠牲にしている」とも訳されたが、この時ケネディは、戦後の東西対立の時期にあって、やや停滞気味であった1950年代のアメリカの現状を見て、国民に現状維持に固執するのではなく新しい未来への先駆者となるように呼びかけたのである。ウエストヴァージニア州の予備選挙でケネディがカトリックであることが論点になったが、民主党大統領候補に指名されて大統領選挙の本選挙が始まる段階でもこの議論は蒸し返されてきた。そこで9月12日にテキサス州ヒューストンのグレーターヒューストン聖職者協会(Greater Houston Ministerial Association)にケネディは出席して集まった300人のプロテスタントの牧師たちを前に演説を行った。宗教上の問題がまだスッキリしていないことで、改めて自身の見解を表明するためにあえて出席したものである。「どの教会を私が信じるかは重要ではありません。・・・私はカトリックの大統領候補ではありません。民主党の大統領候補であってたまたまカトリックである候補に過ぎません。・・・いかに高い地位にあるカトリック教徒でも大統領に命令を下すことはありません。・・・大切なことはどのようなアメリカを私が信じるかです。・・・」として宗教的な寛容こそがアメリカの国益に直結していると強調した。そして自身の帰依するカトリックへのプロテスタントらの偏見を宥め、「私は教会と政治の分離が絶対であるアメリカを信じる...I believe in an America where the separation of church and state is absolute...」と演説して信仰と政治とは無関係であると訴えた。この演説は見事なものでテレビで見ていたサム・レイバーン下院議長も絶賛した。1960年9月26日に大統領選挙では初めて大統領候補者同士のテレビ討論が行われ、この日から合計4回実施された。その模様はテレビで全米に放送されて約7,000万人の米国民が見て大統領選挙に大きな影響を与えた。ケネディは知名度では現職の副大統領であるニクソンに劣っており、テレビ討論の直前に行われた支持率調査でもニクソンの支持率が優っていた。選挙後に出版された多くの書物内ではテレビ討論会がケネディがニクソンに勝利した原因であるとされている。ケネディの好印象の理由の一つは、彼が着ていたスーツの色と言われる。演説の時、ケネディは濃い色のものを、それに対してニクソンは薄い色のものを着ていた。当時のモノクロテレビに映しだされた画面では、ケネディは濃い色で力強く見え、反対にニクソンは薄いグレーの色で、印象が弱く見えたとされている。後にラジオで討論を聞いていた人は「(討論内容だけ聞く限りでは)ニクソンが勝った」という意見が多く、テレビで討論を見た人は「ケネディが勝った」という意見が多かった。ケネディは俳優のピーター・ローフォードのアドバイスを受けて、綿密にテレビ用のメーキャップをした上に、持病の治療のために服用した薬の副作用で肌の色が浅黒くなったために「日焼けしたスポーツマン」に見えた。それに比べ、ニクソンは直前に病気をしたため、病み上がりで顔色が悪かったにもかかわらず、「議論の内容が重要である」と言ってメーキャップを断り、さらに選挙戦の疲れも相まってやつれて見えた。さらに、照明の暑さから何度も汗をぬぐう場面もあり、これが有権者からは焦っている仕草とみられてしまった。これ以降、大統領選では両党の候補者によるテレビ討論会を行うことと、さらにメーキャップを行うことが定着化している。テレビ討論会が結果として選挙戦の大きな分水嶺になったことは、ケネディにとって2つの重要な意味があったと思われている。第1はテレビを通じて生き生きとしたイメージを有権者に伝えたこと、第2は討論を通じて弁論の巧みさを示すことにより有権者を魅了したことで、この討論会でケネディはニクソンをリードしたことになった。当選後の11月12日にケネディは「運命の分かれ目を決めたのは、何よりもテレビ討論会であった」と語っている。大統領選キャンペーンが最後の追い込みに入った10月半ば、公民権運動家のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、座り込みデモのために南部のジョージア州アトランタで逮捕された。この事件に対しコメントを求められると、ニクソンはノー・コメントの姿勢を貫き通したが、ケネディは即座にキング夫人に事態を憂慮しているとの電話をかけた。翌日に弟のロバート・ケネディがすぐにジョージア州知事と取り引きをし、キングに有罪判決を言い渡した判事に電話をかけて釈放を求め、この翌日キングは釈放された。黒人の多くはプロテスタントの一派であるバプティスト派の信者であり、プロテスタントのクエーカー教徒であるニクソン支持に回っていたが、この一件により黒人層のケネディ支持が拡大した。直後の世論調査で常にニクソン有利とされたデラウェア、イリノイ、ミシガン、ニュージャージー、サウス・カロライナの5州ではケネディ有利という予測に変わった。キングの父親はニクソン支持からケネディ支持に鞍替えした理由を尋ねられた時、「私の妻が息子の逮捕に涙を流している時、彼(ケネディ)は、その涙を拭ってくれた。このような時にこうした行動をとる事は勇気のいる事だからだ」と答えた。前大統領のドワイト・D・アイゼンハワーは、「たった2回の電話(ジョン・ケネディからキング夫人への電話とロバート・ケネディから判事への電話)が民主党を勝たせる結果になってしまった」と語った。この電話は当時ケネディのアドバイザーを務めていたノートルダム大学教授で後の上院議員ハリス・ウォフォードの助言を受けたものだった。1960年11月8日に行われた大統領選挙は史上例を見ない接戦であった。極めて伯仲した戦いとなり、ケネディは3,422万6,731票(49.7%)を獲得して、ニクソンは3,410万8,157票(49.5%)で、その差はわずか11万8,574票(0.17%)であった。これは全米の全ての投票所の数が約12万に上るので、単純に1つの投票所でわずか1票の差でしかなかったことになる。ただし大統領選挙人の獲得数はケネディ303人、ニクソン219人。しかし勝った州はニクソン26州、ケネディ23州(あと1州はバード候補)である。しかしこれで選挙で選ばれた大統領としては史上最も若く、カトリック教徒が大統領になったのは初めてであった。父ジョセフは禁酒法時代に密造酒の生産・販売を行っておりマフィアと関係を持っていた。大統領選挙において父ジョセフの依頼でマフィアやマフィアと関係の深い労働組合、非合法組織により、買収や不正な資金調達、複数の州における二重投票など大規模な選挙不正が行われた。またケネディは、予備選挙中にフランク・シナトラから紹介されたシナトラの元恋人で、その後愛人関係を持つことになったジュディス・キャンベルを経由して、マフィアの大ボスのサム・ジアンカーナを紹介してもらい(キャンベルはジアンカーナの元愛人でもあった)、ウェスト・ヴァージニア州における選挙への協力を直接要請した。さらにシナトラが同州のマフィアからケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたこともFBIの盗聴により明らかになっている。選挙終盤にケネディ陣営の大掛かりな不正に気づいたニクソン陣営は正式に告発を行おうとしたが、アイゼンハワーから「告発を行い、泥仕合になると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめている。1960年の大統領選挙で当選した後、ケネディはすぐに組閣にとりかかった。FBIとCIA長官については、エドガー・フーバーとアレン・ダレスをそれぞれ留任させ、トルーマン政権末期の国務長官だったディーン・アチソンに国務長官の就任要請をしたが固辞され、一方父ジョセフから、同じトルーマン政権末期に国防長官を務めたロバート・A・ラヴェットに長官のポストを与えるよう強く進言されて、財務長官への就任を要請した。しかしラヴェットは健康を理由として丁重に断ったが、非公式な顧問を引き受けることになった。国務長官にはアチソンをとラヴェットも最初は考えたが、同時にケネディが要請して断られたことで、この時にケネディはスタッフのコロンビア大学教授リチャード・ニュースタットから「あなたがあなた自身の参謀長になるべき」との考えを聞き、国務長官について前政権でのアイゼンハワーがダレス長官に外交を任せきりになったことの弊害を見て、自分が外交を直接行うので長官は次官級で結構との話をラヴェットにすると、ここで彼はディーン・ラスクを国務長官に、ロバート・マクナマラを国防長官に、そしてC・ダグラス・ディロンを財務長官に任命すべしとケネディに勧告した。この3人の中でC・ダグラス・ディロンはハーバード大学の同窓でアイゼンハワー政権の国務次官であったが、あとの2人をケネディは知らず、全くラヴェットの人物眼だけを信用した人事であった。ディーン・ラスクはラヴェットの私淑したジョージ・マーシャル将軍のお気に入りでありこの時ロックフェラー財団理事長であった。ロバート・マクナマラは第二次大戦中にラヴェットが空軍次官補時代の部下で国防総省であらゆる兵器の現状を把握するシステムを構築したマクナマラの卓抜さに強い印象を受けたとされ、終戦後の1946年にフォードモーター社に彼を推薦したと言われている。マクナマラはこの時にフォードの社長に就任したばかりであった。早速マクナマラにケネディが就任要請をすると、マクナマラが即ラヴェットに相談に行っている。この国務・国防・財務の三本柱に登用した3名については案外に保守派に好評で、ウオール・ストリート・ジャーナル紙も絶賛したという。その他ではハーバード大学教授アーサー・シュレジンジャーを大統領顧問、同じハーバード大学行政学教授マクジョージ・バンディを国家安全保障担当補佐官、マサチューセッツ工科大学経済学教授ウオルト・ロストウを次席補佐官、シカゴ大学法学教授ニコラス・カッツェンバッグを司法次官、EEC法律顧問ジョージ・ボールを経済担当国務次官、CIA分析担当官ウイリアム・バンディを東アジア担当国務次官に任用した。彼らは後にラスクとマクナマラとともにベトナム戦争を泥沼化させた顔ぶれとされてデヴィッド・ハルバースタムが「ベスト&ブライテスト」と名付けたメンバーである。この他に農務長官はミネソタ州知事を務めハンフリーの選対事務局長から途中でケネディ支持にまわり、民主党大会でケネディの指名推薦演説をしたオーヴィル・ロスロップ・フリーマンに決めた。そして父ジョセフからまた強く進言されて司法長官に弟のロバート・ケネディを起用し、民主党の前大統領候補であったアドレー・スティーブンソンは国連大使に任じた。ディーン・アチソンとロバート・A・ラヴェットは1962年のキューバ危機の時に国家安全保障会議執行委員会のメンバーに選ばれ、それぞれ重要な役割を果たし、翌1963年に2人は自由勲章を受章している。1961年1月20日に第35代アメリカ合衆国大統領に就任した。この時ジョン・F・ケネディは43歳8カ月で合衆国史上最も若くして選ばれた大統領であった。第26代大統領セオドア・ルーズベルトがケネディより若い42歳で大統領になったが、前任のウィリアム・マッキンリーが1901年に暗殺された後に副大統領からの昇格であったので、選挙で選ばれた大統領はケネディが史上最年少であり、最初の20世紀生まれの大統領であり、初めてのカトリック教徒の大統領であった。当日のワシントンは冷え込んで雪が積もっていたが天気は晴れていた。アール・ウォーレン最高裁長官の立会いで就任宣誓式に臨み、「私、ジョン・F・ケネディは合衆国大統領の職務を忠実に遂行し全力を尽くして合衆国憲法を守り擁護することを厳粛に誓う。」と宣誓した。そして大統領就任演説において、冷戦で東西対立が厳しい時代に自由を守る決意を明らかにして、さらに「人類の共通の敵」である暴政、差別、貧困、疾病そして戦争との戦いに共に参加するように世界の国々に訴えた。就任演説はその多くが「自由」の価値と自由を守り発展させるために人々が成すべき行動をアメリカ国民及び世界の人々に問うものであった。またそれが困難さを伴うことも明確にした上で次のように呼びかけた。日本では演説の最後に語られた次の一句がよく引用されている。ケネディは、民主党大統領候補指名の受諾演説で提唱した「ニューフロンティア精神」に基づき、その国内政策を「ニューフロンティア政策」と総称した。この政策には7つの項目があり、以下のように名付けた。ケネディはこの7つの項目を政策として具体化したものを議会に66ののぼる特別教書を送り立法措置を勧告した。景気回復と経済成長、国際収支と金の情勢、老齢健康保険、教育、天然資源、平和部隊、国防予算、税制改革、月探検計画、後進国援助に関するものであった。それは公立学校や教員給与の補助のため教育への連邦政府支出拡大、住宅施策の促進、高齢者医療の拡充、都市の再建、そして黒人や少数民族の地位向上や公民権法の制定などの野心的な公約であり、独立以来続いていた人種差別法案の撤廃も含まれた。そして1年目には不況対策、最低賃金引き上げ、平和部隊創設及び軍縮協の創設、2年目には通商拡大法を成立させ、また人種差別についての取り組みはケネディの業績として高く評価されている。しかし概して議会との調整はうまくいかず、連邦政府の権限拡大や選挙に直結するするものについて連邦議会は否定的であった。ことにニューフロンティア政策の社会・経済立法計画は南部民主党と共和党保守派のいわゆる「保守連合」勢力の前に阻まれて難航し、公民権法も彼の在任中は議会を通過しなかった。これに加えて在任中の人気が高かった割には実際に大統領の進歩的計画に対する支持が少ないことや当時の与党民主党の院内指導部が弱体であったことなどの要因がその背景にあったとされている。しかしケネディ暗殺後に昇格したジョンソン大統領の時代に入ると院内総務を歴任し議会との駆け引きを得意とした生粋の議会政治家であったジョンソンが1964-65年度会期中に懸案であった公民権法や老齢健康保険法や住宅都市局の設置などを議会との折衝で次々と可決させた。ソ連に遅れをとり劣勢であった宇宙開発競争では初の有人飛行でガガーリンが地球を一周に成功した直後に、挽回のための施策として1960年代の終わりまでに月に人類を送る計画を発表し、それは彼の死後もアメリカの大きな夢として推進されて1969年に実現した。ケネディはアイゼンハワー政権末期から始まった不況への対策として、失業手当の13週間延長、失業者の子供への補助金、早期退職を奨励するための年金増額、最低賃金の向上、スラム再開発のための政府融資などの法案を通過させるとともに、各省庁の物資調達や公共投資の前倒しを行い、経済回復へと向かわせようとした。経済政策では共和党の伝統的な財政均衡策を理解しつつもケインズに近い考え方を持っていた。経済諮問委員会委員長にケインズ主義者であったミネソタ大学のヘラー教授を指名し、積極的な財政・金融政策、とくに大幅減税による経済成長と完全雇用を目指した。しかし就任当初に景気が上向きになったので経済に急進的な介入を行う必要が無くなった。けれど失業率が依然として6%以上と高く、1962年3月にはニューヨーク株式市場が暴落するなど問題が生じている。ケネディはこの時点で企業と高所得者に対する減税政策を打ち出したが、議会で民主党から反対にあい挫折した。

出典:wikipedia

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