朝潮(あさしお / あさしほ)は、大日本帝国海軍に所属した駆逐艦。一等駆逐艦「朝潮」は朝潮型駆逐艦の1番艦。この名を持つ帝国海軍の艦船としては白雲型駆逐艦「朝潮」(1922年4月1日、駆逐艦籍より除籍)に続き2隻目となる。太平洋戦争開戦時、朝潮型4隻(朝潮、大潮、満潮、荒潮)は第8駆逐隊を編制しており、南方作戦やバリ島沖海戦に参加。ミッドウェー海戦における第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は最上型重巡洋艦4隻の第七戦隊(司令官栗田健男中将)と共に戦い、「三隈」・「最上」掩護時に損傷した。本艦は横須賀鎮守府所属の警備駆逐艦として船団護衛に従事後、再び第8駆逐隊僚艦と共にガダルカナル島攻防戦に投入され、駆逐艦輸送や第三次ソロモン海戦に参加した。1943年(昭和18年)3月3日、ビスマルク海海戦で撃沈され、本艦から指揮をとっていた第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐も戦死した。ネームシップである本艦の沈没後、朝潮型駆逐艦は『満潮型駆逐艦』と改定された。艦名は海上自衛隊の潜水艦に襲名された。仮称第75号駆逐艦として建造計画がはじまった。1935年(昭和10年)9月6日、佐世保海軍工廠で建造予定の駆逐艦に『朝潮』、舞鶴要港工作部で建造予定の駆逐艦に『大潮』の艦名が与えられた。同日附で艦艇類別等級表に朝潮型駆逐艦を新設。本艦は佐世保海軍工廠で9月7日に起工。1936年(昭和11年)12月16日に進水した。日本海軍は、吹雪型駆逐艦潮・峯風型沖風艦長等を歴任した成田茂一中佐を朝潮艤装員長に任命する。当事の佐世保工廠では、白露型4番艦夕立の建造が最終段階に入っていた(翌年1月7日竣工)。12月28日、佐世保海軍工廠に朝潮艤装員事務所を設置。1937年(昭和12年)8月2日、成田艤装員長は正式に朝潮駆逐艦長(初代)に任命される。本艦は8月31日に竣工した。これは白露型10番艦「涼風」と同日附である。第二次軍備補充計画(マル2計画)では海風型駆逐艦(改白露型)を14隻建造の予定であったが、ロンドン海軍軍縮条約脱退もあり4隻で建造を打ち切り、残りの10隻は設計を改め朝潮型として建造した。当初、佐世保鎮守府籍に入った。本艦は竣工と同日附で佐世保鎮守府警備戦隊に編入。編入時の佐世保警備戦隊は、戦艦「金剛」、軽巡「長良」、第24駆逐隊(海風、山風、江風、涼風)等が所属していた。9月19日、佐世保警備戦隊旗艦は金剛型戦艦1番艦「金剛」から「朝潮」に変更された。旗艦は10月4日附で「金剛」に戻るが、10月9日から「朝潮」は再び佐世保警備戦隊旗艦となった。28日、旗艦は「朝潮」から「金剛」に変更される。だが10月30日から11月5日にかけても佐世保警備戦隊旗艦となった。同年10月31日、最上型重巡洋艦2隻(鈴谷、熊野)と朝潮型姉妹艦2隻(大潮、満潮)が同時に竣工。満潮駆逐艦長は佐藤康夫中佐(朝潮沈没時の第8駆逐隊司令)である。同日附で樅型駆逐艦3隻(梨、竹、榧)の第25駆逐隊を、朝潮型3隻(朝潮、大潮、満潮)で再編(第25駆逐隊司令井原美岐雄大佐)。井原は司令駆逐艦を「大潮」に指定した。第25駆逐隊は、そのまま佐世保警備戦隊に所属。1937年(昭和12年)11月から12月にかけて中支方面で活動する。12月1日附で成田(朝潮艦長)は軽巡神通副長に転任(後日、成田は軽巡大井艦長)。白露型3番艦村雨駆逐艦長脇田喜一郎中佐が朝潮駆逐艦長(2代目)に任命された。「朝潮」は12月1日から12月8日まで第25駆逐隊司令駆逐艦となるが、それ以外の時期はおおむね「大潮」に指定されている。日本に帰投後の12月29日、佐世保海軍工廠での検査でタービン翼の破損が発見され、同型艦3隻(大潮、満潮、荒潮)とともに改造工事を実施した(臨機調事件)。1938年(昭和13年)1月13日、前年末に竣工した「荒潮」が第25駆逐隊に編入され、同隊は定数4隻(朝潮、大潮、満潮、荒潮)となる。同日、山隈和喜人少佐(荒潮艦長)が睦月型駆逐艦5番艦皐月艦長へ転任。艦長不在となったため、朝潮駆逐艦長脇田喜一郎少佐が朝潮艦長と荒潮艦長を兼務する。3月30日、吉田義行中佐が荒潮駆逐艦長に任命され、脇田少佐は兼務を解かれた。8月2日附で姉妹艦大潮駆逐艦長勝見基少佐は白露型駆逐艦1番艦白露駆逐艦長へ転任。脇田(朝潮艦長)が2隻(朝潮、大潮)の駆逐艦長を兼務することになった。12月15日、脇田(朝潮艦長)は吹雪型駆逐艦1番艦吹雪駆逐艦長へ転任(脇田は陽炎型8番艦雪風艦長等を歴任。第41駆逐隊司令として秋月型駆逐艦霜月沈没時に戦死)、白露型2番艦時雨艦長横井稔少佐が朝潮駆逐艦長に任命された。大潮駆逐艦長には神風型駆逐艦疾風艦長飛田健二郎少佐が任命された。1939年(昭和14年)5月20日附で横井(朝潮艦長)は白露型9番艦江風駆逐艦長へ転任、大潮駆逐艦長飛田健二郎少佐が2隻(朝潮、大潮)の駆逐艦長を兼務することになった。10月15日附で飛田少佐(朝潮、大潮艦長兼務)は白露型7番艦海風艦長へ転任(開戦時の陽炎型8番艦雪風駆逐艦長)、江風駆逐艦長だった横井稔少佐は再び朝潮駆逐艦長に任命された(後任の江風駆逐艦長は吉川潔少佐)。また大潮艦長には渡邉保正少佐(海風艦長)が任命された。1939年(昭和14年)11月1日、横須賀鎮守府へ転籍。同日附で第25駆逐隊は第8駆逐隊と改名される。それまでの第8駆逐隊は第20駆逐隊(朝霧、夕霧、天霧、狭霧《11月15日編入》)となった。11月15日附で伊集院松治大佐が第8駆逐隊司令に任命された。同時に第二艦隊第二水雷戦隊に編入され、以後中国方面で活動した。1940年(昭和15年)10月15日附で横井中佐(朝潮艦長)は陽炎型駆逐艦1番艦陽炎駆逐艦長へ転任、藤田勇少佐(初春型駆逐艦6番艦夕暮駆逐艦長)が朝潮駆逐艦長に任命された。また伊集院(第8駆逐隊司令)も川内型軽巡洋艦3番艦那珂艦長へ転任、後任の8駆司令は森下信衛大佐(レイテ沖海戦時、戦艦「大和」艦長)となる。太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)7月30日、五藤存知第二水雷戦隊司令官は二水戦旗艦を川内型軽巡洋艦2番艦「神通」から「朝潮」に変更、「朝潮」は8月14日まで第二水雷戦隊旗艦となった。9月1日、森下信衛大佐(第8駆逐隊司令)は軽巡洋艦「大井」艦長に補職、第21駆逐隊司令阿部俊雄大佐が第8駆逐隊司令に任命される。9月10日附で朝潮駆逐艦長も藤田中佐から吉井五郎少佐(初春型3番艦若葉駆逐艦長)に交代した(藤田中佐は12月20日附で夕雲型駆逐艦2番艦巻雲艤装員長。翌3月、初代駆逐艦長となった)。9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)司令官へ転任、後任の二水戦司令官は田中頼三少将となった。太平洋戦争開戦時、朝潮型姉妹艦4隻(朝潮、大潮、満潮、荒潮)はひきつづき第8駆逐隊(駆逐隊司令阿部俊雄大佐)を編制。第三戦隊第2小隊(金剛、榛名)、第四戦隊(愛宕、高雄、摩耶)、第4駆逐隊(嵐、野分、舞風、萩風)、第6駆逐隊第1小隊(響、暁)、第8駆逐隊の各隊・各艦で南方部隊本隊(指揮官第二艦隊司令長官近藤信竹中将:南方部隊旗艦/第二艦隊旗艦愛宕)を編制していた。開戦とともに第8駆逐隊はマレー第一次上陸作戦、リンガエン湾上陸作戦を支援。1942年(昭和17年)1月よりアンボン、マカッサル攻略作戦に従事する。2月中旬、第8駆逐隊は第一根拠地隊(司令官久保九次少将:軽巡長良〔旗艦〕、第21駆逐隊《若葉、子日、初霜》)の指揮下でバリ島攻略作戦に参加した。2月19日-20日、第8駆逐隊第1小隊(大潮、朝潮)はABDA艦隊の軽巡洋艦3隻、駆逐艦7隻と交戦、駆逐艦「」を撃沈し、蘭軽巡トロンプと米駆逐艦スチュワートに損傷を与えた(バリ島沖海戦)。しかし海戦終盤になって戦場に到着した第8駆逐隊第2小隊(満潮、荒潮)はABDA艦隊の反撃を受け、「満潮」が大破した。第一根拠地隊(長良、若葉、子日、初霜)に護衛されて退避中、空襲により「大潮」も損傷した。阿部司令は司令駆逐艦を「大潮」から「朝潮」に変更した。後日(同年12月8日)、山本五十六連合艦隊司令長官はバリ島沖海戦における第8駆逐隊の活躍に感状を与えた。僚艦2隻(大潮、満潮)はマカッサル(スラウェシ島)で応急修理に従事する。暫定的に2隻だけとなった第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は、つづいてジャワ島攻略作戦に参加した。3月14日、第8駆逐隊司令は小川莚喜中佐に交代し、阿部大佐は第10駆逐隊(秋雲、夕雲、夕雲、風雲)司令に転任した(後日、軽巡大淀艦長、空母信濃艦長等を歴任、信濃沈没時に戦死)。第8駆逐隊司令駆逐艦は「朝潮」より「大潮」に変更。翌日、3隻(神通、朝潮、荒潮)は内地に向け出港する。19日、陽炎型3番艦「黒潮」(第15駆逐隊)が神通隊に合流、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は2隻(神通、黒潮)と分離し、パラオで補給することになった。24日、横須賀到着。内地帰投後の2隻(朝潮、荒潮)は3月25日から4月15日まで横須賀で修理を行った。修理中の4月10日、第8駆逐隊は第二艦隊・第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦、朝潮型駆逐艦7番艦夏雲)に編入された。それまで四水戦旗艦だった川内型軽巡3番艦「那珂」はクリスマス島攻略戦で潜水艦に雷撃され大破していた(6月15日附四水戦除籍)。修理完成直後の4月18日、米空母ホーネットから発進したジミー・ドーリットル中佐率いるB-25ミッチェル爆撃機16機が日本本土空襲を敢行し、米空母追撃の指揮をとる第二艦隊司令長官(前進部隊指揮官)近藤信竹中将はまず横須賀在泊中の重巡2隻(愛宕《旗艦》、高雄)、第10駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲)、第7駆逐隊(潮、曙、漣)、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)、第4駆逐隊(嵐、野分)および空母「祥鳳」を指揮下して横須賀を出撃する。同時に三河湾に停泊中の重巡摩耶(第四戦隊)、桂島泊地の第五戦隊(妙高、羽黒)、呉の軽巡神通(第二水雷戦隊)に対しても前進部隊への合流を指示した。だが米空母2隻(ホーネット、エンタープライズ)は東方へ退避しており、日本軍各艦は順次母港へ帰投した。この時、「荒潮」は1番主砲防水帯故障、「朝潮」は悪天候による負傷者を出し速力を出せなくなり、第五戦隊(妙高、羽黒)は先に横須賀へ戻っている。4月23日、第8駆逐隊司令駆逐艦は「朝潮」に復帰した。5月15日、姉妹艦2隻(大潮、満潮)は第8駆逐隊から除籍され、同隊は2隻編制(朝潮、荒潮)に減少する。姉妹艦3隻(大潮、満潮、山雲)は特別役務艦に指定され、各地で修理に従事した。5月9日、長良型軽巡洋艦4番艦「由良」が第四水雷戦隊に編入され、5月20日をもって第四水雷戦隊旗艦は「夏雲」から「由良」に変わった。同日附で由良・第2駆逐隊・第9駆逐隊はミッドウェー作戦において攻略部隊主隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は攻略部隊支援隊(指揮官、第七戦隊司令官栗田健男中将)という区分を通達される。6月上旬のミッドウェー作戦における第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は、前述のように攻略部隊支援隊(指揮官栗田健男第七戦隊司令官)として参加。6月5日、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は第七戦隊(司令官栗田中将:旗艦「熊野」)の最上型重巡洋艦4隻(熊野、鈴谷、三隈、最上)と共にミッドウェー島砲撃を命じられ、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は第七戦隊の高速航行に付随できず脱落。その作戦行動中に、三隈・最上の衝突事故が起きた。栗田司令官直率の第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)は先行、三隈艦長指揮下の七戦隊第2小隊(三隈、最上)と8駆(朝潮、荒潮)は戦場離脱をはかるが、6月6日から6月7日にかけての空襲により「三隈」は沈没、「最上」もさらに大破した。8駆(朝潮、荒潮)は損傷を受けつつ三隈生存者を救助し、引続き「最上」を護衛して戦場から離脱。6月8日に近藤長官が指揮する攻略部隊(第二艦隊基幹、旗艦愛宕)と合流した。6月14日、栗田部隊(第七戦隊《熊野、鈴谷、最上》、第8駆逐隊《朝潮、荒潮》、第18駆逐隊《不知火、陽炎、霞、霰》、油槽船《日栄丸》)はトラック泊地に到着。第18駆逐隊は第七戦隊1小隊(熊野、鈴谷)を護衛して内地へ帰投。損傷各艦(最上、朝潮、荒潮)は工作艦「明石」の支援を受けて応急修理に従事した。6月29日、本艦はトラック泊地を出発。7月上旬、サイパンの水上機母艦「能登呂」が佐世保に戻ることになり、「朝潮」は同艦を護衛して日本本土へ向かった(7月9日、佐世保着)。日本本土に帰投した第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は、他の駆逐艦や潜水艦と共に佐世保海軍工廠で修理に従事する。7月14日、2隻(朝潮、荒潮)は共に特別役務駆逐艦となった。7月15日附で小川中佐(第8駆逐隊司令)は転任、佐世保防備隊司令岡野慶三郎大佐が第8駆逐隊司令を兼務することになった。7月25日、修理完成。7月27日、本艦は横須賀に向けて呉を出発。横須賀移動後、呂三一潜水艦・でりい丸・「朝潮」は横鎮長官平田昇中将の視察を受けた。8月1日、2隻(朝潮、荒潮)は警備駆逐艦となる。同日附で横須賀防備隊司令緒方勉大佐が第8駆逐隊司令を兼任することになった。第8駆逐隊司令駆逐艦は短期間「荒潮」になったのち、「朝潮」に復帰。「荒潮」の修理が長期に及んだため(修理完成10月下旬、戦線復帰11月中旬)、「朝潮」は横須賀を拠点に、各艦(長波、朧、旗風、澤風)等と船団護衛任務や哨戒任務に従事した。8月18日、駆逐艦2隻(朝潮、朧)は横須賀からトラック泊地へ向かう香取型練習巡洋艦1番艦「香取」(第六艦隊旗艦)と特設潜水母艦「平安丸」を途中まで護衛した。8月29日、横須賀を出発しヤルート環礁に進出(9月5日着、6日出発)、9月14日に横須賀へ戻った。9月22日、駆逐艦2隻(朝潮、高波)は沖輸送(陸軍部隊輸送)のため佐伯進出を下令される。第二船団護隊(朝潮、朝凪)を編制。9月27日の出撃後、途中で「朝凪」に護衛を引き継ぎ、本艦は横須賀に戻った。1942年(昭和17年)10月20日、第8駆逐隊に「満潮」が復帰した。また第8駆逐隊司令として山代勝守大佐が着任。第8駆逐隊は第八艦隊(司令長官三川軍一中将)に編入された。10月22日、第8駆逐隊(満潮、朝潮)は横須賀を出発、10月30日にラバウルへ到着。11月1日からガダルカナル島輸送作戦(鼠輸送/東京急行)に従事する。11月1日、増援部隊指揮官橋本信太郎少将(第三水雷戦隊司令官)は旗艦を川内型軽巡洋艦1番艦「川内」から青葉型重巡洋艦2番艦「衣笠」に変更、第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧、初雪)を率いて1日23時にショートランド泊地を出撃した。甲増援隊(指揮官高間完第四水雷戦隊司令官:朝雲〔第四水雷戦隊旗艦〕、軽巡《天龍》、第2駆逐隊《村雨、春雨、夕立》、第27駆逐隊《時雨、白露、有明、夕暮》、第6駆逐隊《暁、雷》、第11駆逐隊《白雪》)および乙増援隊(第8駆逐隊《満潮、朝潮〔荒潮欠〕》、第19駆逐隊《浦波、敷波、綾波》、望月《挺身輸送隊基地撤収》)も第一攻撃隊と前後してショートランド泊地を出撃した。甲増援部隊の揚陸はガ島揚陸地点の強風波浪により一部失敗したが、乙増援部隊の輸送は成功した。11月4日、増援部隊指揮官橋本三水戦司令官は旗艦を重巡「衣笠」から駆逐艦「浦波」に変更して戦力を再編、甲増援隊(朝雲〔第四水雷戦隊旗艦〕、第2駆逐隊《村雨、春雨、夕立》、第27駆逐隊《時雨、白露、有明、夕暮》、第8駆逐隊《朝潮、満潮》)は4日23時30分にショートランド泊地を出撃。乙増援隊(第19駆逐隊《浦波、敷波、綾波》、第11駆逐隊《白雪》、望月、天龍)は5日午前0時に同泊地を出撃した。5日深夜、各隊はガ島揚陸に成功し、2隻(朝雲、天龍)が米潜水艦に雷撃されるも損害はなかった。この輸送作戦をもって橋本三水戦司令官は外南洋部隊増援部隊の指揮権を第二水雷戦隊司令官田中頼三少将に引き継ぎ、川内以下三水戦各艦と共にトラック泊地へ戻った。11月7日、高間四水戦司令官は駆逐艦「朝雲」から軽巡「天龍」に旗艦を変更、ガ島輸送は第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐指揮下の乙増援隊(朝雲《旗艦》、望月、村雨、夕立、時雨、白露、夕暮、朝潮、満潮)によって実施されることになった。7日23時にショートランド泊地を出撃、8日夜のガ島揚陸では「望月」に魚雷1本が命中するも不発だった。輸送作戦は成功した。この後、四水戦旗艦は再び「朝雲」に戻った。11月12日以降、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場基地に対する砲撃と日本軍輸送船団をめぐり、日米双方は主力艦隊を投入して大規模海戦に発展していった(第三次ソロモン海戦)。12日第一次夜戦で帝国海軍は3隻(戦艦《比叡》、駆逐艦《夕立、暁》)を喪失、飛行場砲撃も中止された。11月13日未明、アメリカ軍大型機の空襲により「朝潮」と共に出撃準備中の「満潮」が大破。このため主隊所属の本艦が飛行場砲撃時に支援隊を護衛することになった。同日午前3時-4時30分、外南洋部隊主隊(重巡《鳥海、衣笠》、軽巡洋艦《五十鈴》)と外南洋部隊支援隊(指揮官西村祥治第七戦隊司令官:旗艦「鈴谷」、重巡《鈴谷、摩耶》、軽巡《天龍》、第10駆逐隊《夕雲、巻雲、風雲》、第8駆逐隊《朝潮》)はショートランド泊地を出撃する。同日23時30分より重巡2隻(鈴谷、摩耶)はヘンダーソン飛行場砲撃を敢行するが、飛行場の作戦能力に影響はなかった。このあとガ島海域を離脱してニュージョージア諸島南方を航行中の外南洋部隊(三川艦隊)は空母エンタープライズ艦載機と、ヘンダーソン基地から飛来した急降下爆撃機SBDドーントレスおよび雷撃機TBFアベンジャーの攻撃を受ける。日中の空襲で「衣笠」が沈没し、日本軍輸送船団(第二水雷戦隊護衛中)も大損害を受けた。「朝潮」は損傷した「五十鈴」を護衛して帰投した。さらに11月14日第二夜戦で2隻(霧島、綾波)が沈没、第三次ソロモン海戦は帝国海軍の完敗で終わった。11月17日朝、朝潮以下、外南洋部隊主力艦艇はラバウルに到着、パプアニューギニアのブナに上陸を敢行した連合軍に対処することになった(ブナ・ゴナの戦い)。同日夜の駆逐艦5隻(夕雲、風雲、巻雲、陽炎、親潮)の陸兵1000名のブナ輸送は成功した。一方、駆逐艦3隻(朝潮、海風、江風)と鴻型水雷艇2隻による陸兵500名のバサブア輸送作戦は、揚陸中にB-17重爆の空襲をうけて本艦以下3隻が損傷(海風大破、江風中破、朝潮小破)。特に「海風」は航行不能となった。「江風」は単艦で退避、「朝潮」は「海風」を曳航して21日ラバウルへ戻った。ラバウルに停泊中だった第15駆逐隊2隻(親潮、陽炎)も2隻(海風、朝潮)救援のため出撃している。12月1日午前0時、第8駆逐隊司令指揮下の駆逐艦4隻(朝潮、荒潮、磯波、電)はブナ輸送のためラバウルを出撃する。アメリカ軍大型爆撃機の執拗な空襲に悩まされた上に揚陸地点で大発動艇部隊との連絡がつかず、2日未明に一部物件を揚陸したにとどまった。電・朝潮はB-17と交戦して撃墜された友軍航空機搭乗員1名をそれぞれ救助した。12月8日早朝、第10駆逐隊司令阿部俊雄大佐指揮下の駆逐艦6隻(風雲、夕雲、朝潮、荒潮、磯波、電)はブナ輸送を実施するためラバウルを出撃するが、8時15分、飛来したB-24(1機)を味方機と誤認した「朝潮」は空襲を受け艦尾に至近弾となり二番・三番砲塔損傷、中破した。軽巡「天龍」が救援に向かう中、外南洋部隊(第八艦隊)の下令に従い輸送駆逐隊は反転した。帰途、「磯波」も至近弾で小破した。応急修理後の12月17日、陸兵輸送のため駆逐艦2隻(朝潮、望月)はラバウルを出撃してカビエン(ニューアイルランド島)へ移動、18日にカビエン出撃、19日にダンピール海峡ニューギニア側のフォン半島フィンシュハーフェンへ陸兵約250名を揚陸した。帰途、空襲をうけ至近弾を受けた「望月」は死傷者40数名を出した。12月20日、ニューアイルランド島カビエンに回航(望月はラバウル帰投)。本艦は第七戦隊の重巡2隻(熊野、鈴谷)より燃料補給を受けた。21日、「朝潮」はカビエンを出発、ラバウルへ向かった。12月22日、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は、朝潮(第8駆逐隊司令)に対しショートランド泊地への移動を下令。同地に取り残されていた「満潮」をトラック泊地まで曳航するよう命じ、また駆逐艦天霧に対しては第8駆逐隊(朝潮、満潮)の護衛を命じた。12月29日、朝潮型2番艦「大潮」が第8駆逐隊に復帰、最前線に進出した。1943年(昭和18年)1月5日、第8駆逐隊司令駆逐艦は「大潮」に変更される。1月7日、駆逐艦部隊(電、磯波、有明、夕暮、朝潮、天霧)、戦艦「陸奥」、空母「瑞鶴」、重巡「鈴谷」はトラック泊地を出発、内地へ向かった。12日、3隻(陸奥、朝潮、電)は横須賀に帰投する。1月26日、外南洋部隊増援部隊の任は第十戦隊司令官小柳冨次少将から第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将に変わった。2月7日、第四水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦「村雨」)は駆逐艦3隻(村雨、浦波、朝潮)および空母「冲鷹」を指揮して横須賀を出港。2月12日、4隻はトラック到着。到着と共に第四水雷戦隊旗艦は長良に変更された。また2月14日附で第三水雷戦隊司令官は橋本信太郎少将から木村昌福少将へ交代。第8駆逐隊司令も2月15日附で山守勝代大佐から佐藤康夫大佐(前職第9駆逐隊司令)に交代した。だが2月20日、姉妹艦「大潮」(佐藤司令座乗)が米潜水艦アルバコア ("USS Albacore, SS-218") の雷撃で大破、「荒潮」による曳航退避を試みるが、2月21日になり船体が断裂し「大潮」は沈没した。第8駆逐隊は3隻編制(朝潮、荒潮、満潮)となり、この時点での司令駆逐艦は「荒潮」になった。22日夜、駆逐艦2隻(朝潮、浦波)はマダンに陸軍航空基地員250名を揚陸した。その後、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は第三水雷戦隊に編入。3月1日時点の外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)主隊は重巡「青葉」、同隊増援部隊(指揮官木村昌福第三水雷戦隊司令官)は川内型軽巡洋艦1番艦「川内」、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)、第11駆逐隊(白雪、初雪)、第22駆逐隊、第10駆逐隊、第16駆逐隊(雪風、時津風)、第9駆逐隊(朝雲、峯雲)、第19駆逐隊(浦波、敷波)、第2駆逐隊(村雨、五月雨)という戦力で編制されていた。本艦は三水戦司令官木村昌福少将の指揮下(三水戦司令官は駆逐艦白雪座乗)でラエ輸送作戦(第八十一号作戦)に参加する。駆逐艦8隻(白雪、浦波、敷波、朝潮、荒潮、朝雲、雪風、時津風)で輸送船8隻(陸軍輸送船7隻、海軍運送艦野島)を護衛することになった。だが3月3日にダンピア海峡で連合軍機の空襲を受け、輸送船8隻は全隻沈没、本艦を含む駆逐艦4隻(朝潮、荒潮、白雪、時津風)も沈没した。経過は以下のとおり。第八十一号作戦輸送船団は2月28日夜半にラバウルを出発したが、3月2日の空襲で「旭盛丸」が沈没(兵員は雪風と朝雲が救助、先行して輸送後に船団護衛に復帰)、「野島」が損傷を受けた。3月3日0750以降、連合国軍は再び大規模空襲を敢行した(ビスマルク海海戦)。零式艦上戦闘機約40機(瑞鳳戦闘機隊15を含む)が上空直掩をおこなっていたが、アメリカ軍爆撃機を護衛する米戦闘機約50との空戦に巻き込まれた上に多方向から襲来する連合軍大型爆撃機に対処できず、船団を掩護できなかった。ニューギニア島フォン半島クレチン岬南東でアメリカ、オーストラリア軍機の空襲を受けた輸送部隊(駆逐艦8、輸送船7)は、連合軍機の反跳爆撃によって次々に被弾、第一次空襲の時点で全滅状態となった。護衛部隊では駆逐艦3隻(白雪、時津風、荒潮)が戦闘開始直後に被弾、健在艦は5隻(朝雲、雪風、浦波、敷波、朝潮)となった。0900より駆逐艦5隻は生存者の救助を開始するが、1035の『敵機24発進』という報告により、木村司令官(白雪から敷波に移乗)は救助作業中止とロング島北方海面への避退・集結を命じた。ところが、朝潮座乗中の第8駆逐隊司令佐藤康夫大佐は『我野島艦長トノ約束アリ 野島救援ノ後避退ス』と発信、単艦で特務艦「野島」(特務艦長松本亀太郎大佐)、僚艦「荒潮」の救助にむかった。まず「荒潮」より負傷者と便乗陸兵を収容(荒潮は残乗組員により北方へ退避を続行)。つづいて炎上する「野島」より生存者を救助したのち「朝潮」はラバウルへ避退しようと試みたが、1315に二回にわたる敵機(約40)の攻撃を受けて撃沈された。この戦闘で吉井中佐(朝潮駆逐艦長)、久保木英雄中佐(荒潮駆逐艦長)が戦死、佐藤司令は「朝潮」から脱出せず戦死(戦死後、二階級進級)、松本(野島艦長)は生還した。この戦闘で救助者も含め299名が戦死。2300から4日1000にかけて3隻(敷波、朝雲、雪風)と増援の駆逐艦「初雪」(第11駆逐隊)が沈没現場に戻り、生存者を救助してラバウルへ戻った。漂流していた「荒潮」は「雪風」に乗員移乗後、放棄されて沈没した。また乗組員退去後に漂流していた「時津風」に対し、3月4日日本軍航空隊(九九式艦上爆撃機9機)が爆撃処分を試みるが失敗、午後になりアメリカ軍機の空襲を受けて沈没した。3月6日、トラック泊地で応急修理を受けていた朝潮型3番艦「満潮」は陽炎型駆逐艦13番艦「浜風」に曳航され、同型18番艦「舞風」の護衛下で同泊地を出港、日本本土へ戻った。満潮内地帰投航海中の3月7日、呂百一号潜水艦は「朝潮」から脱出後、大発動艇に乗り漂流中の野島艦長及び生存者の一群を救助した。駆逐艦「朝潮」は4月1日附で帝国駆逐艦籍から除籍され、満潮1隻だけとなった第8駆逐隊は解隊。さらにネームシップの「朝潮」を喪失した朝潮型駆逐艦の艦型名は満潮型駆逐艦と改定され、3隻(朝潮、荒潮、大潮)は満潮型駆逐艦からも除籍された。
出典:wikipedia
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