峯雲(みねぐも)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。一等駆逐艦「峯雲」は朝潮型駆逐艦の8番艦である。太平洋戦争緒戦時は朝潮型4隻(峯雲、朝雲、山雲、夏雲)により第9駆逐隊(駆逐隊司令佐藤康夫大佐)を構成しており、同駆逐隊は南方作戦、蘭印作戦(バリクパパン沖海戦、スラバヤ沖海戦)、ミッドウェー海戦(攻略部隊)、ガダルカナル島攻防戦(鼠輸送)等に参加。本艦は1942年(昭和17年)10月上旬に空襲を受け損傷、内地に戻り修理を行う。戦線復帰後の1943年(昭和18年)3月上旬、コロンバンガラ島輸送作戦にともなうビラ・スタンモーア夜戦において、白露型駆逐艦3番艦「村雨」と共に撃沈された。戦後、海上自衛隊の護衛艦「みねぐも」が就役した。1936年(昭和11年)12月14日、日本海軍は建造予定の水上機母艦2隻・駆逐艦2隻に、水上機母艦「千代田」と「瑞穂」、朝潮型駆逐艦「峯雲」と「霰」の艦名を与えた。藤永田造船所で建造された朝潮型は、本艦のほかに3番艦「満潮」、6番艦「山雲」の計3隻である。駆逐艦「峯雲」は1937年(昭和12年)3月22日に起工。同年11月4日に進水。翌日には神戸川崎造船所で姉妹艦「朝雲」も進水した。1938年(昭和13年)1月20日、朝潮型2番艦「大潮」駆逐艦長山代勝守中佐は峯雲艤装員長を命じられる。1月27日、藤永田造船所に峯雲艤装員事務所を設置。本艦は4月30日に竣工。峯雲艤装員事務所は撤去され、山代中佐も本艦初代駆逐艦長となった。竣工と共に、本艦は第41駆逐隊(2月10日附編制、司令駆逐艦「山雲」。駆逐隊司令高間完大佐)に編入される。7月22日、高間大佐は敷設艦「厳島」艦長へ転任。後任の第41駆逐隊司令は板垣盛大佐(第10駆逐隊《狭霧、漣、暁》司令)。11月20日、峯雲駆逐艦長は山代から、吹雪型駆逐艦1番艦「吹雪」駆逐艦長山田鐵夫中佐に交代。12月15日に第三予備艦となり横須賀海軍工廠で蒸気タービン機関の改造工事を実施した(臨機調事件)。山田(峯雲艦長)は12月15日から12月20日まで、姉妹艦「朝雲」駆逐艦長を兼務した。1939年(昭和14年)1月15日附で第1駆逐隊司令手束五郎大佐は第41駆逐隊司令を兼任する。4月15日より柴田力大佐が第1駆逐隊(10月20日まで)と第41駆逐隊司令を兼ねる。また山田(峯雲艦長)は9月1日から10月10日まで、再び「朝雲」駆逐艦長を兼務している。後任の「朝雲」駆逐艦長は、吹雪型1番艦「吹雪」駆逐艦長の脇田喜一郎中佐(後日、脇田は陽炎型8番艦「雪風」駆逐艦長)。11月15日、所属の第41駆逐隊は第9駆逐隊と改称。第41駆逐隊司令だった柴田大佐は第28駆逐隊司令へ転任。第9駆逐隊初代司令は新美和貴大佐(第6駆逐隊司令)、司令駆逐艦は「朝雲」。なお、それまでの第9駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)は、前年11月15日附で佐世保鎮守府所属の第27駆逐隊と改称されている(駆逐隊司令渋谷紫郎大佐)。1940年(昭和15年)10月15日、山田(峯雲駆逐艦長)は軽巡洋艦「川内」副長へ転任。後任の峯雲艦長は鈴木保厚中佐(白露型駆逐艦1番艦「白露」駆逐艦長)となる。11月15日、第9駆逐隊は第二艦隊・第四水雷戦隊に編入された。新美(9駆司令)は軽巡洋艦「多摩」艦長へ転任。後任の第9駆逐隊司令は篠田勝清大佐(第30駆逐隊司令)。四水戦司令官は戦艦「榛名」艦長の西村祥治少将となる。1941年(昭和16年)4月10日、第9駆逐隊司令は佐藤康夫大佐(第5駆逐隊司令)に交代する。篠田大佐は、のちに戦艦「山城」艦長としてレイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦で戦死した。6月23日、連合艦隊の第16回応用訓練が終了した午後6時頃、本艦は日向灘で陽炎型6番艦「夏潮」(第15駆逐隊)に衝突して艦首を損傷。後進をかけたところ、後続の陽炎型3番艦「黒潮」(第15駆逐隊)に追突され艦尾にも損傷を受けた。修理は呉海軍工廠において5ヶ月間かけて行われた。太平洋戦争開戦時には、朝潮型4隻(朝雲、山雲、夏雲、峯雲)で引続き第9駆逐隊(司令佐藤康夫大佐)を編制し、第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦「那珂」)麾下の第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨、夕立)、第24駆逐隊(海風、江風、山風、涼風)と共に比島部隊(指揮官高橋伊望第三艦隊司令長官:旗艦「足柄」)に所属していた。四水戦所属の第4駆逐隊(嵐、野分、萩風、舞風)は南方部隊本隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官:旗艦「愛宕」)に編入されており、四水戦とは別行動である。南方作戦に参加して、ビガン、リンガエン湾上陸作戦を支援した。12月31日、「山雲」が機雷により大破、長期戦線離脱を余儀なくされた(翌年5月15日附で第9駆逐隊より除籍)。事実上3隻編制(朝雲、夏雲、峯雲)となった第9駆逐隊は、1942年(昭和17年)1月よりタラカン、バリクパパン等(バリクパパン沖海戦)の攻略作戦に加わり、2月以降はマカッサルやジャワ島攻略作戦に協力、蘭印作戦に従事した。1942年(昭和17年)2月下旬、駆逐艦「峯雲」以下第四水雷戦隊はジャワ島攻略を目指す日本軍輸送船団を護衛、これを迎撃すべくカレル・ドールマン少将率いるABDA艦隊が出現し、大規模海戦となる(スラバヤ沖海戦)。第9駆逐隊僚艦「夏雲」は、第24駆逐隊の「海風」、初鷹型急設網艦「若鷹」等と共に輸送船団の護衛を任されており、魚雷戦に参加できなかった。本海戦で第四水雷戦隊(那珂、村雨、五月雨、春雨、夕立、朝雲、峯雲)は、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦「神通」)指揮下の「神通、雪風、初風、時津風、天津風、江風、山風、潮、曙、漣」や第五戦隊(司令官高木武雄少将:那智、羽黒)と共に、ABDA艦隊と交戦する。第五戦隊・第二水雷戦隊とも気迫にかけるなかで第四水雷戦隊は連合軍艦隊に接近し、さらに第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐の下令により第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は最も敵艦隊に接近する。この時、重巡「羽黒」の20cm砲弾が英重巡洋艦「エクセター」の機関部に命中して炸裂。ドールマン少将は被弾し速力の低下した「エクセター」の避退を援護するため、英駆逐艦に第9駆逐隊を撃退するよう命じた。第9駆逐隊は煙幕から駆逐艦2隻(エレクトラ、エンカウンター)が飛び出してくるのを確認し、距離3000mで砲撃戦となる。被弾した司令駆逐艦「朝雲」は一時航行不能に陥った。「峯雲」は「朝雲」を掩護しつつ砲戦を続行。「エンカウンター、ジュピター」を撃退し、「」を共同で撃沈した。なお第9駆逐隊(朝雲、峯雲)の戦果報告(速報)は『巡洋艦1隻・駆逐艦2隻撃沈』だった。後日、戦果検討の席上で佐藤司令は「遠くへ逃げてばかりいたヤツになにがわかるか」と怒り、この戦果報告はそのまま計上されたという。本海戦終了後、佐藤大佐は司令駆逐艦を「朝雲」から「夏雲」に変更する。自力航行可能となった「朝雲」は修理のため戦線を離脱し、無傷の第9駆逐隊は2隻(夏雲、峯雲)になった。司令駆逐艦変更直後、四水戦僚艦「村雨」はオランダ病院船「オプテンノール」を臨検、同船を第二水雷戦隊の「天津風」に引き渡している。輸送船団入泊時には軽巡洋艦「鬼怒」や第8駆逐隊(朝潮、荒潮)と共同で哨戒をおこなった。3月下旬、第9駆逐隊(峯雲、夏雲)と四水戦旗艦「那珂」はクリスマス島攻略作戦に従事した。第十六戦隊司令官原顕三郎少将(3月10日まで第五水雷戦隊司令官)を指揮官とするクリスマス島攻略部隊が正式に編制され、3月31日の攻略を目指す。主隊/第十六戦隊(名取、長良)、警戒隊(司令官西村祥治少将:第四水雷戦隊「那珂」、第9駆逐隊第1小隊《峯雲、夏雲》、哨戒艇2隻、球磨川丸、君島丸)、第24特別根拠地隊分遣隊、補給部隊(あけぼの丸)、さらに第16駆逐隊の陽炎型9番艦「天津風」という兵力部署であった。攻略作戦は順調に進み、3月31日朝になるとクリスマス島守備隊は白旗を掲げた。警戒隊・輸送船は入泊して陸戦隊の揚陸を開始する。20時30分、駆逐艦「天津風」が到着して対潜哨戒に加わった。4月1日18時、「那珂」及び第9駆逐隊(峯雲、夏雲)はクリスマス島北方海面を哨戒していた。この時、潜水艦「シーウルフ」 ("USS Seawolf, SS-197") が「那珂」を雷撃、魚雷1本が命中した「那珂」は大破した。「那珂」は「名取」に曳航されてジャワ島へむけ退避(途中から自力航行)、名取他各艦(夏雲、峯雲、天津風《途中まで》、長月、水無月)等に護衛されて航海を続ける。各艦は4月3日昼過ぎに到着した4月6日、四水戦3隻(那珂、夏雲、峯雲)はバンタム湾を出発、シンガポールへ移動する。シンガポールにて西村司令官は「那珂」を工作艦「朝日」に托すと、第四水雷戦隊旗艦を「夏雲」に変更。2隻(夏雲、峯雲)は台湾を経由して北上、ドーリットル空襲の急報に対処しつつ、4月20日夜になり横須賀へ帰投した。この間、艦隊の再編により第24駆逐隊(海風、江風、山風、涼風)は第一水雷戦隊へ転出、第8駆逐隊(朝潮、荒潮、《大潮、満潮》5月15日除籍)が第四水雷戦隊に編入された。また軽巡「由良」の四水戦編入も内示されている。1942年(昭和17年)5月2日、第9駆逐隊(夏雲、峯雲、朝雲)は米潜水艦(ドラム)に撃沈された水上機母艦「瑞穂」の遭難に関連し、現場海域で敵潜掃蕩に従事した。瑞穂生存者は遭難現場に急行した高雄型重巡洋艦2隻(高雄、摩耶)に救助されている。5月9日、長良型軽巡洋艦4番艦「由良」が第四水雷戦隊に編入された。第9駆逐隊(夏雲、峯雲、朝雲)は第四戦隊と第三戦隊を護衛して東京湾から瀬戸内海へ移動。5月20日、四水戦旗艦は「夏雲」から「由良」に変更される。同日附で「由良」・第2駆逐隊・第9駆逐隊はミッドウェー作戦において攻略部隊主隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は攻略部隊支援隊(指揮官栗田健男第七戦隊司令官)という区分を通達される。また第9駆逐隊の1番艦(司令駆逐艦)も「朝雲」となった。ミッドウェー作戦における攻略部隊主隊(旗艦「愛宕」)は、第四戦隊(愛宕、鳥海)、第三戦隊第1小隊(比叡、金剛)、第四水雷戦隊(由良、第2駆逐隊《村雨、五月雨、春雨、夕立》、第9駆逐隊《朝雲、夏雲、峯雲》、空母「瑞鳳」、駆逐艦「三日月」、油槽船3隻(健洋丸、玄洋丸、鶴見)という戦力である。6月5-7日、日本海軍は空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と重巡「三隈」を喪失。攻略部隊主隊は損傷した重巡「最上」と第8駆逐隊(朝潮、荒潮)を収容する。6月9日、第五戦隊(妙高、羽黒)、第9駆逐隊(朝雲、夏雲、峯雲)、給油艦「玄洋丸」という戦力で『牽制部隊』が編成され、ウェーク島近海で行動する。ウェーク島の基地航空隊と連携し、偽電を交信するなど米軍機動部隊の誘引を試みたが、特に成果はなかった。牽制部隊は6月14日より北方部隊に編入される。アリューシャン方面に転じてからは第五戦隊に加えて戦艦「金剛」、第一水雷戦隊(旗艦「阿武隈」、第21駆逐隊)、第二十一戦隊(木曾、多摩)、油槽船「玄洋丸」と行動を共に『第二支援隊』を編成、米軍機動部隊出現に備えて警戒行動をとる。本作戦中の6月15日、「那珂」は第四水雷戦隊から除かれた。6月20日附で西村少将は退任(6月25日附で第七戦隊司令官)、後任の第四水雷戦隊司令官は戦艦「榛名」艦長高間完少将となる。米機動部隊の北方来襲を警戒して、第四航空戦隊(龍驤、隼鷹)の他に、空母「瑞鶴、瑞鳳」まで投入した日本海軍だったが、米軍出現の徴候はなかった。一方で米軍潜水艦の行動は活発化、7月5日には米軍潜水艦により駆逐艦2隻(子日、霰)喪失、2隻大破(不知火、霞)という損害を受けている。これらの情況判断により、日本海軍の支援部隊・機動部隊とも7月7日に配備を撤収、それぞれ内地へ帰投した。艦隊の編制変更により第4駆逐隊(嵐、野分、萩風、舞風)と第8駆逐隊(朝潮、荒潮)が第四水雷戦隊から外れ、かわりに第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)が編入された。8月7日、米軍はガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いが始まる。「峯雲」以下第四水雷戦隊は前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官:旗艦「愛宕」)に所属、日本を出撃してトラック泊地に進出した。8月20日(8月21日とも)、トラックを出港する際に「峯雲」は冬島で座礁。前進部隊に同行できなくなった。応急修理後の「峯雲」は油槽船を護衛して前進部隊をおいかけ、8月24日の第二次ソロモン海戦で中破した水上機母艦「千歳」を護衛してトラック泊地へ戻った。9月中旬、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍総攻撃に呼応して南雲機動部隊・前進部隊ともにトラック泊地を出撃するが、9月14日に「妙高」がB-17重爆の空襲で戦死傷者3名を出したのみで、大規模な戦闘には発展しなかった。9月26日、秋月型駆逐艦1番艦「秋月」と第9駆逐隊(朝雲、夏雲、峯雲)は外南洋部隊(第八艦隊)に編入され、ガダルカナル島への増援輸送作戦(鼠輸送/東京急行)に従事する。10月2日、第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐(司令駆逐艦「朝雲」)指揮下の駆逐艦5隻(朝雲、夏雲、峯雲、村雨、春雨)は零式水上観測機小数機の援護を受け、ガ島輸送に成功した。10月5日、佐藤司令の指揮下駆逐艦6隻(朝雲、夏雲、峯雲、村雨、春雨、夕立)はショートランド泊地を出撃。午後3時過ぎ、急降下爆撃機SBDドーントレス9機の空襲により、まず「峯雲」が至近弾を受け浸水により速力低下。「夏雲」は「峯雲」を護衛して避退。つづいて「村雨」も至近弾による浸水被害を受け、揚陸を断念して避退した。佐藤司令はひきつづき駆逐艦3隻(朝雲、夕立、春雨)を率いてガ島へ突入、揚陸を無事に完了した。なお米軍は駆逐艦1隻撃沈、1隻大破(おそらく沈没)を報告している。10月6日朝、朝潮型2隻(夏雲、峯雲)はショートランドに帰投。増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官(旗艦「川内」)は、損傷した2隻(村雨、峯雲)のラバウル回航を指示する。「村雨」はトラック泊地で応急修理をすませ戦線に復帰したが、「峯雲」は長期修理を余儀なくされ、健在の第9駆逐隊所属艦は2隻(朝雲、夏雲)となった。10月12日、駆逐艦「夏雲、叢雲」はサボ島沖海戦における重巡洋艦「古鷹」救援中に米軍機の空襲により撃沈された。健在の第9駆逐隊は「朝雲」のみとなる。10月20日、宇垣纏連合艦隊参謀長は、10月15日の輸送船団護衛中に損傷した「五月雨」の主砲砲身と、「峯雲」の砲身を交換するよう指示した。10月25日、ガ島陸軍総攻撃に伴うルンガ泊地突入作戦で軽巡「由良」が沈没(南太平洋海戦)。四水戦旗艦は「朝雲」となる。10月30日、「由良」沈没時の戦闘で損傷した「五月雨」がトラック泊地に到着。2隻(峯雲、五月雨)および秋月型2番艦「照月」は工作艦「明石」に横付けし、応急修理を実施する。砲身の換装と並行して、「五月雨」の毘式四十粍機銃を「峯雲」が装備していた九六式二十五粍高角機銃に交換したという。11月15日、「夏雲」は除籍。同日附で第9駆逐隊から除籍され、同駆逐隊は朝潮型2隻(朝雲、峯雲)となる。11月16日、「峯雲」はトラック泊地を出発。11月23日、横須賀到着と共に入渠修理を実施することになった。同時期、長良型軽巡洋艦1番艦「長良」が第四水雷戦隊に編入され、四水戦旗艦となった。12月3日、「峯雲」は横須賀から横浜に回航され、同地で入渠修理をおこなった。1943年(昭和18年)の正月を「峯雲」は横浜で迎えた。1月20日、出渠。1月25日、朝潮型姉妹艦「満潮」駆逐艦長戸村清中佐は、陽炎型駆逐艦14番艦「谷風」駆逐艦長(前任艦長勝見基中佐は1月15日戦死)へ転任。戸村の後任として、鈴木(峯雲駆逐艦長)は満潮駆逐艦長に任命された。2月1日、峯雲駆逐艦長は上杉義男中佐(1月20日まで吹雪型駆逐艦「潮」駆逐艦長)となる。修理完成後の2月12日、本艦は輸送船「武庫丸」を護衛して横須賀を出発。航海中の2月16日、第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐は第8駆逐隊(大潮、朝潮、荒潮、満潮)司令に転任する。後任の第9駆逐隊司令は小西要人大佐(1月12日まで第7駆逐隊《潮、漣、曙》司令。1944年12月、空母「雲龍」艦長として戦死)。2月22日、本艦はトラック泊地に到着。その頃、日本海軍はニュージョージア島を防衛拠点とすべく、海軍第8聯合特別陸戦隊4000名と設営隊3600名、陸軍の南東支隊(佐々木登少将。第38師団の歩兵第229聯隊など6000名)をニュージョージア島に派遣し、同島南西部のムンダに飛行場を築いた。だが米軍の空襲で輸送船3隻のうち1隻が沈没、1隻が炎上し、すぐに弾薬と糧食の不足という事態に陥ってしまう。そこでトラック泊地にいた第四水雷戦隊の駆逐艦2隻(第2駆逐隊司令橘正雄大佐座乗の白露型駆逐艦《村雨》と、第9駆逐隊の朝潮型《峯雲》)に緊急輸送命令が出される。2月27日附で2隻(峯雲、村雨)は南東方面部隊に編入され、28日トラックを出撃してラバウルに向かった。3月1日時点の外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)は重巡洋艦「青葉」を主隊とし、同隊増援部隊(指揮官木村昌福第三水雷戦隊司令官)は軽巡「川内」、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)、第11駆逐隊(白雪、初雪)、第22駆逐隊、第10駆逐隊、第16駆逐隊(雪風、時津風)、第9駆逐隊(朝雲、峯雲)、第19駆逐隊(浦波、敷波)、第2駆逐隊(村雨、五月雨)という戦力で編制されていた。3月2日朝、駆逐艦2隻(村雨、峯雲)はラバウルへ到着。各艦ドラム缶200本、弾薬糧食を上甲板に満載すると、3月4日夕刻ラバウルを出撃した。入れ違いでビスマルク海海戦(ダンピール海峡の悲劇)の生還者を収容した駆逐艦各艦(初雪、雪風、敷波、浦波、朝雲)等がラバウルに帰着している。輸送隊(村雨、峯雲)は3月5日ブーゲンビル島ショートランド泊地に立ち寄ったのち、午後9時30分から10時30分までコロンバンガラ島クラ湾での補給を実施。帰途は西側の水道をつかわず北上してショートランド泊地へむかう航路をとる。だが2隻の行動は米軍に通報されており、PBYカタリナ飛行艇"ブラックキャット"が偵察と哨戒を実施、潜水艦「グレイバック」と「グランパス」がクラ湾出口に配備された。当時の天候は薄曇り、月齢28、視界15km程、風もない静かな夜であったという。同時刻、アーロン・S・メリル少将指揮する第68任務部隊のクリーブランド級軽巡洋艦3隻(モントピリア、クリーブランド、デンバー)、駆逐艦3隻(、、)がクラ湾に進入していた。第68任務部隊はニュージョージア島ムンダ飛行場に対する艦砲射撃を実施すべく出撃したのだが、日本軍巡洋艦もしくは駆逐艦2隻がショートランドを出撃したとの報告を情報部から受け、さらに夜間哨戒機の偵察報告も受信し、日本艦隊を迎撃すべく準備を整えていたのである。速力20ノットで航行する米艦隊は22時57分(日本時間と約1時間ずれている)にレーダーで目標を探知、23時01分に射撃を開始した(ビラ・スタンモーア夜戦)。レーダーのない日本側(村雨、峯雲)は米艦隊の存在に全く気付いておらず、砲撃を受けた当初は夜間空襲と判断していた。まず「峯雲」が被弾炎上し、続いて「村雨」も主砲や機関部を破壊され航行不能に陥った。コロンバンガラ島の日本軍守備隊は、北東方面での海戦で1隻が大爆発を起こすのを目撃している。米軍によれば、「峯雲」を爆沈させたのは駆逐艦「ウォーラー」の魚雷、「村雨」を沈めたのは巡洋艦3隻の砲撃である。「村雨」乗員245名中、村雨艦長種子島洋二少佐以下生存者129名、戦死者116名。「峯雲」乗員255名中、生存者45名、戦死者110名(上杉峯雲艦長含む)。沈没時多数の乗組員が生存していたのだが、大発動艇による救助が遅れたことで溺死者が増えてしまったという。同日のコロンバンガラ島守備隊はメリル隊の艦砲射撃を受けて甚大な被害を出しており、救助に向かうまでに時間を要したのが一因であった。3月7-8日、駆逐艦部隊(朝雲〔第9駆逐隊司令〕、雪風、長月)が鼠輸送のためコロンバンガラ島に到着、13日にも輸送部隊(朝雲、雪風、長月)が同島に到着する。第2駆逐隊司令橘大佐や種子島洋二村雨艦長以下の村雨・峯雲生存者はこれらの駆逐艦に分乗しラバウルへ向かった。橘司令は駆逐艦「五月雨」に移乗し、村雨・峯雲生存者は横須賀へ送還される。この時、第2駆逐隊司令は輸送隊(村雨、峯雲)の沈没原因について『敵巡洋艦3隻の砲撃と、B-17十数機(触接していたのはカタリナ飛行艇夜間哨戒仕様)の空襲』と報告し、レーダーに厳重警戒を行うように警告した。峯雲・村雨の沈没、白露・春雨の大破長期修理により、健在の第四水雷戦隊は6隻(長良、朝雲、五月雨、時雨、有明、夕暮)まで消耗した。4月1日、ビスマルク海海戦で沈没した駆逐艦4隻(時津風、白雪、朝潮、荒潮)等と共に「峯雲」の除籍が決定。第9駆逐隊、帝国駆逐艦籍のそれぞれから削除された。またネームシップの「朝潮」沈没にともなって朝潮型駆逐艦は『満潮型駆逐艦』に改定され、3隻(朝潮、大潮、荒潮、峯雲)は満潮型より削除された。「峯雲」の喪失により第9駆逐隊の残存艦は満潮型「朝雲」のみとなり、「峯雲」除籍と同日附で初雪型駆逐艦2隻(薄雲、白雲)を編入。9月1日には満潮型9番艦「霞」を編入し、定数4隻(朝雲、薄雲、白雲、霞)を回復した。
出典:wikipedia
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