霞(かすみ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。一等駆逐艦朝潮型の9番艦である。この名を持つ帝国海軍の艦船としては暁型駆逐艦「霞」に続いて2隻目。1935年(昭和10年)2月に軍令部が制作した昭和16年度戦時編制案に、朝潮型駆逐艦、朝雲型駆逐艦、霞型駆逐艦が表記される。1936年(昭和11年)1月20日、日本海軍(海軍大臣大角岑生大将)は、浦賀船渠で建造予定の駆逐艦1隻を「朝雲(アサグモ)」と命名した。6月19日、日本海軍(海軍大臣永野修身大将)は「朝雲」を「霞」と改名した。10月22日、日本海軍は改めて神戸川崎造船所で建造する朝潮型5番艦を「朝雲」、藤永田造船所で建造予定の6番艦を「山雲」と命名している。「霞」は浦賀船渠で1936年(昭和11年)12月1日に起工。1937年(昭和12年)11月18日に進水。1938年(昭和13年)6月28日、浦賀船渠で陽炎型駆逐艦2番艦「不知火」が進水。浦賀船渠は「霞」と「不知火」の建造を並行して進めることになった。12月15日、日本海軍は神風型駆逐艦「松風」や吹雪型駆逐艦「朧」艦長等を歴任した白浜政七中佐を霞艤装員長に任命。浦賀船渠工場内に霞艤装員事務所を設置する。1939年(昭和14年)4月15日、「霞」より遅れて建造が始まった同型艦「霰(アラレ)」が舞鶴海軍工廠で竣工(進水も霞より2日早い)。6月下旬、霞艤装員事務所を撤去。「霞」は6月28日に竣工した。白浜艤装員長も制式に霞初代駆逐艦長となる。水雷長は平山敏夫大尉(後日、平山は駆逐艦「波風」艦長、睦月型駆逐艦6番艦「水無月」艦長、夕雲型駆逐艦17番艦「早霜」艦長、秋月型駆逐艦3番艦「涼月」艦長等を歴任)。「霞」の竣工と共に、日本海軍は第18駆逐隊を編制した。当事の日本海軍は旧式化した川内型軽巡洋艦(神通、那珂)を睦月型駆逐艦や吹雪型駆逐艦の水雷戦隊旗艦に転用し、第一水雷戦隊・第二水雷戦隊・第三水雷戦隊・第四水雷戦隊を阿賀野型軽巡洋艦・陽炎型駆逐艦・夕雲型駆逐艦を主力として再編する計画を立てている。第18駆逐隊(霞、霰)は第三水雷戦隊配備予定、陽炎型3隻(陽炎、不知火、野分)は第二水雷戦隊配備予定である。7月10日、第18駆逐隊司令として久宗米次郎大佐が着任。本艦は一時18駆司令駆逐艦となるも、9月2日より「霰」に変更された。同年11月6日、陽炎型1番艦「陽炎」が竣工し、第18駆逐隊(霞、霰)に編入される。11月1日、平山(霞水雷長)は第四防備隊附となり、後任の霞水雷長は吹雪型駆逐艦「朝霧」水雷長橋口百治中尉に決まる。(平山は少佐進級後、翌年1月15日附で上海港湾部部員、10月より「波風」駆逐艦長)。11月15日、白浜(霞艦長)は吹雪型「狭霧」駆逐艦長への転任を命じられる(後日、白浜は陽炎型12番艦「磯風」駆逐艦長、第27駆逐隊司令等を歴任。白露型駆逐艦5番艦「春雨」沈没時に戦死)。それまで狭霧艦長だった磯久研磨中佐が、後任の霞駆逐艦長となる。同日附で、第18駆逐隊は第二艦隊・第二水雷戦隊に編入された。同時に第二水雷戦隊司令官は後藤英次少将から五藤存知少将に交代。第二水雷戦隊旗艦も川内型軽巡洋艦3番艦「那珂」から川内型軽巡2番艦「神通」に変更される。また久宗大佐(18駆司令)も川内型軽巡1番艦「川内」艦長へ転任。新司令として佐藤寅治郎大佐が着任した。12月5日、伊崎俊二大佐(重巡洋艦「最上」艦長、軽巡「神通」艦長)は両艦艦長兼務を解かれ、特務艦「知床」特務艦長木村昌福大佐が神通艦長に任命される(後日、伊崎は第二水雷戦隊司令官としてコロンバンガラ島沖海戦における「神通」沈没時に戦死)。12月20日、陽炎型2番艦「不知火」が竣工して第18駆逐隊に編入され、同隊は定数4隻(霞、霰、陽炎、不知火)を揃えた。1940年(昭和15年)10月15日、木村昌福(神通艦長)は重巡洋艦「鈴谷」艦長へ転任(後任の神通艦長は河西虎三大佐)。11月15日、霞駆逐艦長は、磯久中佐から吹雪型駆逐艦「雷」や「白雪」艦長等を歴任した戸村清中佐に交代する(磯久は翌年2月25日より陽炎型12番艦「磯風」艦長。第4駆逐隊司令として陽炎型18番艦「舞風」沈没時に戦死)。12月7日、第18駆逐隊司令は佐藤大佐から荒木傳大佐に交代、佐藤大佐は翌年3月31日より第4駆逐隊初代司令となる(後日、佐藤は軽巡「神通」艦長。同艦沈没時に伊崎俊二少将と共に戦死)。1941年(昭和16年)9月1日、荒木(18駆司令)は軽巡洋艦「北上」艦長へ転任。新司令として、駆逐艦「初霜、漣、電」艦長等を歴任した宮坂義登大佐(前職、第30駆逐隊司令)が着任した。9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)司令官へ転出(サボ島沖海戦で「青葉」大破時に戦死)、後任の二水戦司令官は田中頼三少将となった。第18駆逐隊司令駆逐艦は臨時移動以外「霰」に指定されていたが、9月29日より「不知火」に変更される。太平洋戦争開戦時の第18駆逐隊(駆逐隊司令 宮坂大佐)は朝潮型2隻(霰、霞)、陽炎型駆逐艦2隻(陽炎、不知火)で編制されていた。18駆が所属する第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)は軽巡洋艦「神通」を旗艦とし、第8駆逐隊(朝潮、大潮、満潮、荒潮)、第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮、夏潮)、第16駆逐隊(雪風、時津風、初風、天津風)、第18駆逐隊という戦力である。だが第8駆逐隊は第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦:重巡洋艦「愛宕」)直率の南方部隊本隊に編入されている。第18駆逐隊も第二水雷戦隊の指揮下を離れ、南雲機動部隊(司令長官南雲忠一中将)警戒隊(指揮官大森仙太郎第一水雷戦隊司令官:旗艦「阿武隈」)に編入。第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)および陽炎型19番艦「秋雲」と行動を共にする。1941年(昭和16年)11月26日、南雲機動部隊警戒隊は空母6隻(第一航空戦隊《赤城、加賀》、第二航空戦隊《蒼龍、飛龍》、第五航空戦隊《翔鶴、瑞鶴》)の護衛として単冠湾を出港、ハワイ作戦(真珠湾攻撃)に参加した。1942年(昭和17年)1月8日、呉を出港してトラック泊地へ進出。機動部隊とラバウル攻撃に従事、以後、2月には第二航空戦隊のポートダウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦に参加。4月23日、呉に入港し入渠整備を行った。同時期、空母直衛を担う第十戦隊(旗艦「長良」、第7駆逐隊《潮、曙、漣》、第16駆逐隊《雪風、時津風、初風、天津風》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》)の新編により、第18駆逐隊は本来の所属である第二水雷戦隊指揮下に戻った。5月下旬にサイパンに進出。6月のミッドウェー海戦に攻略隊の護衛として参加した。6月8日、18駆は第七戦隊(司令官栗田健男少将)の指揮下に入る。6月14日に第七戦隊を護衛してトラックに帰投。大破した重巡「最上」を同地に残し、6月23日、第18駆逐隊は第七戦隊の重巡2隻(熊野、鈴谷)を護衛して呉に帰投した。この後、第18駆逐隊は第五艦隊(司令長官細萱戊子郎中将:旗艦「那智」)の指揮下に入った。6月23日、大本営はアッツ島およびキスカ島の長期確保を指示し、連合艦隊および北方部隊は兵力増強のため輸送部隊(千代田、あるぜんちな丸、鹿野丸、菊川丸、第18駆逐隊)を編制。6月28日、第18駆逐隊(不知火、霞、霰)は横須賀から水上機母艦「千代田」と輸送船「あるぜんちな丸」(後日、空母「海鷹」となる)の護衛としてキスカ島(鳴神島)に向かった。「陽炎」は、6月23日に東京湾沖合で駆逐艦「山風」を撃沈した米潜水艦(ノーチラス)掃討のため、しばらく分離行動をとる。7月5日未明、「千代田」と「あるぜんちな丸」はキスカ島キスカ湾に入港した。第18駆逐隊3隻(不知火〔司令駆逐艦〕、霞、霰)はキスカ島沖で濃霧のため仮泊中、ハワード・W・ギルモア艦長が指揮する米潜水艦「グロウラー」("USS Growler, SS-215")に襲撃された。「霰」は轟沈、「不知火」と「霞」も大破した。「霞」への命中位置は、一番砲塔前下部。また同日には第21駆逐隊の初春型駆逐艦「子日」も米潜水艦「トライトン」 ("USS Triton, SS-201")に撃沈されている。わずか1日で駆逐艦2隻(霰、子日)喪失、2隻(霞、不知火)大破という事態に、宇垣纏連合艦隊参謀長(戦艦「大和」座乗)は各方面に苦言を呈することになった。18駆司令宮坂義登大佐(兵47期)は、乗員の疲労を考えて転錨を遅らせたこと、霧のため予想より沖合に停泊してしまったこと、米潜水艦の活動は仮泊地には及ばないと考えていたこと、などが大被害の要因になったと回想している。また第五艦隊参謀長中澤佑大佐は、南方からきて疲労していた第18駆逐隊が北方地域の日の出の時刻を勘違いしていたのでは…と推測している。米潜水艦の活発な行動に危機感を覚えた北方部隊(第五艦隊)は、米軍機動部隊が出現しないこともあり、空母機動部隊以下増援部隊各艦を内地に帰投させた。7月14日附で宮坂大佐は第18駆逐隊司令職を解かれた(7月28日附で呉鎮守府附)。翌1943年(昭和18年)3月20日、宮坂は阿部弘毅少将(第三次ソロモン海戦時、第十一戦隊司令官)、西田正雄大佐(戦艦「比叡」沈没時艦長)達と共に予備役へ編入、即日召集された。駆逐隊司令不在となった第18駆逐隊(不知火、霞)は、「日産丸」の残骸を楯として応急修理を続ける。7月19日、「陽炎」は「菊川丸」を護衛してキスカへ進出。大破した「霞」と「不知火」に遭遇した。7月20日、18駆唯一の健在艦となった「陽炎」は、南方作戦で姉妹艦「夏潮」を喪失し3隻編制(黒潮、親潮、早潮)になっていた第15駆逐隊に編入される。残存した2隻(霞、不知火)は同日附で第五艦隊附属となる。現地では「霞」と「不知火」の応急修理を行うが対処しきれず、就役したばかりの夕雲型駆逐艦4番艦「長波」が救難資材と工員を乗せて横須賀を出発、7月27日にキスカ島へ進出した。前日に引き続き、曳航可能な状態までに応急修理をおこなった「霞」は、駆逐艦「雷」に曳航され、「陽炎」護衛の元で27日午後にキスカ島を出発した。だが悪天候のため「霞」の曳航は難航する。さらに「雷」の燃料消費量は予想外に多く、燃料切れの懸念が高くなる。8月3日、3隻(霞、雷、陽炎)は幌筵島片岡湾に到着する。同地で「霞」曳航任務は駆逐艦「電」に変更され、「雷」は横須賀へ帰投。また「陽炎」も横須賀に向かった。8月5日、「霞」は「電」に曳航されて幌筵を出発、9日に北海道中西部石狩湾に入港した。「電」は北方戦線に戻るよう命令されていたため、石狩湾で「霞」曳航任務をタンカー「富士山丸」に引き継いだ。10日、「富士山丸」は「霞」を曳航して石狩湾を出発する。一方の「電」は「不知火」曳航のためキスカ島へ向かった。8月13日、「霞」は舞鶴港に到着。バリ島沖海戦で損傷した朝潮型2番艦「大潮」やクリスマス島攻略作戦で大破した川内型軽巡洋艦3番艦「那珂」等と共に、舞鶴海軍工廠で修理に着手する。舞鶴工廠では、秋月型駆逐艦4番艦「初月」、島風型駆逐艦「島風」、夕雲型駆逐艦5番艦「巻波」(8月18日完成)等の建造も並行して行われていた。8月15日、第18駆逐隊は解隊。2隻は呉鎮守府予備艦となる。第18駆逐隊の残務整理は呉海兵団で行われた。8月20日、朝潮型3番艦「満潮」艦長小倉正味中佐が夕雲型駆逐艦6番艦「高波」艤装員長(のち、高波初代駆逐艦長。ルンガ沖夜戦で高波沈没時に戦死)に任命された事にともない、戸村(霞艦長)は満潮駆逐艦長を命じられる。舞鶴防備隊司令・駆逐艦「大潮」艦長・軽巡「那珂」副長を兼務していた友重丙中佐が霞駆逐艦長を兼務することになった。8月31日、2隻(霞、不知火)は特別役務駆逐艦に指定された。9月3日、グロウラーの雷撃で「霞」と共に大破した陽炎型2番艦「不知火」が、「神津丸」に曳航されて舞鶴に到着。9月10日附で、大潮駆逐艦長および霞駆逐艦長職務は友重中佐から杉岡幸七中佐(陽炎型12番艦「磯風」初代駆逐艦長。吹雪型駆逐艦「狭霧」沈没時艦長)に交代。また同日附で不知火駆逐艦長赤澤次壽雄中佐は秋月型3番艦「涼月」艤装員長へ転出したため、杉岡中佐は不知火駆逐艦長も兼務、大潮・霞・不知火駆逐艦長となった。10月15日、2隻(霞、不知火)は第四予備艦に指定され、修理に従事する。この際、燃料加熱装置の試験艦として同装置を搭載している。11月6日、北方戦線で空襲を受け大破した初春型駆逐艦1番艦「初春」が到着。同時期の舞鶴海軍工廠は、「霞」以下損傷艦艇の修理と、「島風」、「初月」、夕雲型駆逐艦複数隻(早波《7月31日竣工》、浜波《10月15日竣工》、沖波《12月10日竣工》)の建造に追われていた。11月15日附で杉岡中佐は陽炎型16番艦「嵐」駆逐艦長を命じられる(杉岡はベラ湾夜戦で「嵐」沈没時に戦死)。10月17日に沈没した吹雪型駆逐艦「朧」の駆逐艦長山名寛雄少佐が、駆逐艦4隻(大潮・霞・不知火・初春)の艦長を兼務することになった。12月20日、睦月型2番艦「弥生」や白露型5番艦「春雨」艦長を歴任した廣瀬弘中佐が大潮駆逐艦長に任命され、山名少佐の艦長兼務は駆逐艦3隻(霞、不知火、初春)となった。また同日附で平山敏夫少佐(霞初代水雷長)は吹雪型駆逐艦「白雲」艦長と夕雲型駆逐艦7番艦「大波」艤装員長の兼務をとかれ、白露型4番艦「夕立」沈没時艦長吉川潔中佐が大波艤装員長を命じられた。12月27日、「那珂」や「霞、不知火、初春」に先駆けて「大潮」の修理が終わる。12月29日、「大潮」は舞鶴を離れた。1943年(昭和18年)1月7日、舞鶴工廠で建造中だった秋月型駆逐艦4番艦「初月」が竣工し、舞鶴を離れる。1月19日、軽巡「龍田」が舞鶴工廠に到着、修理に入る。1月20日には夕雲型17番艦「早霜」が舞鶴海軍工廠で起工。2月21日、ソロモン諸島で行動中の朝潮型姉妹艦「大潮」が米潜水艦アルバコアの雷撃で沈没。廣瀬(大潮艦長)は舞鶴に戻ると、島風型駆逐艦「島風」初代艦長(3月20日附で艤装員長、5月10日附で駆逐艦長)となった。「霞」の修理は続いた。3月31日、「霞」に先駆けて「那珂」の修理が終わる(4月5日、舞鶴を出発)。4月1日、前月のビスマルク海海戦で朝潮型1番艦「朝潮」と4番艦「荒潮」が沈没したことに伴い、朝潮型駆逐艦は『満潮型駆逐艦』と改訂される。同時期、北方戦線に従事する軽巡「阿武隈」と「多摩」がそれぞれ舞鶴に到着(阿武隈4月17日着、多摩5月4日着)、修理に入る。4月24日、ガダルカナル島撤退作戦で損傷した「巻波」が舞鶴に到着、「霞」と共に修理に従事する。5月8日、舞鶴工廠では「霞」の修理と並行して、秋月型8番艦「冬月(第361号艦)」の建造が始まる。5月10日、新鋭駆逐艦「島風」が竣工。5月15日、駆逐艦「芙蓉」乗組の森田友幸中尉は霞水雷長を命じられる。同時期、米軍はアッツ島に上陸。アッツ島の戦いが勃発したため、舞鶴で整備中の第一水雷戦隊旗艦「阿武隈」と「多摩」は急遽修理を終わらせて出撃した。5月20日、「霞」(第四予備駆逐艦)は第一予備駆逐艦となる。同日附で夕雲型5番艦「巻波」駆逐艦長人見豊治中佐は、巻波艦長に加えて不知火・初春艦長の兼務を命じられ、山名(霞艦長)は兼務職を解かれた。6月1日、米潜水艦トートグの雷撃で大破した軽巡「名取」が舞鶴に到着、修理に入る。夕雲型4番艦「長波」は6月5日舞鶴に到着、23日に修理を終えて出撃した。6月30日、「霞」の修理完了。1943年(昭和18年)6月30日、「霞」は新造艦の訓練・練成を主任務とする第十一水雷戦隊(司令官木村進少将)に編入される。当事の第十一水雷戦隊は、軽巡「龍田」以下第6駆逐隊(響、電、雷)、夕雲型9番艦「玉波」と秋月型6番艦「若月」、「島風」および「霞」で編成されていた。7月4日、修理中に搭載した重油加熱装置の実験を実施するため、舞鶴工廠関係者を乗せて「霞」は舞鶴を出発。樺太(敷香)に向かう。12日に舞鶴帰着。加熱装置の実験は成功した。7月18日、舞鶴を出発。内海西部回航後、旗艦「龍田」と僚艦「若月」に合流して訓練を行う。だが「長波」や「島風」が参加したキスカ島撤退作戦には間に合わなかった。7月下旬、大和型戦艦1番艦「大和」が電探(レーダー)射撃訓練を実施することになる。第十一水雷戦隊(龍田、若月、霞)も「大和」の電探公試に協力した。7月29日、「霞」は「大和」の曳的艦となるが、途中で曳索が切れる事態となった。同日、第十一水雷戦隊旗艦は「龍田」から新造艦の阿賀野型軽巡洋艦2番艦「能代」に変更される(31日まで)。十一水戦(能代、龍田、若月、霞)は共同で訓練を行った。また31日には夕雲型駆逐艦新造艦2隻(藤波、早波)が第十一水雷戦隊に加わった。8月に入ると、第十一水雷戦隊の所属艦や旗艦が度々かわる。「霞」は引き続き瀬戸内海にあって訓練に従事。キスカ島撤退作戦を終えた「島風」も呉に帰投している。8月15日、「若月」は第61駆逐隊に編入。8月17日、主力部隊(戦艦3隻《大和、長門、扶桑》、空母《大鷹》 、巡洋艦3隻《愛宕、高雄、能代》、駆逐艦部隊《涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風》)は呉を出撃し、トラックへ向かう。十一水戦の駆逐艦4隻(早波、凉波、藤波、霞)は、主力艦部隊の内地出撃を途中まで護衛した。翌日、十一水戦旗艦は「響」に変更。8月20日附で、日本海軍は中原義一郎大佐を駆逐隊司令とする第32駆逐隊(早波、涼波、藤波)を編制した。また満潮型姉妹艦「山雲」が十一水戦に編入される。同日、「霞」は「響」等と対空訓練を実施したのち、呉に回航された。呉で出撃準備中の8月26日、第十一水雷戦隊旗艦は扶桑型戦艦2番艦「山城」に一時変更(9月1日より響)。27日、5隻(山城、響、早波、凉波、藤波)に内海西部へ到着した。第十一水雷戦隊で訓練中の8月16日、「霞」の第9駆逐隊編入と北方戦線投入が内示され、準備に入る。8月18日、第9駆逐隊司令は小西要人大佐(小西は8月28日より軽巡「阿武隈」艦長)から空母「雲鷹」副長井上良雄大佐に交代する。井上大佐は白露型10番艦「涼風」初代艦長、陽炎型17番艦「萩風」初代艦長等を歴任していた。9月1日、「霞」は第9駆逐隊に編入され、同隊は定数4隻(朝雲、薄雲、白雲、霞)を揃える。「朝雲」は満潮型駆逐艦だが、「薄雲、白雲」は初雪型駆逐艦である。9月2日、「霞」は呉を出発。重巡「那智」(第五艦隊旗艦)を護衛して幌筵島に進出。第五艦隊・第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将、旗艦「阿武隈」)に所属して、北千島方面で船団護衛に従事した。10月29日、第9駆逐隊司令駆逐艦は「朝雲」から「霞」に変更される。10月31日、「朝雲」は夕雲型駆逐艦1番艦「夕雲」(第二次ベララベラ海戦で沈没)、同型2番艦「巻雲」(ケ号作戦で沈没)を喪失して駆逐艦2隻(秋雲、風雲)になっていた第10駆逐隊に編入され、第9駆逐隊は3隻編制(薄雲、白雲、霞)となった。11月下旬から内南洋部隊の指揮下に入り、12月3日横須賀を出発。マーシャル諸島ルオット島へ物資輸送を行った。12月15日トラック泊地着。本艦はラバウル空襲で損傷した重巡洋艦「最上」を護衛して内地に帰投。同任務終了後の12月22日、「霞」は舞鶴に到着する。レーダーの装備や対空機銃の増備を実施した。1944年(昭和19年)1月18日、「霞」は整備・修理を終えて舞鶴を出撃する。3月1日、第九艦隊より不知火型(陽炎型)駆逐艦「不知火」を第9駆逐隊に編入。定数4隻(霞、不知火、薄雲、白雲)となる。だが3月16日、釧路から千島へ向かう船団を護衛中に米潜水艦トートグ ("USS Tautog, SS-199")に 襲撃され、「白雲」は「霞」の目前で轟沈した。3月31日、第9駆逐隊は解隊。3隻(薄雲、霞、不知火)は再編成された第18駆逐隊に所属する。第9駆逐隊司令井上良雄大佐はそのまま第18駆逐隊司令となり、井上は「不知火」を司令駆逐艦に指定した。同隊は引続き第一水雷戦隊として行動する。その後さらに硫黄島、父島への輸送に当たった。6月中旬、マリアナ方面の戦いがはじまったことに伴い、第五艦隊各艦は横須賀に帰投。扶桑型戦艦「山城」と共にサイパン島へ突入する準備を行うが、マリアナ沖海戦の惨敗や、サイパン地上戦の情勢に鑑み、作戦は中止された。第一水雷戦隊各艦は北方へ戻る。7月7日、小樽から北千島へ向かう船団を護衛中していた駆逐艦3隻(潮、曙、薄雲)は米潜水艦スケート ("USS Skate, SS-305")に襲撃され、被雷した「薄雲」は轟沈した。「薄雲」は9月10日附で第18駆逐隊より除籍され、18駆は2隻(不知火、霞)となった。10月15日、第18駆逐隊は呉を出撃。10月下旬のレイテ沖海戦では、第五艦隊司令長官志摩清英中将が指揮する第二遊撃部隊(重巡2隻《那智、足柄》、軽巡《阿武隈》、第18駆逐隊《不知火、霞》、第7駆逐隊《潮、曙》、第21駆逐隊《若葉、初春、初霜》)としてレイテ湾に突入する計画であった。だが志摩艦隊(第二遊撃部隊)の行動について、連合艦隊や第二艦隊(司令長官栗田健男中将)の意志は統一されなかった。さらに輸送任務のため、第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)は志摩艦隊本隊とは別行動をとる。10月25日、志摩艦隊(第二遊撃部隊)はスリガオ海峡に突入したが、先行した西村艦隊(山城、扶桑、最上、時雨、満潮、朝雲、山雲)は米艦隊の迎撃により壊滅、「最上、時雨」のみ退避した。後続していた志摩艦隊は、まず「阿武隈」が「潮」を誤射、つづいて「阿武隈」が被雷して落伍、「那智」と「最上」が衝突。志摩長官は反転を決断し、志摩艦隊は退避行動にうつる。「最上」は「曙」に雷撃処分。木村(第一水雷戦隊司令官)は旗艦を「阿武隈」から「霞」に変更。なお山名(霞艦長)は阿武隈水雷長や足柄水雷長を務めたことがある。健在の志摩艦隊から分離した「阿武隈」と護衛の「潮」は応急修理を実施しつつ退避したが、27日の空襲で沈没した(阿武隈乗組員は潮に救助)。志摩艦隊各艦はマニラに帰投。別行動を取っていた第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)も空襲により「若葉」を喪失、「初霜」損傷という被害を受けた。10月27日、空襲を受けた第十六戦隊(鬼怒、浦波)を救援するため「不知火」は単艦で出撃。「鬼怒」沈没を受けて引き返すも、セミララ島で座礁した夕雲型駆逐艦「早霜」(艦長平山敏夫中佐)救援中に空襲を受け撃沈された。第18駆逐隊司令井上良雄大佐および不知火乗組員は総員戦死した。日本海軍はレイテ湾海戦で大損害を受けたが、日本軍は戦局有利とみて陸軍兵力をルソン島からレイテ島へ移動することにした(多号作戦)。第五艦隊(志摩艦隊)や第二艦隊(栗田艦隊)の残存駆逐艦もこの任務に投入される。10月31日から11月1日にかけての第二次作戦(第二次輸送部隊 指揮官木村一水戦司令官:警戒隊《霞、沖波、曙、潮、初春、初霜》、海防艦4隻、輸送船4隻)に参加、輸送船「能登丸」が沈没したが、輸送作戦は成功した。本作戦中の11月5日、マニラ湾大空襲により第五艦隊旗艦の重巡「那智」が沈没。「霞」以下第一水雷戦隊各艦は那智乗組員救助に従事した。「那智」を掩護していた「曙」も大破炎上。「霞、初春、初霜、潮」は救援活動に従事する。11月8日から9日にかけて、第四次作戦(指揮官木村一水戦司令官:警戒隊《霞、秋霜、潮、朝霜、長波、若月》、海防艦4隻、輸送船3隻)に参加。空襲で輸送船2隻(高津丸、香椎丸)・海防艦1隻を撃沈され、また揚陸地点での混乱により重火器や弾薬を一部揚陸したにとどまった。帰路についた第四次輸送部隊は、オルモック湾へむかう第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官:旗艦「島風」)と合同。第四次輸送隊の駆逐艦3隻(若月、長波、朝霜)と、第三次輸送隊の2隻(初春、竹)を入れ替えた。「霞、秋霜、潮、初春、竹」は無事にマニラ湾へ帰投。11月11日、第三次輸送部隊は米軍機のべ347機に襲撃され、早川司令官は戦死、駆逐艦4隻(島風、長波、若月、浜波)・掃海艇1隻・輸送船4隻も全滅。生還したのは「朝霜」だけだった。11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊(空母《隼鷹》、重巡《利根》、第30駆逐隊《卯月、夕月》)は同行していた軽巡洋艦「木曾」を分離、代艦としてスリガオ海峡夜戦から生還した駆逐艦「時雨」を編入し、内地へ帰投する。「木曾」と秋月型駆逐艦「霜月」は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された。11月13日、マニラ湾は再び空襲をうけ「潮」は至近弾により浸水、ほかに軽巡「木曾」、駆逐艦4隻(曙、沖波、秋霜、初春)は沈没もしくは大破着底状態となる。志摩司令長官は残存艦艇の退避を南西方面艦隊(司令長官大川内伝七中将)に強く進言。同日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮《左舷一軸運転》、竹)は第五艦隊司令部を便乗させ、マニラを脱出した。11月15日附で第18駆逐隊は解隊され、「霞」は第7駆逐隊(司令岩上次一大佐。岩上は陽炎型2隻《萩風、浦風》艦長等を歴任)に編入、同隊は3隻編制(霞、潮《損傷》、曙《沈没》)となる。島風沈没と早川幹夫第二水雷戦隊司令官戦死により11月20日附で第一水雷戦隊は解隊され、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将は第二水雷戦隊司令官に任命された。また第一水雷戦隊参謀達も、それぞれ二水戦参謀に任命される。水雷対潜運用担当の廣瀬弘大佐は、島風初代艦長である。書類上の二水戦旗艦は阿賀野型軽巡洋艦3番艦「矢矧」だったが、同艦および第17駆逐隊は第一遊撃部隊(大和、長門、金剛)を護衛して11月16日にブルネーを出発。途中、2隻(金剛、浦風)が米潜水艦シーライオンⅡに撃沈される。その後は内地にあって別行動であり、木村司令官が「矢矧」に座乗することはなかった。11月22日時点の第二遊撃部隊戦力は、「足柄」(第五艦隊旗艦)、第四航空戦隊(日向、伊勢)、第五戦隊(羽黒 )、軽巡「大淀」、第二水雷戦隊(霞/旗艦、潮、朝霜、初霜、霜月《11月25日沈没》、岸波《12月4日沈没》、清霜/昭南にて修理中)であった。11月28日、シンガポールで第二水雷戦隊旗艦は「霞」から「潮」に変更。また第7駆逐隊司令駆逐艦を「潮」から「霞」に変更。駆逐艦2隻(霞、初霜)は座礁により大破していた金剛型戦艦3番艦「榛名」を護衛してリンガ泊地を出発、台湾馬公市まで護衛した。12月5日、3隻(榛名、霞、初霜)は馬公到着。前月29日附で第7駆逐隊司令職をとかれ第52駆逐隊司令への転任を命じられていた岩上次一大佐は馬公で「霞」を降り、後任者着任まで山名(霞艦長)が第7駆逐隊司令を兼務する。「榛名」護衛任務終了後の2隻(霞、初霜)は船団護衛命令を受けて台湾高雄市へ向かったが、戦局逼迫により護衛任務は中止。10日ベトナムカムラン湾着。13日に「朝霜」等と合流、翌日ベトナムカムラン湾に到着し、木村司令官は第二水雷戦隊旗艦を「朝霜」から「大淀」に変更した。12月12日、応急修理を終えた「潮」は重巡「妙高」(レイテ沖海戦で被雷、大破)を護衛し、シンガポールから内地に向け出発する。12月13日夜、2隻はマレー半島北東タイランド湾にて米潜水艦バーゴール ("USS Bergall, SS-320") と遭遇する。魚雷1本が命中した「妙高」は大破。「潮」では妙高曳航は不可能であり、命令により単艦で先行したのちヒ82船団を護衛して内地に帰投した。12月17日朝、二水戦2隻(初霜、霞)は油槽船「日栄丸」を護衛してカムラン湾を出発、同船分離後は「妙高」に合流。「霞」は曳航を試みるが、曳索切断により失敗した。20日、礼号作戦の発動により「霞」は第二遊撃部隊本隊への復帰を命じられ、22日カムラン湾着。「妙高」は第五戦隊(羽黒)に曳航され、「初霜」と海防艦「千振」護衛下でシンガポールにむかった(12月25日昭南着)。「妙高」被雷と護衛のため、「羽黒」と「初霜」は礼号作戦に参加できなかった。木村少将は二水戦旗艦を「霞」・「大淀」・「潮」・「清霜」・「朝霜」、12月16日からは「大淀」に置いていたが(前述)、ミンドロ島攻撃(礼号作戦)においては「霞」を旗艦とした。また第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)は重巡洋艦「足柄」を挺身部隊(指揮官木村昌福第二水雷戦隊司令官)に編入し、遊撃部隊旗艦を「日向」に変更。木村少将は挺身部隊(重巡1隻《足柄》、軽巡1隻《大淀》、駆逐艦6隻《霞〔木村少将座乗、挺身部隊旗艦〕、清霜、朝霜、榧、杉、樫》)を率いて出撃、夜間空襲で「清霜」を喪失する。「霞」は魚雷4本を発射、機銃掃射により戦死者5名を出した。砲雷撃終了後、「霞」は清霜乗組員を救助して戦場を離脱。米軍に与えた被害は限定的だった。12月28日夕刻、礼号作戦部隊はカムラン湾に帰着し、第二水雷戦隊旗艦は「大淀」に戻った。サンジャック移動後、第二遊撃部隊(日向、伊勢、足柄、大淀、朝霜、霞)はリンガ泊地またはシンガポールへ向かった。1945年(昭和20年)1月1日、第二遊撃部隊(足柄、大淀、霞、朝霜)はシンガポールに到着し、「霞」はセレター軍港に入港。木村司令官は「霞」に将旗を掲げた。1月3日、第二水雷戦隊司令官は木村少将から古村啓蔵少将へ交代(着任・退任1月4日)。1月7日、戦線復帰以後の霞水雷長として勤務した森田友幸大尉は、シンガポールで修理中の陽炎型9番艦「天津風」(前年1月16日に被雷、船体切断)水雷長を命じられ、「霞」から「天津風」へ移動(2月10日より天津風駆逐艦長)。それまでの天津風水雷長庄司豪夫大尉が、後任の霞水雷長となる。1月10日、「曙」の除籍により第7駆逐隊は2隻編制(霞、潮)となる。「潮」はマニラ空襲の損傷により作戦行動不能のため、健在艦は「霞」1隻だった。1月25日、駆逐艦「響」の編入により、第7駆逐隊は3隻編制(霞、潮、響)となる。2月上旬、本艦は北号作戦(指揮官松田千秋第四航空戦隊司令官)に参加する。第二水雷戦隊(霞、初霜、朝霜)は第四航空戦隊(伊勢、日向、大淀)を護衛してシンガポールを出発。香港で第1駆逐隊(野風、神風)を編入し、2月20日に呉に帰投した。2月23日、二水戦旗艦は「霞」から「矢矧」に変更される。3月1日、山名寛雄(霞艦長)は秋月型8番艦「冬月」駆逐艦長へ転任。後任の霞駆逐艦長は、松本正平少佐(睦月型駆逐艦12番艦「夕月」沈没時艦長)となる。3月10日、ヒ87船団護衛中に沈没した白露型駆逐艦2番艦「時雨」の代艦として「霞」は第21駆逐隊に編入され、同隊は3隻編制(初霜、朝霜、霞)となる。また霞初代水雷長だった平山敏夫中佐(早霜駆逐艦長)は同日附で秋月型3番艦「涼月」駆逐艦長となる。3月18日附で石井汞大佐は第21駆逐隊司令の職務を解かれ、後任の司令には3月25日附で伊勢型戦艦1番艦「伊勢」副長小滝久雄大佐が任命された。3月27日、第21駆逐隊司令駆逐艦は「朝霜」となる。4月上旬、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将指揮下の9隻(軽巡矢矧《二水戦旗艦》、第17駆逐隊《磯風、雪風、浜風》、第21駆逐隊《朝霜、霞、初霜》、第41駆逐隊《冬月、涼月》)は戦艦「大和」(第二艦隊司令長官伊藤整一中将)を護衛して天一号作戦に参加する。4月7日の対空戦闘前、「朝霜」(第21駆逐隊司令駆逐艦)が機関故障で落伍すると、「霞」は輪形陣右側に位置する。米軍機動部隊艦載機との交戦開始後、13時27分に被弾。直撃弾と至近弾により機関部に浸水、航行不能となる。「大和」および「矢矧」沈没後の16時以降、「冬月」は「霞」に接舷。霞乗組員を収容したのち、「霞」は「冬月」の雷撃により沈没した。沈没時刻16時57分。17名が戦死、43名が負傷、沈没地点。4月20日、第二水雷戦隊は解隊。第21駆逐隊所属の「初霜」は、不知火型2隻(磯風、浜風)を喪失して「雪風」単艦となっていた第17駆逐隊に編入される。5月10日、「霞」および「朝霜」は除籍された。また姉妹艦全隻を喪失した夕雲型駆逐艦と満潮型(朝潮型)駆逐艦は艦艇類別等級表から削除された。第21駆逐隊も同日附で解隊。第17駆逐隊に転籍した「初霜」も終戦直前に触雷して沈没。第21駆逐隊に所属した駆逐艦(初春、子日、若葉、初霜、時雨、朝霜、霞)は太平洋戦争中に全隻喪失した。
出典:wikipedia
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