千国街道(ちくにかいどう)は、長野県松本市から新潟県糸魚川市に至る日本の街道。街道名は、街道の宿場の一つである千国(現小谷村)から採られたもの。街道の両端の地名を冠した糸魚川街道(いといがわかいどう)、松本街道(まつもとかいどう)の別名を持つ。現代の国道147号(松本市-大町市)及び接続する国道148号(大町市-糸魚川市)、大糸線(松本駅-糸魚川駅)と概ね並行するが、姫川の急峻な渓谷を回避するために、長野-新潟県境付近などでは谷沿いから離れ山岳に移行する区間も存在する。信濃国から越後国を結ぶ塩の道として、古代から利用・整備されてきた。特に戦国時代の「敵に塩を送る」の故事となる塩の輸送路として重要視された。江戸時代の松本藩でも、北塩(糸魚川側の塩)の流通のみを認めたことから、荷役牛・馬(積雪期は歩荷のみ)による運搬を容易にするため、街道の線形の見直しや整備が続けられてきた。街道は、定期的な大名行列の通過がないため本陣こそ存在しないが、現在の小谷村側に千国番所が、糸魚川市側に山口関所などの機関が設置された。1888年に信越本線が直江津駅から長野駅まで延伸、1902年に長野駅側から篠ノ井線が松本駅まで開業し、物資輸送に多くの役割を担っていた街道は急速に廃れたが、20世紀後半になると各所でトレッキングコースとしての利用や文化的な価値が見直され、脚光を浴びるようになった。"江戸時代の宿場町は、塩の道 (日本)#千国街道を参照のこと。"人や物資が往来する過程で多くの神社仏閣、道祖神や石仏等が建立、安置されるなど、街道沿いに豊かな文化がはぐくまれてきた。特に安曇野の古社穂高神社や仁科神明宮、若一王子神社への参詣路として重視された。こうした信仰の場や史跡は、21世紀の現在も残され保存の対象になっている。過去の文化、風俗等の資料は、塩の道資料館(糸魚川市根知)、千国の庄史料館(小谷村千国)、塩の道博物館(大町市)など各地の資料館にもまとめられ、展示や伝承が行われている。糸魚川-静岡構造線に並行するため、県境付近は地質は脆弱で地形は急峻という厳しい条件下にあり、過去には雪崩災害や山腹崩壊、地すべりなどの土砂災害の被害を受けてきた。1824年には、戸倉山山麓の歩荷宿(ボッカ宿)が雪崩で倒壊し多数の死者を出す被害も見られたほか、20世紀末にも7.11水害により多数の沢筋で土石流が多数発生、街道の一部が寸断された。
出典:wikipedia
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