布施屋(ふせや)とは、古代律令制時代に日本各地に作られた旅行者の一時救護・宿泊施設。仏教寺院の救恤事業の一環として設置されることが多かった。六国史に設置経緯が記された武蔵国の悲田処が有名である。平安時代、律令制下では庶民は租税や労役、兵役を課せられていたが、その運搬や出向は全て本人が自ら都まで出向かなければいけなかった。駿馬を使えるのは官吏だけに限られていたので、庶民は全員が何日、時には何十日もかけて徒歩や農耕用の馬で都に向かっていたのである。また食料も自己調達しなければならなかった。当然このような劣悪な状況では途中で飢えや病により倒れたり、死亡したりして行旅死亡人となる者も多く、初期の頃から社会問題化し始めていた。全国でそのような状況を解決するために、仏教寺院などを中心にして造られたのが「布施屋」である。数少ない史料から総合すると、布施屋の施設は3軒から5軒の建物から構成され、救護・宿泊施設と物資庫・食料庫に分かれていた。物資庫・食料庫は「板倉」という名で伝えられている場所もある。布施屋内の救護・宿泊施設では食料の配給、けがや病気の手当て、宿泊などのサービスが行われていた。ただしこれらはあくまで一時的=緊急避難的なものであり、長期的宿泊施設や療養施設としての性格は全くなかった。このためサービスの比重は救護の方に置かれ、宿泊はあまり重視されていなかった。事実、東大寺の設置した布施屋では寝具が2組しかなく、とても継続して宿泊出来る環境ではなかったことが分かっている。布施屋の運営主体は大きく分けて「寺院」と「国府」の2つに分かれる。元々困っている旅行者を施設を造って助けようという「救恤」の発想自体が仏教の考え方であり、自然と運営主体は寺院が多くなった。国府の運営、即ち官営であるものは、そのような仏教側の動きと実際問題での行旅死亡人の増加に伴い発生してきたものと思われる。布施屋自体が仏教的発想の産物であるため、運営には必ず仏教寺院が関わった。運営主体が寺院である場合はその寺院そのものが、国府である場合は敷地内に寺を建造したり近くの寺に監督を依頼したりすることが行われた。また敷地内には必ず「薬師寺」と称し、医薬を司る薬師如来を本尊とする寺が建てられたという。運営費や食料・物資の調達法は、自ら墾田を持つもの、官吏の扶持を割くもの、出挙として稲を貸し付け利子で運営するものなどさまざまであった。また敷地内にナツメや梨、栗などの木を植え、補助的に食料にあてることもあった。
出典:wikipedia
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