ジェームズ・ノックス・ポーク(, 1795年11月2日 - 1849年6月15日)は、第11代アメリカ合衆国大統領。ノースカロライナ州メクレンブルク郡に生まれ、後にテネシー州に移住、州知事、連邦下院議員を務める。1844年の大統領選でポークは「ダークホース」の候補であった。彼はテキサスの併合を約束し、ホイッグ党のヘンリー・クレイを破って当選した。ポークは第二党システムの間におけるジャクソン流民主主義のリーダーであった。ポークは最後の南北戦争前における「強い」大統領であった。彼は外交政策での成功で有名である。イギリスとの戦争の可能性を唱え、オレゴン境界紛争を決着させた。メキシコがテキサス併合を拒絶したとき、ポークは国を米墨戦争へと導き、その勝利で領土を大きく広げることとなる。彼は1846年にウォーカー関税を成立させ、南部からの支持を得た。また、1913年まで続く国庫システムを確立している。ポークは海軍士官学校とスミソニアン博物館の開設を監督し、ワシントン記念塔の起工式に立ち会い、アメリカ合衆国における最初の切手発行も監督した。彼は大統領職を1期のみ務めると約束し、再出馬しなかった。任期終了の三ヶ月後に彼はコレラのため死去した。歴史学者達は歴代アメリカ合衆国大統領のランキングにおいてポークをその課題達成能力から好意的に格付けしている。ポークは合衆国の「最も知られていないゆゆしい大統領」と呼ばれた。ジェームズ・ポークは1795年11月2日にノースカロライナ州メクレンブルク郡、パインビルの農家(丸太小屋とも)でサミュエル・ポークおよびジェーン・ノックス夫妻の間に10人兄弟の長男として生まれた。父親のサミュエルは農民として成功し奴隷を所有、アイルランド系の測量士でもあった。母親のジェーンはスコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスの兄弟の子孫であった。彼女はジェームズを父親のジェームズ・ノックスに因んで命名した。ノースカロライナに初期に入植したスコッツ=アイリッシュ系入植者の多くと同様に、ノックス家とポーク家は長老派教会を信仰していた。ジェーンは生涯を通して敬虔な長老派信者であったが、サミュエル(その父エゼキエル・ポークは理神論者であった)は独断的な長老派主義者を拒絶した。両親がジェームズを洗礼のため教会に連れて行ったとき、父のサミュエルはキリスト教への信仰を宣言するのを拒否したため、牧師はジェームズの洗礼を拒否した。1803年に一家の親戚の大半がダック川地域(現在のモーリー郡)に移住したが、ポーク一家は1806年までパインビルに留まった。一家はサミュエルが土地投機で成功し、郡判事になるなど繁栄し始めた。ポークは1818年にノースカロライナ大学を卒業、弁護士になり政界に入った。ポークは下院議員(1825年 - 1839年)、下院議長(1835年 - 1839年)およびテネシー州知事(1839年 - 1841年)を務めた。党推薦のマーティン・ヴァン・ビューレンがテキサス併合に対する反対を表明し、彼を大統領候補として承諾しがたい南部出身者およびアンドリュー・ジャクソン元大統領の人気を失った後、民主党は、党全国大会の第九回投票でダークホース、ポークを指名した。手紙で指名のことを伝えられて、ポークは返答を書いた。しかしながら、ベテラン政治家のポークは、小さな知名度のまま1844年の大統領選挙戦に入った。彼の相対的な知名度をホイッグ党は「ジェームズ・K・ポークとは誰?」と攻撃した。結局、ポークのキャンペーン政策は成果をあげた。1844年11月5日にポークはホイッグ党候補ヘンリー・クレイを破った。その選挙で選挙人団の投票クレイの105に対して170を彼は勝ち取った。一般投票はもっと接近しており、ポークが獲得した130万余票のうちの39,000票あまりの差に過ぎなかった。一期のみを務めるという決心の元に、ポークは彼の選挙公約を満たすために速やかに行動した。ちょうど4年で彼は、テキサス共和国の合併、イギリスとのオレゴン境界論争の解決、独立した財務システムの再建、メキシコからカリフォルニア、ニューメキシコ、アリゾナ、ネバダ、ユタ、コロラドの一部分およびワイオミングの領域の獲得を成し遂げた。旧メキシコの土地は、米墨戦争後のグアダルーペ・イダルゴ条約の結果として獲得した。 ポークの多大な政治的業績は彼の健康に悪影響を及ぼした。彼は4年の在任中、37日しか休暇を取らなかった。大統領就任時は精力的であったが、その職で疲れ果てポークは53歳のときにホワイトハウスを去った。彼は離職後四ヶ月に満たない内にテネシー州ナッシュビルの新居「ポーク・プレイス」で死去した。 ポークの妻サラ・チルドレス・ポークは訪問客をしばしば受け入れながら、42年間をそこで過ごした。南北戦争中にポーク夫人は、自宅に南軍および北軍指導者の両方を歓迎した。「ポーク・プレイス」は巡礼目的地になり、中立の土地として尊重された。ポーク夫人が1891年8月14日に他界した時、彼女は、彼女を過去への貴重なリンクと見なした国家によって哀悼された。 小柄な夫のために、Hail to the Chiefを大統領入場の際の音楽として制作し、今日まで採用されている。
出典:wikipedia
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