第三次ハリコフ攻防戦(だいさんじハリコフこうぼうせん)は、1943年1月から3月まで、ハリコフを中心にウクライナで行われたドイツ軍と赤軍との戦闘のこと。マンシュタインのバックハンドブロウ(後手からの一撃)の異名を取り、機動防御戦の教科書として戦史上極めて重要な戦闘の一つに数えられている。ドイツ軍は、ウクライナの解放を目指すソ連ヴォロネジ方面軍・南西方面軍・南方面軍の大攻勢に押し込まれたが、反撃に成功しクルスクを中心としたソ連側の突出部が形成された。1943年の初め、ソ連軍はスターリングラードにてドイツ第6軍を包囲した上で、さらにドン川へと攻勢をかけた事で、ドイツ国防軍は戦線崩壊の危機を迎えていた。スターリングラード攻防戦でのソ連の勝利が確定し、1943年2月2日には第6軍の司令官がすべて降伏し、9万にも及ぶ将兵が赤軍の捕虜となり、ドイツB軍集団の第6軍がスターリングラードで壊滅した。スターリングラードでのドイツの損害の合計は捕虜も含め、12万から15万にも及んだ。1942年を通してのドイツは負傷者を190万出し、1943年の初めに国防軍は東部戦線において軍の定員を47万人下回る兵しか充足できなかった。バルバロッサ作戦開始時国防軍は3300両の戦車を保有していたが、1月22日地点で東部戦線の全戦線にて残っていたのはわずか495両だった。この期にソ連軍は全戦線で攻勢に出た。ソ連軍のドン戦線がスターリングラードでドイツ軍を撃滅した後、スタフカはヴォロネジからロストフまで進軍しドイツのA軍集団を包囲するという攻勢の命令を下した。2月2日赤軍は星作戦を発動させ、ベルゴロド、ハリコフ、クルスクを奪還した。マルキアン・ポポフ少将率いる4個機甲師団が先鋒となり、ドネツ川を渡り、ドイツ軍の背後を取ろうと進軍した。2月15日、2個機甲師団がドニエプル川下流のザポリージャに迫った。ザポリージャはロストフ方面への最後の道であり、南方軍集団の本部、及び第4航空艦隊が駐留していた。ヒトラーの死守命令にもかかわらず、ハリコフはドイツ軍によって放棄され、赤軍によって2月16日に奪還された。ヒトラーは直ちにマンシュタインの本部があるザポリージャに飛んだ。マンシュタインはハリコフへの即時反撃は効果がないと主張したが、突出した赤軍の側面へのマンシュタインの5個機甲師団による攻撃は成功して、ハリコフを再占領することはできると考えた。2月19日赤軍の機甲部隊はドイツの戦線を破り、ザポリージャへと接近した。悪化する戦況の中で総統はマンシュタインに作戦上のフリーハンドを与えた。ヒトラーがこの地を離れた時、赤軍は飛行場から30kmの地点まで迫っていた。ソ連軍は星作戦の次の作戦としてギャロップ作戦を発動させた。この作戦はルハーンシクとイジュームを奪還することでドイツをドネツ川から押し出し、戦況をさらに悪化させる事を目的とした。スタフカはこの作戦によってロシアの南方戦線は完全に勝利し、大祖国戦争を勝利することができると考えた。ドイツ第6軍の降伏により、包囲していた6個軍がコンスタンチン・ロコソフスキーの元に再編成され、ロコソフスキーの部隊は第2戦車軍と第70軍によって強化された。これらの戦力はドイツの中央軍集団と南方軍集団の繋ぎ目であるハリコフに再配置され、ドンバス作戦に用いられた。この作戦はデスナ川を渡りドイツ中央軍集団を攻撃する事でオリョールにおけるドイツの突出部を殲滅する作戦であった。北部では、デミャンスク東方に形成されていたドイツ軍突出部・中部にあたるスモレンスク東方のドイツ軍に攻撃を加え、3月中に奪還した。南部では、1942年12月に「リトル・サターン作戦」を行い、ヴォロネジ方面軍・南西方面軍がドン川を越えドネツ川まで前進していた。1月29日、南西正面軍がドニエプル川まで進出し、ドン軍集団・A軍集団との連絡を遮断し、クリミアへ追い詰める「早駆け作戦」、2月2日に、ヴォロネジ正面軍が引き続き弱体化したドイツB軍集団に攻勢をかけ、ハリコフの奪還を狙う「星作戦」が発動された。ヴォロネジ方面軍は第3戦車軍を、南西方面軍は第6軍と臨時に編成されたポポフ戦車軍を先方とし、南方面軍は5個軍を先頭として、それぞれの目標へと進撃していった。これは、ドイツ軍の南方3個軍集団(A・B・ドン)を包囲殲滅する作戦であった。2月6日、ドン軍集団のマンシュタインが総統大本営でアドルフ・ヒトラーと今後の作戦構想において会談し、ドネツ地域にソ連軍を引き入れて流動的な防御を行うことを主張した。それに対してヒトラーは、ドン川下流の湾曲部に沿う「バルコニー」突出部のドネツ地域全体は何としても保持しなければならないと主張して、マンシュタインの主張を認めなかった。2月中旬には戦況はさらに悪化しており、A軍集団はカフカスから後退し、ホリト軍支隊とB軍集団の第4装甲軍は突出部にあるミウス川以東地域から後退していた。2月9日にはソ連軍はクルスク=ベルゴロド=ハリコフ北部のラインまで前進。13日ヒトラーはハリコフの死守を命じたが、15日SS装甲軍団がハリコフから撤退、16日ソ連がハリコフを奪還した。19日時点で、南西方面軍はドニエプル川目前まで前進していた。ドイツ軍側は、B軍集団を解消し、マンシュタインのドン軍集団を南方軍集団へ改組。第1装甲軍は南方軍集団へ移され、クライストのA軍集団は第17軍のみを隷下に置いてクバニ橋頭堡へ撤収と、組織的な再編を完了。マンシュタインは着々と反撃の準備を進めた。一方、ソ連軍は急進撃による補給不足が、しだいに深刻化しており、特にポポフ戦車軍は「すべての車両、動かず」という悲鳴のような状況報告を行っていたが、ドイツ軍戦線は崩壊状態にあると状況を誤認した南西方面軍はさらなる進撃を強要していた。2月19日にヒトラーが、、飛行機を利用してドニエプル川河畔のザポリージャの南方軍集団司令部を訪問、マンシュタインに即時のハリコフ奪還と戦線の死守を要求するが、マンシュタインはドニエプルと南方軍集団の背後に侵入しつつあるソ連軍の先鋒の撃破を優先するよう説得をしていた時、ザポリージャ近郊のポルタワにソ連軍が出現したという情報が入った。そのお陰で、ヒトラーはザポリージャから退避することになり、マンシュタインに作戦指導を一任した。こうして、フリーハンドを得たマンシュタインは、即刻反撃を命じる。まず、ミウス川以東地域から後退したホリト軍支隊を、ミウス川沿いに配置して、南方面軍の5個軍の進撃を阻止させ、第4装甲軍を南方軍集団左翼に、北カフカスから後退した第1装甲軍を南方軍集団右翼に秘密裏に配置変更して、ドニエプル川へと伸び切った南西方面軍を、第4装甲軍のSS装甲軍団が西方から、第4装甲軍の第48装甲軍団が南方から、第1装甲軍の第40装甲軍団が東方からの3方向で突入して攻撃を開始。この攻撃で南西方面軍は、ポポフ戦車軍、第6軍、第1戦車軍が壊滅的な打撃を受けたことにより包囲殲滅され壊走した。この反撃により、ドイツ軍は3月始めにはドネツ川=ミウス川の線までソ連軍を押し戻した。3月7日、南西方面軍を包囲殲滅した第4装甲軍の第48装甲軍団とSS装甲軍団は、ヴォロネジ方面軍の側面を攻撃する為にハリコフ方面に、同じ目的でケンプ軍支隊が、ベルゴロド方面に前進を開始。ソ連軍は西方へ進撃していた第3戦車軍を呼び戻し、ハリコフの防衛に当たらせるが、側面を攻撃されたことにより、ヴォロネジ方面軍の第3戦車軍、第40軍、第69軍は撃破され、逆に包囲の危機に晒されてしまい壊走した。15日にはあえなくハリコフを奪還され、3月中旬にはドイツ軍はベルゴロドも回復した。こうして、スターリングラードの包囲以降続いていたドイツ軍南翼の危機は回避され、むしろソ連軍南翼が崩壊状態に追い込まれた。次はクルスクで突出している部分へ攻勢をかけるべきであったが、春の泥濘期に入ったこと、突出部北部の中央軍集団が冬期戦の目処がついたことによって部隊の休養を宣言したことなどがあり、双方の軍事行動は一旦中止された。ドイツはこのクルスク突出部を攻撃する「ツィタデレ作戦」を5月初旬に開始する事を決めていたが、延期に延期が続き、7月からのクルスクの戦いでは十分に整えられたソ連軍の備えに苦しみ、敗退する事になる。
出典:wikipedia
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