マイク・ソーシア(Michael Lorri "Mike" Scioscia , 1958年11月27日 - )はアメリカ合衆国ペンシルベニア州モートン出身のプロ野球指導者、元プロ野球選手(捕手)。右投左打。現在は、MLBのロサンゼルス・エンゼルスの監督を務めている。球団からは監督として長期政権を託されており、日本のマスコミからはよく「知将」と表現される。のドラフト会議でロサンゼルス・ドジャースから1巡目(全米19位)で指名され、入団。4月20日にメジャーデビューを果たした。までドジャース一筋にプレイ。50日間に及ぶストライキでシーズンが短縮されたには93試合に出場。この年のワールドシリーズではベテランのスティーブ・イェーガーに正捕手の座を譲るが、2連敗で迎えた第3戦では4回からイェーガーに代わりマスクをかぶり、それまで4失点と乱調だったフェルナンド・バレンズエラを立ち直らせ完投勝ちに導き、シリーズの流れを変える役割を果たした。1982年にも129試合に出場し、おおむね正捕手の座を射止めた。は故障(回旋筋断裂)のため、わずか12試合の出場に終わる。には114試合出場した。には141試合に出場して自己最高の打率.296を記録し、チームの地区優勝に貢献。恵まれた体格でブロック力に優れ、リードも優秀であった。キャリアのハイライトと言えるシーンはのチャンピオンシップシリーズ第4戦であった。地区優勝し、ワールドシリーズ出場をかけてニューヨーク・メッツと対戦。シリーズは戦前からメッツ有利の予想で、第3戦を終わってドジャースは1勝2敗とリードを許していた。第4戦はメッツのエース、ドワイト・グッデンが初回2点を許したものも、2回から8回まで追加点を許さず、メッツは4回に3点を奪い逆転。さらに6回にも1点を追加し、8回を終わって2-4となった。しかし、最終回ドジャースの攻撃で、一塁に四球の走者ジョン・シェルビーを置いて、打席に入ったソーシアがグッデンから起死回生の同点2ラン本塁打をライトスタンドに放つ。ソーシアのこのシーズンの本塁打はわずか3本で、対するグッデンはそのシーズン248回1/3を投げて被本塁打8、9イニング平均0.29本と正味3試合完投で1本弱しか打たれていなかった。この試合は延長12回、ドジャースが制し、その勢いで第5戦も勝って3勝2敗とする。第6戦に敗れるが最終第7戦でオーレル・ハーシュハイザーの力投で勝ち、ワールドシリーズ出場を果たした。オークランド・アスレチックスとのワールドシリーズも4勝1敗で勝ち、自身2度目だが、正捕手としては初とも言えるワールドシリーズ制覇を成し遂げた。は初の2桁となる10本塁打、には自己最多の12本塁打を記録し、2年連続オールスター出場を果たし、日米野球で来日した。しかし、に回旋筋断裂の致命傷を負う。引退後、ドジャースでコーチやマイナー監督を務め、・にはベンチコーチを務める。よりアナハイム・エンゼルス(よりロサンゼルス・エンゼルス)の監督を務める。にはワイルドカードでプレイオフ進出を果たすと、球団史上初のリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズでもサンフランシスコ・ジャイアンツを下し、ワールドチャンピオンとなった。2009年1月に、エンゼルスと2018年までの契約延長を発表。60歳を迎える年までチームの指揮を執ることになった。ドジャース時代のチームメイト、ミッキー・ハッチャー(打撃コーチ)、アルフレッド・グリフィン(一塁ベースコーチ)がコーチを務める。選手・監督の両方でワールドシリーズ優勝を経験したのは、メジャー史上17人目。(他に12人が選手兼任監督として両方を同時に経験している。)ノーヒット・ノーランの捕手を2度務めた。1回目は1990年6月29日のバレンズエラ(カージナルス戦)。2回目は1992年8月17日のケビン・グロス(ジャイアンツ戦)。1990年のオールスターでは、ドジャースの捕手としてはロイ・キャンパネラ以来となる先発出場を果たす。監督として通算900勝は、チーム初代監督のビル・リグニーを抜きエンゼルス史上最多の白星である。監督としては数少ないバイリンガルの一人で、英語の他にスペイン語を話し、ラテンアメリカ出身選手とのコミュニケーションに苦労しない。また、送りバントや盗塁も多用するいわゆるスモールベースボールを好む。2002年のワールドシリーズで対戦したジャイアンツの監督ダスティ・ベイカーはドジャース時代のチームメイト。現役時代は主に背番号「14」を着けていたが、監督としてもこの番号を着けている。2011年のドラフトで息子のマットがエンゼルスから45巡目で指名され入団した。太字はプレイオフ進出(ワイルドカードを含む)。
出典:wikipedia
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