ミンゴ (USS Mingo, SS-261) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名はカリブ海に生息するフエダイ科に属するベニフエダイ(バーミリオン・スナッパー)の通称ミンゴ・スナッパーに因む。ミンゴは1942年3月21日にコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工する。1942年11月30日にヘンリー・L・ペンス夫人によって進水し、艦長ラルフ・C・リンチ・ジュニア少佐(アナポリス1929年組)の指揮下1943年2月12日に就役する。ロングアイランド沖で整調後、ミンゴは4月1日にロードアイランド州ニューポートへ向けて出航し、水雷ステーションで3週間の作戦活動に入る。ミンゴは5月16日にニューロンドンを出航しパナマ運河地帯を経由して太平洋に向かい、真珠湾でも訓練に従事した。6月25日、ミンゴは最初の哨戒でパラオ方面に向かった。7月12日夕刻、ミンゴはの地点で4隻の輸送船からなる輸送船団を発見。2隻の輸送船に対して魚雷を3本ずつ発射し、6,000トン級輸送船に魚雷が4本命中して撃破したと判断される。パラオ近海に到着後の7月26日には、の地点で単独航行中のタンカーを発見して魚雷を4本発射するが、これも命中しなかった。8月1日夕刻、ミンゴは沖に浮上し、送信塔に対して3インチ砲弾を70発ほどを撃ち込んだ。8月6日午前、ミンゴはの地点で第31号哨戒艇が護衛するオ003船団を発見し、魚雷を4本発射するも命中せず、第31号哨戒艇の反撃を食って退散した。8月21日、ミンゴは41日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。9月29日、ミンゴは2回目の哨戒でマーシャル諸島、カロリン諸島およびマリアナ諸島方面に向かった。10月8日にエニウェトク環礁を偵察し、環礁内に在泊艦船がいないことを確認。コスラエとポンペイ島を偵察の後、10月16日午後にはの地点で空母と4隻の「新型駆逐艦」を発見し、魚雷を6本発射。直後から爆雷攻撃を受け、その数は21発を数えた。目標の空母については、加賀級空母であろうと推定され、2本が命中したものと判断された。実際の相手は空母冲鷹であり、特に被害はなかった。10月20日にはのプンナップ島近海で10,000トン級タンカーと2,000トン級輸送船あるいはタンカーからなる輸送船団を発見し、追跡を行う。しかし、夜に入ったところで護衛艦に二度発砲され、攻撃できなかった。10月25日から11月6日まではサイパン島およびグアム近海で哨戒を行った。11月20日、ミンゴは53日間の行動を終えて真珠湾に帰投。「H.O.R.エンジン搭載艦は1隻残らず、暫時エンジンを換装するように」という合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング大将の命令により、該当艦であるミンゴも換装することとなってメア・アイランド海軍造船所に回航され、GM社製278A16気筒エンジンに換装した。換装後、1944年2月3日に真珠湾に戻ってきた。この間、艦長がジョゼフ・J・スタリー少佐(アナポリス1934年組)に代わった。2月26日、ミンゴは3回目の哨戒で南シナ海に向かった。3月22日夜、ミンゴはの地点でレーダーにより5隻の輸送船と4隻の護衛艦からなる9つの目標を探知し、魚雷を6本発射。やがて6つの爆発音が聞こえ、さらに閃光も見えた。しかし、護衛艦が反転してくる気配があったので、戦果確認は行わなかった。ミンゴは南シナ海での哨戒を終えると、ビスマルク諸島海域を経て、5月4日にニューギニアのミルン湾に寄港。5月9日、ミンゴは73日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。その後、前進基地のマヌス島に回航され、6月10日に到着後は訓練に従事した。6月19日、ミンゴは4回目の哨戒でセレベス海および南シナ海に向かった。7月7日未明、ミンゴはのルソン島沖マニラ湾口西方で、シンガポールからマニラに向かっていた特設運送艦旭東丸(飯野海運、10,051トン)と、護衛の軽巡洋艦北上、駆逐艦玉波および藤波を発見した。船団の方でもミンゴの存在を察知し、玉波をその制圧に差し向けた。ミンゴは玉波に対して魚雷を4本発射したが命中しなかったためさらに4本発射し、今度は3本が命中して玉波を轟沈させた。この哨戒は敵艦船との遭遇が旭東丸船団を含めて三度しかなかった。7月30日、ミンゴは46日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がジョン・R・マディソン少佐(アナポリス1937年組)に代わった。8月27日、ミンゴは5回目の哨戒でセレベス海に向かった。この哨戒では、フィリピンやボルネオ島を爆撃する第13空軍のB-24に対する援護を主な任務としていた。9月13日未明、ミンゴはの地点で2隻の掃海艇を発見し、掃海艇もミンゴを発見して向かってくる。ミンゴは掃海艇をひきつけて魚雷を3本発射したが、脅かしただけに終わった。9月30日にはの地点で病院船氷川丸(日本郵船、11,622トン)を目撃。10月2日午後、ミンゴはの地点で350トン級と250トン級のトロール船各1隻、2隻の150トン級トロール船を発見し、砲撃により全て撃沈した。また、ミンゴはこの哨戒を通じて16名のB-24の搭乗員を救助したが、うち10名はバリクパパン沖のマカッサル海峡で、残る6名はセレベス島の海岸部で、いずれもゴムボートを使って救助した。10月13日、ミンゴは46日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。11月6日、ミンゴは6回目の哨戒で南シナ海に向かった。11月19日、ミンゴはの地点で1隻の大型タンカーと2隻の護衛艦を発見。追跡を行い、夜に入って船団に接近すると、タンカーと護衛艦も備砲と機銃で撃ち返してきた。ミンゴは20ミリ機銃に乗組員を配して護衛艦に備えさせ、護衛艦の追撃を振り切ることに成功した。11月25日未明、ミンゴはシマ05船団を発見して追跡の上、のボルネオ島ミリ沖にいたったところで魚雷を発射し、陸軍輸送船まにら丸(大阪商船、9,486トン)の右舷に3本が命中し、まにら丸は搭載していた可燃物が炎上して沈没していった。海防艦倉橋が爆雷攻撃を実施したが、結局ミンゴを取り逃がした。ミンゴも反撃で魚雷を4本発射したが、命中しなかった。日本軍がマニラの戦いの末に玉砕あるいは逃亡するのは、この一件から3カ月以内のことであり、「マニラ」の名を冠した船が沈没したのは何とも暗示的であった。12月17日にはの地点で、カムラン湾からサンジャックに移動しつつあった第五艦隊(志摩清英中将)を発見し、艦隊をやり過ごしてから浮上して艦隊発見を通報した。ミンゴの通報後、B-25 5機がカムラン湾を爆撃したが、第五艦隊は攻撃を受けなかった。12月29日、ミンゴは52日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。1945年2月6日、ミンゴは7回目の哨戒で南シナ海に向かった。しかし、2月10日に猛烈な台風に翻弄され、艦体にダメージを負った上、乗組員2名が波にさらわれ、捜索の甲斐なく行方不明となってしまった。ミンゴは修理のため一度フリーマントルに引き返し、修理と乗組員の補充を行い、2月19日に再度出撃した。ミンゴは南シナ海とタイランド湾を哨戒した後、4月10日にサイパン島に寄港。燃料補給の後4月11日に出港して真珠湾に針路を向けたが、4月14日から南鳥島方面に向かった。4月14日の午後にはフランクリン・ルーズベルト大統領の訃報に接し、5分間祈りを捧げた。4月17日まで南鳥島沖で哨戒と偵察の後、再び真珠湾に向かった。4月25日、ミンゴは76日間の行動を終えて真珠湾に帰投。ミンゴはメア・アイランド海軍造船所に向かい、オーバーホールに入った。その後、8月9日にオーバーホールが終わって、真珠湾に向かっている途中に終戦を迎えた。ミンゴは真珠湾で短期間滞在した後、西海岸に戻っていった。その後、1947年1月1日にメア・アイランド海軍造船所で退役し、太平洋予備役艦隊入りする。1955年5月20日に再就役し、ミンゴは相互防衛援助プログラムに基づき海上自衛隊に貸与され、くろしお (SS-501) と改名された。くろしおは1966年3月31日まで現役として活動し、その後は1973年に標的艦として沈められた。ミンゴは第二次世界大戦の戦功で5個の従軍星章を受章した。ミンゴの7度の哨戒のうちの5回が成功として記録された。
出典:wikipedia
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