ポーギー (USS Pogy, SS-266) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の番艦。艦名のPogy は、一般的にはニシン科の小型魚アトランティック・メンハーデンの通称として知られるが、アメリカ公文書はタホ湖に生息するマスの一種の通称を由来と見なしている。ポーギーは1941年9月15日にウィスコンシン州マニトワックのマニトワック造船で起工する。1942年6月23日にユリウス・A・フューアー夫人によって進水し、艦長ジョージ・H・ウォーレス少佐(アナポリス1929年組)の指揮下1943年1月10日に就役する。ポーギーは2月1日に河川はしけでニューオーリンズに運搬されるため一時的に退役し、2月12日に到着すると再就役した。整調と公試および訓練が完了すると、ポーギーは4月5日に真珠湾に到着した。4月15日、ポーギーは最初の哨戒で日本近海に向かった。本州東岸海域で哨戒。5月1日8時45分ごろ、ポーギーはの塩屋埼灯台54度6海里の地点で5隻の輸送船と1隻の護衛艦からなる輸送船団を発見し、魚雷を3本発射。魚雷は特設砲艦京津丸(阿波国共同汽船、1,434トン)に命中してこれを撃沈し、他に艦船を破損させたと判断された。その夜、ポーギーはの地点で駆逐艦と目される艦影を発見し、魚雷を3本発射して1本が命中したとする。翌5月2日夕刻には、の地点で100トン級サンパンを砲撃で撃沈。5月4日にはの地点で輸送船と水雷艇を発見し、魚雷を3本発射したが命中しなかった。5月9日にはの地点で4隻の輸送船からなる輸送船団を発見し、護衛艦の制圧をものともせず魚雷を3本発射、輸送船宇洋丸(東洋汽船、6,376トン)に1本を命中させて撃破した。ポーギーはこの後もこの海域に留まり、5月11日朝にの地点で100トン級サンパンを撃沈したあと、5月13日にはの地点で2隻の輸送船を発見して魚雷を3本発射し、1本の命中を確認する。5月26日にはの地点で塩屋埼灯台沖で2隻の輸送船団を発見し、魚雷を3本発射して輸送船太南丸(太興汽船、1,989トン)に2本命中させて撃沈した。6月5日、ポーギーは51日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。6月26日、ポーギーは2回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。7月いっぱい続いた哨戒期間中、ポーギーは日本本土とトラックの航路を重点的に哨戒した。7月5日、ポーギーはのプンナップ島東方海面で発見した2隻の輸送船に対して魚雷を計5本発射し、3,000トン級輸送船に1本が命中したと判断した。ポーギーを含む、トラックの周囲で哨戒するアメリカ潜水艦がこの頃最も重視していたのは、トラックに出入りする空母や戦艦、重要船団の動向であった。7月15日には空母や重巡洋艦からなる艦隊を発見したが、艦隊は攻撃の範囲外にいた。7月20日、ポーギーはの地点で4隻の輸送船団を発見し、魚雷を4本発射したが命中しなかった。7月31日午後、ポーギーはのトラック北北東240海里の地点で第3724船団を発見し、日付が8月1日になった直後に魚雷を4本発射、特設航空機運搬艦最上川丸(東洋海運、7,496トン)に2本命中してこれを撃沈した。その後ポーギーは哨戒領域を離れ、8月14日にジョンストン島で給油を行った。8月16日、ポーギーは53日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。9月9日、ポーギーは3回目の哨戒でパラオ方面に向かった。9月23日未明、ポーギーはの地点でレーダーにより2隻の輸送船を探知し、二番目の輸送船に対して魚雷を3本発射したが命中しなかった。9月28日午後、ポーギーはの地点でパラオからラバウルに向かうソ805船団を発見し、魚雷を4本発射するが命中しなかった。ポーギーは追跡を続け、2日後の9月30日6時40分にの地点にいたったところで魚雷を4本発射し、魚雷は陸軍輸送船前橋丸(南洋海運、7,005トン)の左舷後方船倉に命中貫通して右舷船倉で爆発。前橋丸は浸水甚だしく6時45分に沈没した。10月6日には、の地点で2隻のタンカーに対し魚雷を4本発射したが、命中しなかった。10月28日、ポーギーは49日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がラルフ・M・メトカーフ少佐(アナポリス1935年組)に代わった。11月25日、ポーギーは4回目の哨戒でパラオ方面に向かった。12月7日昼、ポーギーはのサイパン島東方400キロ地点で輸送船2隻と海防艦2隻からなる第4205乙船団を発見し、2隻の目標に対して魚雷を4本発射して2本が命中。次いで魚雷をもう2本発射して1本を命中させる。魚雷は特設運送船(給炭油)総洋丸(東洋汽船、6,081トン)に3本命中し火災を発生させた。海防艦が爆雷攻撃に入る前に、ポーギーは巧みにこれをかわした。ポーギーは夜になって浮上し、消火に成功したものの航行不能の総洋丸に対して魚雷を2本発射して、2本とも命中させてようやく撃沈した。この時、日付は12月8日になっていた。12月13日には、のパラオ南方で輸送船団を発見して魚雷を3本発射、陸軍輸送船福海丸(明治海運、3,829トン)に2本命中させて撃沈した。しかし、直後に護衛艦から27発もの爆雷攻撃を受けた。うち3発がポーギーのすぐそばで爆発し、魚雷発射管用のジャイロスコープとエンジン用温度計が破壊された。ポーギーは損傷のため哨戒を切り上げた。12月22日、ポーギーは29日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。1944年1月15日、ポーギーは5回目の哨戒で台湾近海に向かった。2月9日午後、ポーギーはの台湾東方で2隻の護衛艦に護衛され、7隻の輸送船からなるモタ01船団を発見。追跡の上2月10日未明より攻撃を開始し、まず魚雷を3本発射するが命中しなかった。3時間後、駆逐艦に対して魚雷を2本、輸送船に対して魚雷を3本発射。魚雷は、駆逐艦峯風の艦橋直下と後部に命中して撃沈し、輸送船まるた丸(日本海運、5,499トン)にも2本が命中して撃沈した。ポーギーは台湾東方で哨戒を続け、2月13日朝にはの彭佳嶼近海で3隻の輸送船を発見し、浮上攻撃で魚雷を2本発射したが命中した様子はなく、攻撃後に17発の爆雷攻撃を受けたが切り抜けた。2月20日未明、ポーギーはの、北回帰線と交差する八重山諸島の近海でナ180船団を発見。魚雷を2本発射し、2本とも命中したを確認。3時間半後に再び魚雷を3本発射し、1本の命中を確認する。最初の攻撃で輸送船大仁丸(太洋海運、5,154トン)を、二度目の攻撃で輸送船南洋丸(運輸通信省、3,614トン)を撃沈した。3日後の2月23日未明にも、の久米島近海でモタ05船団を発見し、先頭と二番目の輸送船に対して魚雷を4本発射し、30分後にもう4本発射。魚雷は2隻の輸送船、宝嶺丸(東亜海運、5,588トン)と帝坤丸(帝国船舶、5,113トン)に命中し、宝嶺丸は帝坤丸とともに那覇港に曳航されたが、2月25日に港外で荒天を避けるべく避泊中、船体が切断し座礁沈没した。翌2月25日未明には雨の中で沖大東島を艦砲射撃し、見張所に損害を与えた。3月8日、ポーギーは54日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。4月7日、ポーギーは6回目の哨戒で日本近海に向かった。本州海域で哨戒中の4月28日夜、ポーギーはの豊後水道沖の島沖で、呉から出てきた伊号第一八三潜水艦(伊183)を発見した。ポーギーは3時間かけて伊183の出方を見たが、伊183がこちらを発見した素振りがないので魚雷を4本発射。1本が伊183に命中し、4つないし5つの爆発を起こして沈没していった。攻撃後確認すると、周囲にはガソリンのような匂いが漂っていた。直後に司令部から、豊後水道を往来する輸送潜水艦を攻撃するよう命令が入ったので、ポーギーは「すでに完了」との返信を送った。その後、ポーギーは東に哨区を移動させ、5月5日朝にはの潮岬沖290度12海里の地点で第8504船団を発見し、魚雷を3本発射。海軍徴傭船白根丸(日本郵船、2,825トン)に1本が命中してこれを撃沈し、白根丸から逸れた2本が陸岸に命中して爆発した。5月11日夜にはの大王崎沖で「古めかしい大型貨客船」と2隻の護衛艦を発見し、魚雷を4本発射したが命中しなかった。5月13日夜にはの石廊崎南南西25キロ地点で輸送船と護衛艦を発見し、魚雷を3本発射。魚雷は海軍徴傭船安房丸(大阪商船、4,524トン)に2本が命中し、可燃物を満載していた安房丸は瞬時に火の海と化して沈没した。5月16日にはの八丈島近海で20トン級サンパンを20ミリ機銃の射撃だけで撃沈し、50代の船員を捕虜とした。5月20日にもの地点で40トン級サンパンを撃沈して5名を捕虜とする。5月29日、ポーギーは52日間の行動を終えて真珠湾に帰投。6月1日にサンフランシスコのハンターズ・ポイント海軍造船所でオーバーホールに入るため真珠湾を出港し、6月8日に到着した。休み中に艦長がピーター・G・モルテーニ・ジュニア少佐(アナポリス1937年組)に代わり、ポーギーはオーバーホール後の9月17日に真珠湾に向けて出港した。真珠湾に到着後、ポーギーは短期の訓練を行った。10月13日、ポーギーは7回目の哨戒で南西諸島方面に向かった。しかし、この哨戒では味方潜水艦とサンパンは見たものの、敵艦船とは一度も遭遇せず、攻撃機会もなかった。12月2日、ポーギーは48日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。12月27日、ポーギーは8回目の哨戒で小笠原諸島方面に向かった。1945年1月14日未明、ポーギーは3隻の輸送船からなる輸送船団を発見し、の地点で魚雷を6本発射したが命中しなかった。敵以外では哨戒中の事故で九死に一生を得たポンポン ("USS Pompon, SS-267") と会合し、ポンポンとともにミッドウェー島に針路を向けた。2月11日、ポーギーは46日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。艦長がジョン・B・バワーズ少佐(アナポリス1938年組)に代わった。3月12日、ポーギーは9回目の哨戒で日本近海に向かった。この哨戒では東京湾口方面での艦船攻撃の他に、海上に不時着したB-29のクルーを救助する任務も請け負っていた。4月1日朝、ポーギーはの地点で2隻の特設監視艇に対して5インチ砲で砲撃を行ったが、脅かしただけに終わる。4月5日にはの地点で海防艦を発見し、魚雷を3本したが回避され、逆に爆雷攻撃を受けた。4月9日午後にも、の地点で2隻の輸送船を発見して、小型タンカーに対して魚雷を4本発射したが、これも命中しなかった。4月19日、ポーギーは救助配備中にB-24(あるいは海軍型のPB4Y-1 シーリベレーター)の誤爆を受け、艦橋に被弾した。4月29日、ポーギーは担当海域で不時着したB-29のクルー10名を救助し、彼らをサイパン島まで輸送した。タナパグ港でクルーを下ろしたあと、5月6日に出港。5月15日、ポーギーは61日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。7月2日、ポーギーは10回目の哨戒で日本海に向かった。日本海はかつて「ヒロヒトの浴槽」などと称していたが、6月のバーニー作戦以降は何ら恐れる海域ではなくなった。ポーギーは対馬海峡の機雷海域を通り抜け、終戦まで日本海を哨戒することとなった。7月14日にグアムアプラ港に進出し、7月15日から16日にかけては太平洋艦隊潜水部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド中将の巡閲を受ける。7月25日に日本海に入り、2日後の7月27日夜には、の経ヶ岬沖で輸送船筑前丸(東亜海運、2,448トン)を発見し、魚雷を4本発射して2本を命中させこれを撃沈。7月31日未明にはの地点で、レーダーで探知した小型タンカーに対して魚雷を4本発射したが、命中した様子はなかった。8月2日未明にもの地点で「10,000トン級タンカー」を発見し、魚雷を4本発射してに損傷を与えたと判断された。8月5日未明には、の男鹿半島船川の西方沖で発見した輸送船琴平山丸(三井船舶、2,220トン)に対し魚雷を2本発射、2本とも命中させて撃沈した。8月10日、ポーギーはの積丹半島沖で沿岸輸送船を発見して魚雷を4本発射したが、命中しなかった。その後、終戦を択捉島近海で迎えた。8月21日、ポーギーは47日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。第二次世界大戦での経歴を終えた。ポーギーは9月5日にミッドウェー島を出航し、パナマ運河を経由して東海岸へ向かい、10月3日にニューヨークに到着した。その後、1946年7月20日にニューロンドンで予備役となり、大西洋予備役艦隊入りする。ポーギーは1958年9月1日に除籍され、1959年5月1日に売却された。ポーギーは16隻の船を沈め、その総撃沈トン数は62,633トンに上る。ポーギーは第二次世界大戦の戦功で8個の従軍星章を受章した。
出典:wikipedia
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