LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

阪急電鉄の4000番台事業用車

阪急電鉄の4000番台事業用車(4000番台じぎょうようしゃ)は、阪急電鉄に在籍していた事業用車両である。ここでは、過去に在籍していた車両について説明する。なお、4050形・4250形については、別項を参照のこと。阪急電鉄では、1964年以降、事業用車両として4000番台を使用しており、由来も形態も異なる雑多な車両が在籍していた。これらの車両は、それぞれの用途に応じて使用されていたが、保線工事や社内用品の配給に使用されていた車両は、自動車に取って代わられたことにより、1980年までに廃車され姿を消した。一方、救援車として在籍していた車両についても、老朽化により1982年に4050形に置き換えられ、姿を消した。4000形は、1928年に新京阪鉄道が製造した無蓋式電動貨車である。4001と4002の2両が在籍した。元の車番は4と5であったが1929年に4001と4002に変更された。両車ともに保線工事などに使用されていたが、4001は、主に長物の資材を運ぶため、1949年に車体中央部にクレーンを設置するとともに運転台が狭められる改造を受け、さらに1957年には向かって左側に乗務員室を拡張している。一方、4002は原型のまま改造されなかった。晩年まで、正雀車庫と桂車庫間の資材輸送用として使用されており、本線で見掛けることも多かったが、1974年に4002が、1979年に4001が廃車されて姿を消した。4100形は、1924年に新京阪鉄道が製造した無蓋式の貨車である。20両が製造され、当初は1000形と称した。主に千里線沿線の土砂を輸送するために使用されていたが、1015が信貴生駒電鉄に貸し出されたまま復帰せず、19両となった。戦後は西宮車庫などにも配置され、控室を取り付けられるなどして引き続き工事用車として使用されたが、1971年に車籍を抹消され、工事用機械扱いとなった。1949年に4100形に改番されている。4200形は、神戸線・宝塚線所属の電動貨車の総称である。車体形状は様々であったが、昇圧工事の際に電気機器や台車を統一しており、同一性能である。4201は、1951年に1形の9を改造した電動貨車である。車体形状は1形のスタイルをよく留めており、同じ1形改造の4203と対照的であった。当初、宝塚線の荷物列車に使用されていたが、1954年の荷物営業廃止後は、池田車庫常駐の救援車となった。車番は改造当時は201(2代目)で1956年に3201、1964年に4201となった。1969年の宝塚線昇圧の際に昇圧対象から外され、救援車の役割を4208に譲って廃車となった。4202は、レールや電柱などの長物を輸送するために、先代202(下記参照)の機器を流用して1927年に製造された電動貨車である。車体両端に組まれたやぐらの上に小さな運転台が置かれるという異様なスタイル(しかも側面は扉などはなく吹きさらし)であったが、後に改造されたものの前から見ると非常に狭い運転台であり、居住性は良くなかったという。のち保線工事用に転用されて作業員待機室が増設されたが、運転台の幅はそのままだったため、運転台の後ろに細長い作業員待機室が並ぶという非常に特異なスタイルになった。昇圧工事は1967年に実施され、長らく西宮車庫常駐であったが、1974年に京都線に転出し、1977年に廃車された。車番は登場当時は202(2代目)で1956年に3202、1964年に4202となった。4203は、1949年に1形の33を改造した電動貨車である。33は、1927年に試験的に鋼体化及び丸屋根化改造されたため、他の1形とは車体形状が大きく異なっており、電動貨車への改造後もその特徴を保っていた。当初は神戸線の荷物列車用に使用されていたが、1954年の荷物営業廃止後に西宮車庫常駐の救援車となった。4201と違って昇圧工事対象となり、1形としては最後まで残る車両となった。引き続き西宮車庫で待機していたが、4050形の登場によって1982年に廃車された。在籍期間、実に71年という長寿であった。車番は登場当時は203(2代目)で1956年に3203、1964年に4203となった。4207・4209・4210は、1949年に製造された無蓋式電動貨車である。台枠は、戦災や事故によって廃車された車両(90形1両と51系2両)からの流用である。主に保線工事用として使用された。昇圧工事を実施したほかは、大きな改造も無く使用された。晩年は、4207が正雀車庫、4209が平井車庫、4210が西宮車庫に配置されていたが、保線工事のトラック化に伴い使用されることが無くなり、1977年から1980年にかけて廃車された。車番は、登場当時は207・209・210で1956年に3207・3209・3210、1964年に4207・4209・4210となった。4208は、1924年に製造された無蓋式電動貨車1208を1951年に鋼体化改造した電動貨車である。資材輸送用として改造されたため、車体中央部を除いて有蓋車となり、無蓋部にはクレーンが設置された。池田車庫に配置され、西宮工場と池田車庫間の資材輸送用に使用されていた。昇圧工事を受ける際、4201に代わって宝塚線の救援車として使用されることになり、無蓋部に屋根を取り付け有蓋車化された。その後も平井車庫にて待機していたが、1982年に廃車された。車番は登場当時は1208で1951年に208、1956年に3208、1964年に4208となった。1208で登場したのは、当時事業用車両を1200番台に統一する計画があったが結局本車以外には採用されなかったためである。4300形は、1924年から1925年にかけて新京阪鉄道が製造した電気機関車である。3両が製造され、登場時の番号は1~3であったが、1929年に2001~2003に改番された。1000形(のち4100形)を牽いて土砂輸送用として使用するために製造したが、実際の運用では2両で十分だったようで、2003は早い時期に休車となり、長らく放置されたのち1955年に廃車された。残り2両はそのまま使用され、1960年に3001・3002、1964年に4301・4302に改番された。長らく正雀工場の入換用として使用されていたが、1975年に車籍を抹消され工場の機械扱いとなった。その後4302が解体、4301も1986年に解体され、姿を消した。なお、2003の車体の半分はカットされ、宝塚ファミリーランドの「のりもの館(旧・電車館)」に保存されていたが、現在は正雀工場で保管されている。4501は、1928年に新京阪鉄道が製造した手荷物合造客車である。旧番号は8である。車体中央部に荷物室を設け、荷物室の外側には、生鮮食料品の輸送を考慮してヨロイ戸式の通風孔を設けていた。荷物室の両側には客室があり、主に早朝に市場に仕入れに出掛ける客向けに使用されていた。戦後は救援車に転用され、正雀車庫に配置されていたが、特に大きな改造も無く原型を留めていた。4050形によって置き換えられ、1982年に廃車された。1929年に5001、1964年に4501となった。登場時車両カラーはグリーンだったが、1950年にグレー、1955年にブラックへ変更された。1964年以降は4000番台に統一されたが、それ以前に運用されていた事業用車について記載する。かつて事業用車両は宝塚線・神戸線は100番台、200番台を使用していた。1956年から1964年までは3000番台を使用している。京都線で使用された事業用車両は旅客用と車両番号が被っている。101は箕面有馬電気軌道が1911年に投入した無蓋電動貨車である。固定4輪車台車で37kwのモーターを1台装備し、ブレーキは手動ブレーキで車体中央にポールスタンドがあり2本のポールを取りつけてあった。集電装置は1927年にポールからボウコレクターに変更され、1947年に廃車された。102は箕面有馬電気軌道が1911年に投入した無蓋電動貨車である。固定4輪車台車であるが101と異なり空気ブレーキを装備し、ポールスタンドは車両両端にありポール先頭が車体中央を向いている、1927年にモーターを外し土運車となった。1947年に廃車された。103と104と105は箕面有馬電気軌道が1914年に投入した有蓋電動貨車である。103は1927年にモーターを外し無蓋の土運車に改造されており、この時に余剰となった部品は107へ活用されている。1947年に廃車された。104と105は1931年に運転台を撤去し無動力・無番の救援車となった。1940年に廃車された。106は1920年に関東の成田電軌より譲渡された電車4両のうち1両の台車と電気部品を流用し、車体を新造して投入した無蓋電動貨車である。池田車庫と西宮工場の部品輸送に使用されたが1947年に廃車された。107は1920年に製造された無蓋電動貨車である。1927年に103の部品を活用し有蓋電動貨車に改造され、1947年に廃車された。200は1947年に京阪線から移籍した有蓋電動貨車で、京阪100形電車の138を1930年に有蓋電動貨車化した物。1950年に宝塚線で火災事故に遭い車体を半焼、1952年に廃車された。201と202は1916年に阪堺電軌より譲渡された無蓋電動貨車である。車体中央に門形のポール取りつけ台を備えていたが201は1927年にポールからパンタグラフに変更され、ポール取りつけ台と一方の運転台の間に橋を架けるようにパンタ取りつけ台が設置された。202は1927年に廃車されたが、車体を新製し機器を流用した二代目の202(後の4202)が製造された。201は1949年に205(二代目に当たる)へ改番され1952年に廃車された。203と204と205は1917年に阪堺電軌より譲渡された有蓋電動貨車である。203は通風口が設けられていた。1940年に車体改造を行い柱が外にあるスタイルへ変更され204が神戸線の救援車、205が宝塚線の救援車となった。203は1945年に戦災で廃車、205は1949年に廃車され、204は1954年に廃車された。206は1920年に製造された神戸線用の有蓋電動貨車である。51型と同じ台車とモーターを使用していた。1949年に205の後を継いで宝塚線の救援車となった。1954年に廃車された。207は1920年に製造された神戸線用の無蓋電動貨車である。51型と同じ台車とモーターを使用していた。1949年に事故により廃車された。車体中央に門形のポール取りつけ台を備えていたが後に201同様ポールからパンタグラフに変更され、ポール取りつけ台と一方の運転台の間に橋を架けるようにパンタ取りつけ台が設置された。51は北大阪電気鉄道が1921年に投入した有蓋電動貨車である。神戸線の有蓋電動貨車103と同じ製造会社でスタイルと寸法は同一であった。1500Vに昇圧された1928年から使用されなくなり1934年に廃車されたが、車体は1957年まで正雀車庫の物置に使用された。52と53は北大阪電気鉄道が1921年に投入した固定4輪車台車の無蓋電動貨車である。1500Vに昇圧された1928年から使用されなくなり1929年から1940年に信貴生駒電鉄へ貸与された後、守口工場で旅客用に改造されて京阪大津線へ移籍、90形(大津電軌10形が前身の形式)95・96となった。3000形は、1928年にかけて新京阪鉄道が製造した有蓋電動貨車である。2両が製造され、登場時の番号は6・7であったが、1929年に3001・3002に改番された。1954年に貨物営業廃止後使用されなくなり、1961年廃車されたが、機器と台車は210系に流用された。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。