宮城 弘明(みやぎ ひろあき、1962年6月16日 - )は、神奈川県横浜市鶴見区出身の元プロ野球選手(投手)。横浜市でラーメン店を営む家庭に生まれ、野球好きの父によって左投げに矯正される。鶴見中学校3年生の時に2人のプロ野球選手から三振を奪い、10校以上の野球部から勧誘を受けて横浜商へ進学。入学後は基礎体力作りに努め、高校2年生のには県大会決勝で愛甲猛との投げ合いを制し、同校を41年ぶりの夏の甲子園大会出場へ導いた。しかし試合後に左肩に激痛を感じ、香川伸行とともに大会を代表する選手に挙げられていた本大会では変化球主体の投球で準決勝まで勝ち進むも、箕島高校に敗れた。3年夏の県大会では4回戦で桐蔭学園に敗れ、自身の登板は13イニングにとどまっている。プロ入り志望を表明すると地元に近いロッテなど11球団のスカウトが実家に訪れ、1980年のドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。193cmの長身から「ジャンボ」の愛称で親しまれ、球威が認められるようになった3年目のには開幕一軍入りを果たしている。しかし翌の春に左ひじに水がたまり、ごまかしながら投げ続けるもには両手で顔が洗えないほど状態が悪化した。オフにヤクルトを自由契約になり大洋の入団テストを受けたが不合格となる。渡韓に反対する親戚を説得して韓国球界に挑戦し、当時の韓国球界はコーチを除き在日コリアンでなければ入団することができなかったため、スカウトが在日コリアンと偽り、ピングレ・イーグルスに入団した。実質、初の「在日コリアンではない日本人選手」となった。 韓国での登録名は金弘明(キム・ホンミョン、김홍명)。すぐにレギュラーとなって二戦目で勝利を挙げると、同年は先発ローテーションに一年間定着して156イニングを投げて自身初の体験に充実感を得たという。ハングルを覚えるなど韓国での生活に徐々になじんでいったが成績が上がらないこともあり、帰国を決めたに現役を引退した。帰国後は知人の紹介で江本孟紀の私設秘書となり、1996年4月に地元選出の石渡清元の秘書となっている。その後小林温の秘書などを歴任し、2003年、横浜市議会議員選挙に鶴見区選挙区から自民党公認で出馬するも落選。からは社会人野球クラブチーム『千葉熱血MAKING』のヘッドコーチに就任。また、これと並行する形でNPO法人「つばめスポーツ振興協会」での野球教室の講師も担当している。
出典:wikipedia
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