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レイ (潜水艦)

レイ (USS Ray, SS/SSR-271) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名はエイ亜区に属する魚の総称に因む。レイは1942年7月20日にウィスコンシン州マニトワックのマニトワック造船で起工する。1943年2月28日にS・C・ルーミス夫人によって進水し、艦長ブルックス・J・ハーラル少佐(アナポリス1932年組)の指揮下1943年7月27日に就役する。8月15日までミシガン湖で訓練を行った後、レイはニューオーリンズを経由して8月31日にパナマ運河地帯のココ・ソロに到着した。10月5日にパナマを出発したレイはガラパゴス諸島を経由し、10月30日にブリスベンに到着。ニューギニアのミルン湾の前進基地に回航された。 11月13日、レイは最初の哨戒でビスマルク諸島方面に向かった。ニューハノーバー島とトラック諸島間の航路で哨戒していた。11月26日未明、レイは護衛艦のの地点で輸送船団を発見し、反撃をかわしつつ魚雷を4本発射、3本を命中させたとして撃沈を報じる。同じ日の午後にはのトラック南西300海里の地点で、レーダーにより3隻の輸送船と3隻の護衛艦と思われる輸送船団を探知し、護衛艦の反撃をかわしつつ魚雷を6本発射して特設運送船日海丸(日産汽船、2,562トン)に4本命中させて撃沈した。11月29日、レイはガトー ("USS Gato, SS-212") 、レイトン ("USS Raton, SS-270") およびオ306船団を相次いで発見し、潜航して戦闘に備えるが攻撃機会はなかった。12月1日午後にもの地点で別の輸送船団を発見し、雨の中を浮上接近して攻撃機会をうかがう。やがて一隻の護衛艦と砲戦を交えることとなったが、互いに命中弾はなかった。12月7日、レイは24日間の行動を終えてミルン湾に帰投した。12月11日、レイは2回目の哨戒でセレベス海に向かった。12月15日から17日までダーウィンで補給した後、チモール島近海、フローレス海を経て哨区に入った。12月26日夜、レイはのチョロ海峡西方15海里、北西海域で護衛なしで航行中の特設運送船(給油)巨港丸(拿捕船、元オランダ船セミラミス/飯野海運委託、5,792トン)を発見。レイは巨港丸の動きを封じて翌12月27日未明に魚雷を6本発射し、魚雷が3本命中した巨港丸は巨大な炎のきのこ雲を残して沈没していった。1944年1月1日、レイはのアンボン灯台220度10キロ地点で護衛艦のいる2隻の船を発見。魚雷を6本発射し、うち3本が特設砲艦億洋丸(東洋汽船、2,904トン)に命中してこれを撃沈した。もう1隻の船がレイに体当たりを試みて接近し、また上空を警戒していた航空機も接近して制圧してきたので、レイは深深度潜航で退避して難を逃れた。3日後の1月4日には、の地点で「千鳥型水雷艇」に護衛された2隻の輸送船を発見し魚雷を4本発射し、2本の命中があったと判定された。1月12日、レイは24日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。2月6日、レイは3回目の哨戒で南シナ海およびインドシナ半島方面に向かった。2月22日、レイはからにいたる海域に11個の機雷を敷設。3月2日夜にはの地点でシンガポールに向かうヒ47船団を発見し、追撃を行う。翌3月3日未明にの地点にいたったところで魚雷を4本発射してタンカーに命中したと判断した。3月18日、レイはの近海で2隻の千鳥型水雷艇と哨戒艇を発見し、魚雷を6本発射して乗組員は命中音を聞いた。しかし、直後から爆雷攻撃にさらされ、日没後に何とか脱出できた。3月27日、レイは50日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。4月23日、レイは4回目の哨戒でミンダナオ島方面に向かった。モルッカ海を経て哨区に入る。5月21日午後、レイは護衛艦と水上機によって護衛されハルマヘラ島に向かっていたH26船団(竹三船団)を発見し、夜になってから浮上して船団を追跡した。5月22日未明にのダバオ南西400キロ地点での最初の攻撃で魚雷を5本発射、反転して2本発射する。6つの命中音を確認して輸送船とタンカーを合計4隻撃沈したと判定されたが、実際には魚雷は陸軍輸送船天平丸(白洋汽船、6,094トン)にのみ命中して撃沈しただけだった。レイは混乱する船団を尻目に浮上して一旦船団の視界外に逃れた。翌5月23日、レイはセロ ("USS Cero, SS-225") と合流して、の地点にて折からのスコールの中でレーダーにより探知したH26船団を再び攻撃。レイは艦首と艦尾の発射管を使ってタンカーと小型輸送船に向けて魚雷を計10本発射し、セロとともにタンカー建和丸(日東汽船、6,384トン)に魚雷を命中させて撃破した。セロは、これとは別に陸軍輸送船大順丸(大阪商船、2,825トン)を撃沈した。レイは水柱が立ったり船が火災を起こす様子を確認したが、空からの反撃に備えて潜航して避退したので、結果的にどうなったのかは確認できなかったが、「7隻の艦船に打撃を与えた」と見ていた。6月14日、レイは53日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がウィリアム・T・キンゼラ少佐(アナポリス1934年組)に代わった。7月9日、レイは5回目の哨戒で南シナ海、ルソン島方面に向かった。7月18日早朝、レイはのスラバヤ北方バウエアン島の北37キロ地点で、護衛なしで単独航行中のタンカーじゃんび丸(三菱汽船、5,244トン)を発見した。レイはまず魚雷を6本発射し、3本の命中があったとする。次いで艦尾発射管から魚雷を4本発射するがすべて外れ、三度目の攻撃では魚雷を3本発射し1本を命中させ、じゃんび丸から反撃があった。四度目の攻撃は再び艦尾発射管から魚雷を4本発射するも、またもやすべて外れる。30分後、魚雷を3本発射して2本か3本命中させたと判定された。最後の攻撃では魚雷を2本発射し、2本とも命中。レイは、じゃんび丸1隻を片付けるのに魚雷を22本も費やすという無駄使いをしたため、マカッサル海峡で短期間哨戒を行ったのちフリーマントルに戻って魚雷を補給し、7月28日に再出撃した。8月4日朝、レイはのマカッサル海峡で小輸送船団を発見し、魚雷を4本発射。魚雷は陸軍輸送船光州丸(朝鮮郵船、2,295トン)に命中し、船体を2つに割って撃沈した。レイはカリマタ海峡、ナトゥナ諸島近海を経てボルネオ島西岸にまわり、8月13日にはの地点でシミ08船団を発見。夜に入っての地点で魚雷を4本発射し、日付が8月14日に変わってからも魚雷を6本発射。二回目の攻撃で輸送船瑞祥丸(栗林商船、5,289トン)を撃沈した。8月18日昼過ぎ、レイはのパラワン島南西沖バラバク海峡付近でミ12船団を発見し、魚雷を6本発射。陸軍タンカー南星丸(拿捕船、元イギリス船プレイドン/日東汽船委託、5,878トン)に魚雷を命中させて撃沈する。43発の爆雷攻撃をしのいだあと浮上し、ミ12船団を追跡し続け、その間に僚艦に船団の存在を報告した。ミ12船団はミンドロ島バウエン湾に入って待機し、他方バウエン湾の外ではレイと、レイの報告で合流してきたハーダー ("USS Harder, SS-257") 、ハッド ("USS Haddo, SS-255") 、ギターロ ("USS Guitarro, SS-363") が集まってくる。ハーダー艦長のサミュエル・D・ディーレイ少佐(アナポリス1930年組)は潜水艦を次のように割り振った。レイとギターロを湾の北西方、ハッドを南西方、ハーダー自身は西方という具合にである。8月21日朝、ミ12船団が出港してきたのを確認したレイは、の地点で、この時点で残っていた最後の魚雷4本を全て発射。魚雷は応急タンカー武豊丸(日本郵船、6,964トン)に向かい、3本目が命中して撃沈した。レイは海防艦などの反撃で潜航して避退しつつ武豊丸が損傷するところを辛うじて確認し、爆雷攻撃をかわして戦場を離れた。武豊丸の撃沈が認定されたのは、戦争が終わってからのことだった。8月31日、レイは52日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。9月23日、レイは6回目の哨戒で南シナ海に向かった。10月6日夜、レイはの地点で、レーダーで3つの目標を探知し、それは2隻の駆逐艦に護衛されたタンカーだろうと判定された。駆逐艦の動きに注意を払いつつ魚雷を6本発射し、1本の命中があったと判定される。翌10月7日明け方にの地点にて、再び魚雷を6本発射。3つの爆発を確認したが、戦果は不明だった。10月12日午後には、の地点で2隻の護衛艦を配する輸送船を発見し、魚雷を4本発射して海軍徴傭船東崗丸(大連汽船、4,180トン)に2本命中させて撃沈した。2日後の10月14日未明、レイは日本の対潜哨戒機の制圧を受け潜航したものの、26メートルの深度になったころで対潜爆弾が炸裂し、レイは修理のため10月20日にミオス・ウンディ島に戻って、10月26日まで修理を受けることとなった。10月27日にミオス・ウンディ島を出撃して哨戒再開後、レイは11月1日午前にのミンドロ島カラビテ山南西60キロ地点でM246船団を発見し、ブラックフィン ("USS Blackfin, SS-322") とともに攻撃。レイは魚雷を3本発射してタンカー第七蓬莱丸(蓬莱タンカー、834トン)に命中させて撃沈し、ブラックフィンも2隻撃沈した。この直後、レイはミンドロ島の海岸に接近し、3名の諜報員と2トンの貨物を陸揚げし、その代わりにコレヒドール島から脱走した2名の陸軍兵士と、政治犯として収容され脱走してきたフィリピン人を収容した。11月4日夕刻、レイはの沖で激しい爆発を聴取した。間もなくタマ31A船団を発見し、ブリーム ("USS Bream, SS-243") とギターロの雷撃により炎上して航行不能になっていた特設運送船香久丸(大阪商船、6,806トン)に対して魚雷を2本発射して2本とも命中させて香久丸の船首を吹き飛ばし、しばらく後に沈没していった。2日後の11月6日には、の沖で、重巡洋艦熊野および青葉の2隻を含むマタ31船団を発見し、熊野に対して集中的に雷撃した。ギターロ、ブリームに続いてレイは魚雷を4本発射して2本の命中を報告したが、逆に反撃を受け浅瀬の海に潜まざるを得なかった。その際、レイはギターロともに爆雷で損傷を受け、熊野に対する再度の攻撃は諦めたが、哨戒を打ち切るほどの損傷でもなかった。11月14日夜、レイはのルソン島ビガン西方300キロ地点でマタ32船団を発見し、魚雷を6本発射して第7号海防艦に命中させて轟沈させた。11月16日にもの地点で輸送船団を発見し、魚雷を1本ずつ計2本発射したが命中しなかった。11月19日には空母カウペンス ("USS Cowpens, CVL-25") の搭乗員を救助。12月8日、レイは70日間の行動を終えて真珠湾に帰投。メア・アイランド海軍造船所に回航されて12月16日に到着し、オーバーホールに入った。オーバーホールを終えたレイは1945年3月26日にサンフランシスコを出港し、グアムアプラ港に回航され4月29日に到着した。4月30日、レイは7回目の哨戒で日本近海に向かった。5月7日、レイは九州近海で撃墜されたB-29の搭乗員10名を救助。5月15日には、激浪で破壊したPBM マリナーの搭乗員10名を救助した。レイはポンポン ("USS Pompon, SS-267") とライオンフィッシュ ("USS Lionfish, SS-298") に救助した搭乗員を託して哨戒を続けた。5月19日、レイはの地点で3隻の「小型輸送船」を発見して魚雷を3本発射したが、魚雷は輸送船の下部を通過していった。この「小型輸送船」は実は爆雷を搭載した特設艦艇で、3隻はレイが潜航したあたりを攻撃した。レイはその場から少し離れたところで浮上し、追跡してきた小型輸送船を浮上砲戦で撃沈した。哨戒の残り期間は、黄海での小型船などへの攻撃に終始し、5月20日にの地点で監視艇を撃沈したのを皮切りに、5月30日までの間に連日のように監視艇やスクーナーなどを撃ち沈め、その数は19隻を数えた。魚雷攻撃も行い、6月2日夕刻にはの地点で「5,000トン級輸送船」を発見して魚雷を5本発射したが命中せず、2日後の6月4日にもの地点で「4,000トン級輸送船」を発見して魚雷を6本発射したが、これも命中しなかった。6月16日、レイは49日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。7月11日、レイは8回目の哨戒でタイランド湾に向かった。7月20日にアプラ港に寄港し、補給後哨区に針路を向けた。レイは8月2日から5日までの間にジャンクを片っ端から攻撃して撃沈。8月7日夕刻には、のレムチョン近郊にある船溜で大量のジャンク群を発見し、実に16隻を砲火で撃沈。さらに乗組員が7隻のジャンクに乗り込んで焼き捨てた。この哨戒でレイは、実に35隻もの小船を撃沈した。8月13日、レイは30日間の行動を終えてスービック湾に帰投し、2日後に終戦を迎えた。レイは戦争が終わるとスービック湾を出港し、サイパン島、真珠湾、パナマ運河を経由して10月5日にコネチカット州ニューロンドンに凱旋した。その後は1947年2月12日までニューロンドンで訓練艦としての任務に従事し、その後は予備役として保管される。1950年12月、フィラデルフィア海軍工廠へ曳航されレーダー哨戒潜水艦としての転換が行われる。レイは1951年1月3日に SSR-271 に艦種変更され、1952年8月13日に艦長A・C・バーレー少佐の指揮下再就役した。レイはフィラデルフィアを1953年3月27日に出航する。同年の残りは東海岸沿いおよびカリブ海での艦隊訓練、作戦活動に従事した。1954年3月1日から5月26日までレイは第6艦隊に所属し哨戒艦としての任務に従事する。母港のノーフォークには5月26日に帰還し、7月から8月にかけてノバスコシア沖で行われたカナダ軍との合同演習に参加する。1954年の残りと1955年は艦隊演習、定期訓練に費やされ、1955年4月から11月までチャールストン海軍工廠でオーバーホールが行われた。1956年3月5日から6月4日まで再び地中海でレーダー哨戒艦としての任務に従事し、レイはアメリカ軍とNATO軍の部隊と共に作戦活動を行う。1956年の残りと1957年は大西洋とカリブ海で艦隊演習および定期訓練に従事し、1956年6月にはハンプトン・ローズでの国際観閲式に参加、1957年9月から10月にかけてNATOの演習「"Strikeback"」に参加しスコットランド、フランス、ポルトガルを訪問した。1958年の前半は東海岸とカリブ海での艦隊演習に費やされた。レイは1958年6月30日にノーフォークを出航し、不活性化のためにチャールストン海軍工廠入りする。レイは1958年9月30日に予備役となり、1960年4月1日に除籍された。レイの船体はスクラップとして1960年12月18日にコマーシャル・メタルズ社に売却された。レイは第二次世界大戦の戦功で7個の従軍星章と、フィリピン共和国の殊勲部隊章を受章した。

出典:wikipedia

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