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拉孟・騰越の戦い

拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で行われた、日本軍と中国・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。日本の部隊は援蒋ルートの遮断のために派遣された小規模なもので、進出した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていたが、援蒋ルート遮断後もによって中国軍への支援が継続されたため、連合軍の指導によって近代的な兵力を身につけた中国軍が1944年より反撃に転じ、数に劣る日本軍は圧倒された。日本軍は補給路を断たれ孤立し、撤退命令も出ず、また救援部隊も送られなかったため、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に玉砕した。硫黄島などの孤島において玉砕したケースは多いが、この戦いは大陸において玉砕した珍しいケースとして知られる。1944年4月ごろのビルマ方面軍の編成表は中国名を「松山」といって無名の廃村である。拉孟は怒川の西岸にあり、恵通橋を眼下に見下ろす海抜2000メートルの山上にある。東は怒川の大峡谷を挟んで対岸の鉢巻山と相対し、北方および南方は怒川の二つの支流の深い渓谷に挟まれている。西方のみがビルマ行路に沿って龍陵に通じていた。気候は内地に似て四季の変化に富んでおり、とくに秋は美しかった。1942年5月に同地を占領した第56師団は、その隷下の歩兵第113連隊長(連隊長松井秀治大佐)の指揮のもと、歩兵1個大隊・砲兵1個大隊の兵力で陣地構築にとりかかり、堅固な防衛陣地を築き上げた。1943年中期以降、雲南遠征軍の反攻準備が進展すると、空陸から拉孟陣地を攻撃するようになり、守備隊はそれに反撃しつつ約100日分の武器弾薬食料の集積に努めた。また軍属によって酒保(売店)や慰安所が開設された。1944年3月に雲南遠征軍の一部が拉孟北方の大廉子で怒江を渡河し、反攻してきた。松山大佐は2個大隊に砲工兵の一部を率いて紅木樹方面(拉孟北方)に出撃し、怒江の水際でこれを破った。また歩兵第2大隊長は部隊を率いて平戞(へいかつ 拉孟より40キロ南)へ出撃した。その後もミイトキーナ南方に降下した英軍空挺部隊の掃滅など各地を転戦し、6月5日、騰越に全部隊が終結した。松山大佐は結局、拉孟に復帰することはなかった。それより3日前にジョセフ・スティルウェル米陸軍大将が再建した20万の中国軍(雲南遠征軍・指揮衛立煌将軍)の一部4万8千名が拉孟を包囲した。残りは騰越、龍陵、平戞に向かった。対する拉孟守備隊の兵力はわずか1280名であった。拉孟守備隊は野砲兵第56連隊第3大隊長金光恵次郎少佐が指揮した。当初、拉孟守備隊の主力である歩兵第113連隊は、2800名ほどいた。ところが3か月前に拉孟北方に現れた敵軍のために兵力を割かなければならなかったなどしたため、雲南遠征軍が包囲したときにはその半分にも満たなかったのである。そのときの守備隊の陣容は次のとおりである。負傷した兵を除くと、まともに戦える戦闘員は実質1000名に満たなかった。一方、拉孟を包囲した敵戦力は、蒋介石の直系栄与第1師団(日本の近衞師団に相当)を中心とする5個師団。この軍は、新式装備・兵の質もきわめて優秀な精鋭部隊であった。敵対比率は50倍以上も開きがあったにもかかわらず、拉孟守備隊は死守を命じられ、100日間も粘り強く戦闘が行われたのである。9月7日をもって全戦闘は終結した。1300名の兵力のうち、残存兵力はゼロ、すなわち玉砕であった。中国軍の捕虜となった傷病者と、本隊への連絡のために軍命によって拉孟を脱出した者が、わずかながら生還している。また、この戦闘で20名いた慰安婦のうち、15名の日本人慰安婦は自決、5名の朝鮮人慰安婦は雲南軍に投降した。拉孟が陥落する直前の6日、真鍋大尉は木下昌己中尉ら3人の部下を脱出させていた(別にほか一名が脱出)。彼らは地元民に変装し、16日、無事第33軍本部のある芒市に辿り着き、吉田連隊、翌17日司令部へと向かい、道中松井大佐と出会った。松井大佐はそこで拉孟守備隊の悲壮な末路に涙したという。騰越(現在の騰衝)は最前線の拉孟から北東60キロ地点にある。騰越は、雲南省怒江西地区随一の都会で、騰越平野のほぼ中央にある。人口4万、周囲に城壁をめぐらした城郭都市で、1630年に、政緬軍の将軍が築いたといわれる。城壁は周囲約4キロ、ほぼ正方形で、高さ5メートル、幅2メートル、外側は石、内側は積土によって重ねてあった。周囲は高地に囲まれ、東には高黎貢山山脈を縦走し、怒江に架かる2つの橋を渡って、保山、昆明へと続いていた。西方には穀倉地帯が広がり、北ビルマのミイトキーナをへて、インドに通じていた。気候は、比較的温暖。住民は、漢民族、タイ人、シャン人などが占められていた。市街の周囲には、3キロほどの平地を隔てて、独立した高地があった。北方には高良山、北東2キロに飛鳳山、南方2キロに標高200メートルの来鳳山、西方4キロに宝鳳山である。これらの高地からは、騰越はまる見えであり、騰越防衛のためには、これら周囲の高地をも防衛しなければならなかった。これらを防衛するためには少なくとも3個連隊ほどの兵力(約7000名)が必要であったが、実際、防衛したのは2千名であった。騰越を防衛した指揮官は蔵重康美陸軍大佐だが、本来ならば上司の水上源蔵少将がその役目であった。水上は昭和19年2月に『龍』の歩兵団長に任命され、騰越へやってきた。前任の坂口静夫少将は中将に進級し、第55師団(『壮』)の師団長として転出した。水上は猛将といわれた坂口少将と違って軍人というより学者肌の静かな将軍であった。それからまもなく、、ナムカム付近(龍陵から南西100キロ地点)に降下した英軍空挺部隊掃討のため、水上は騰越を後にした。その留守を部下の蔵重大佐に託した。水上は、「騰越こそ自分の墓場である」と語ったが、実際彼が戦死した場所は、騰越から北西にいったミイトキーナ(現在のミッチーナー)であった。6月22日、蔵重大佐は兵力を次のように配置した。ところがその2日後に、第56師団司令部から宮原少佐の第3大隊を抽出するよう命じてきた。蔵重大佐はこのままでは、騰越防衛のメドが立たないと思ったが、師団の苦しい立場を考え、これを受け入れた。結局、蔵重大佐は飛鳳山陣地を放棄して陣地配備を変更した。当時の守備隊兵力は、の計2025名であった。一方、対する雲南遠征軍の兵力は49,600名であった。兵力差は実に25倍であったが、騰越守備隊は2か月以上も騰越を死守したのである。雲南遠征軍は、騰越前面に予備第2師、第36師、第198師、第130師の4個師団。また第116師が、騰越南方を遮断し、龍陵への道路を遮断した。これにより騰越は完全にとりかこまれてしまった。7月27日以降、騰越守備隊は騰越城に籠って、9月13日の玉砕するまで戦いを続けた城内の防御に移った蔵重大佐は、次のように兵力を配備させた。また、次のような防御施設や施策をおこなった。この戦いによる中国遠征軍の損害は、総勢21万2500人中 死傷6万3000人(全滅した二個師団を含む数個師団が戦力喪失)であった。拉孟の陣地跡には、戦勝を記念した中国軍による記念碑がいくつか建てられている。一帯の旧跡は、2006年5月25日に「松山戦役旧址」として中華人民共和国全国重点文物保護単位に指定された。2013年9月3日には、さらに勝利を大々的に喧伝するため、402体もの中国軍兵士の石像が設置された。

出典:wikipedia

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