スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名はニジマスの降海型の通称に因む。スティールヘッドは1942年6月1日にメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所で起工する。1942年9月11日にマーギュライト・ブラウン夫人によって進水し、艦長デヴィッド・L・ウェルシェル少佐(アナポリス1930年組)の指揮下1942年12月7日に就役する。スティールヘッドはロングアイランド沖で1942年12月から1943年1月まで整調を行う。2月に太平洋に向けて出航し、4月8日に真珠湾に到着し、訓練に従事した。訓練後スティールヘッドはミッドウェー島に回航され燃料を補給した。4月25日、スティールヘッドは最初の哨戒で日本近海に向かった。5月9日23時30分ごろ、スティールヘッドは室蘭の日本製鐵輪西製鐵所に対して艦砲射撃をすべく浮上し、約30発もの砲弾を撃ち込んだ。しかし、実際に砲撃した場所は室蘭の北東にある幌別村であり、海岸から約6キロ離れた時点に着弾したが、大した効果はなかった。5月12日未明には、付近の襟裳岬沖に12個の機雷を敷設し、5月31日にも付近の海域に機雷を敷設して「補強」した。この哨戒ではスティールヘッドは魚雷を1度も発射することはなかった。6月9日、スティールヘッドは49日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。6月30日、スティールヘッドは2回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。7月10日夜、スティールヘッドはハリバット ("USS Halibut, SS-232") およびポーギー ("USS Pogy, SS-266") とともに哨戒中、のトラック諸島北方170海里の地点で5つの目標を発見する。九九式艦上爆撃機27機と零戦45機を輸送中の空母雲鷹と特設巡洋艦愛国丸(大阪商船、10,438トン)に対してスティールヘッドは魚雷を5本発射し、うち3本が命中するような音が聞こえた。しかし、この戦闘ではハリバットが愛国丸を撃破しただけに終わった。7月15日にはの地点で、2隻の最上型重巡洋艦と目される目標を発見したが、振り切られた。8月5日未明、スティールヘッドはの地点でレーダーにより複数の目標を探知。やがて「3隻の城のような艦」を含む日本艦隊を発見し、魚雷を戦艦武蔵に対して4本、雲鷹に対して6本発射した。やがて2本が爆発する音が聞こえ、ウェルシェル艦長は「おそらく雲鷹に2本命中」と判断した。しかし、実際には魚雷は早期爆発を起こして雲鷹にも武蔵にも命中しなかった。駆逐艦が爆雷攻撃を実施したが、スティールヘッドの艦体を揺さぶっただけだった。スティールヘッドはその後もう一度攻撃しようと接近を試みたが、艦隊は猛スピードで去っていき、攻撃できなかった。3時45分にはレーダーからも消え去った。8月16日、スティールヘッドは47日間の行動を終えて真珠湾に帰投。修理を行った。9月12日、スティールヘッドは3回目の哨戒でギルバート諸島に向かった。9月19日から23日までは、タラワに爆撃を行った陸軍機の救助支援任務に当たった。9月24日に一旦ジョンストン島に引き返し燃料を補給した後、翌25日に改めてパラオ方面に向かった。10月6日未明、スティールヘッドはのトラック諸島北西方で特務艦風早を発見した。スティールヘッドは風早に対して魚雷を4本発射し、2本を命中させたと判断するが、風早が撃ち返してきたため息をひそめなければならなかった。スティールヘッドは近くにいたティノサ ("USS Tinosa, SS-283") と交信して呼び寄せ、最終的にティノサが風早を撃沈したものの、撃沈のきっかけを作ったのはスティールヘッドであった。10月21日未明には、のウルシー環礁南東150海里地点で2隻の特設運送船、國川丸(川崎汽船、6,863トン)と五洲丸(五洋商船、8,592トン)、駆逐艦太刀風からなる輸送船団を発見。魚雷を3本発射し、うち2本が五洲丸の右舷に命中して火災を発生させた。11月3日未明、スティールヘッドはの地点で輸送船団を発見し、魚雷を6本発射したが、爆発は確認しなかった。護衛艦の反撃をやり過ごして浮上したが、午後に入って別の7隻の輸送船団を発見し、夕方になって魚雷を計7本発射したが、これも命中しなかった。追跡は11月4日に続き、午後にの地点で魚雷を4本発射するも、この攻撃も成功しなかった。11月25日、スティールヘッドは72日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。12月25日、スティールヘッドは4回目の哨戒で日本近海に向かった。1944年1月10日、スティールヘッドはの地点でレーダーにより3隻の輸送船と2隻の護衛艦を探知。魚雷を4本発射し、1本が特設工作艦山彦丸(山下汽船、6,799トン)に命中。山彦丸は大破し、僚船山国丸(山下汽船、6,921トン)に曳航されて八丈島八重根湾に到着するが、1月11日に風浪圧により被雷箇所から船体切断、前部が沈没。残った後部も1月13日に沈没した。スティールヘッドはさらなる攻撃を加えようとしたが、爆雷攻撃に阻まれた。その後、スティールヘッドは豊後水道方面を哨戒したが、1月26日に病院船を見ただけで戦果はなかった。帰投中の2月14日未明、スティールヘッドのレーダーはの地点で複数の目標を探知、追跡の末に夜に入っての地点で魚雷を6本発射。8つの爆発音が聞こえたが、命中音は聞こえなかった。2月15日未明にも魚雷を4本発射したが、こちらも音沙汰なしであった。2月20日、スティールヘッドは61日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。3月22日、スティールヘッドは5回目の哨戒で東シナ海、台湾近海に向かった。4月17日夜にバーブ ("USS Barb, SS-220") とともに沖大東島の建物に対して艦砲射撃を行い、4月30日にはの地点で300トン級トロール船を発見し、3インチ砲と20ミリ機銃による攻撃で撃ち沈めた。5月23日、スティールヘッドは62日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。6月17日、スティールヘッドは6回目の哨戒でハンマーヘッド ("USS Hammerhead, SS-364") およびパーチー ("USS Parche, SS-384") とウルフパックを構成しルソン海峡方面に向かった。7月8日夜、スティールヘッドはの地点で30トン級の小舟に対して機銃掃射を行った。7月30日から、ハンマーヘッドとパーチーが盛んに目標を探知し、翌7月31日未明、スティールヘッドはルソン島沿岸に向かうミ11船団を発見した。3時30分にパーチーの攻撃でタンカー光栄丸(日東汽船、10,238トン)を撃沈したあと、3時40分にスティールヘッドがの地点で、艦首と艦尾の発射管から魚雷を計10本発射。1隻の輸送船に1本が命中するのを確認したが、艦尾発射管からの魚雷は成果を挙げなかったとした。スティールヘッドはパーチーと連絡を取り合って新たな目標を探し出し、最初と二度目の攻撃から1時間経ってから三度目と四度目の攻撃で魚雷を4本ずつ発射し、爆発をいくつか確認する。パーチーからは「4隻の輸送船が沈んだ」との報告もあった。スティールヘッドの攻撃は以上で終わり、朝方には南の方角に逃げていくミ11船団を確認した。ミ11船団に対する攻撃で、スティールヘッドは最初の攻撃で1万トン級タンカーと7,500トン級輸送船各1隻撃破、二度目の攻撃は撃破した7,500トン級輸送船を攻撃も失敗、三度目の攻撃は1万トン級輸送船撃沈、最後の四度目の攻撃では5,500トン級輸送船の撃沈を報じた。のちに陸軍輸送船扶桑丸(大阪商船、8,196トン)を撃沈して陸軍輸送船だかあ丸(日本郵船。7,169トン)を撃破したと認定された。陸軍輸送船吉野丸(日本郵船、8,990トン)の撃沈は、パーチーも吉野丸に魚雷を命中させたと主張してきたため、吉野丸撃沈はスティールヘッドとパーチーの共同戦果となった。8月16日、スティールヘッドは60日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。スティールヘッドはサンフランシスコに回航され、ハンターズ・ポイント海軍造船所でオーバーホールに入ったが、オーバーホール中の10月1日に火災事故が発生し、焼けた司令塔を交換する大きな損傷を受けた。オーバーホールが終わったスティールヘッドは、1945年4月16日にサンフランシスコを出航し真珠湾に回航された。艦長がロバート・B・バイネス少佐(アナポリス1938年組)に代わった。5月13日、スティールヘッドは7回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。トラック方面でパイロット救助支援任務に費やした後、6月8日にグアムアプラ港に寄港して補給を行い、今度は日本近海でB-29クルーに対する支援任務を行った。この哨戒では、魚雷はついに発射しなかった。その代わり、7月1日にの潮岬近海で2隻の50トン級トロール船を浮上砲戦で撃沈し、1隻の50トン級ジャンクを破壊した。8月3日、スティールヘッドは74日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。8月15日の終戦も同島で迎えた。スティールヘッドは8月25日にミッドウェー島を出航し、9月5日にサンフランシスコに到着した。その後は1946年1月2日まで西海岸のソナー学校での任務に従事する。任務終了後は真珠湾に向かい、3月まで活動した後サンフランシスコに帰還し不活性化の準備に入る。スティールヘッドは1946年6月29日に予備役となり、大西洋予備役艦隊入りする。1947年5月に予備役訓練艦としての任務が命じられ、1960年4月1日に除籍されるまで訓練任務に従事した。スティールヘッドは第二次世界大戦の戦功で6個の従軍星章を受章した。
出典:wikipedia
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