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スヌーク (潜水艦)

スヌーク (USS Snook, SS-279) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名はアカメ科に近縁なセントロポマス科に属する大魚の総称に因む。スヌークは1942年4月17日にメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所で起工した。1942年8月15日に、潜水艦S-27 ("USS S-27, SS-132") の艦長としての英雄的活動で海軍十字章を受章したジェームズ・C・デンプシー中尉夫人によって命名、進水し、1942年10月24日に艦長チャールズ・O・トライベル少佐(アナポリス1929年組)の指揮下就役する。ニューイングランド沖での整調訓練後、スヌークは1943年3月3日に太平洋に向けてニューロンドンを出航し、真珠湾に到着後12日間在泊した。4月11日、スヌークは最初の哨戒で東シナ海および黄海方面に向かった。4月30日に上海付近に機雷敷設を行い、その後は北上して黄海の中国沿岸を巡航した。5月5日、スヌークはの大連沖で2隻の輸送船を発見し追跡を行う。スヌークは2隻を夕方まで追跡し、魚雷を3本発射。輸送船錦江丸(朝鮮郵船、1,264トン)に魚雷を命中させてこれを撃沈し、もう一隻の輸送船大福丸(大同海運、3,194トン)は錦江丸の運命を知らずに航行を続けたが、沈みゆく錦江丸の乗員がホイッスルを鳴らしたため敵の存在に気づく。大福丸は回避運動を始め、スヌークから発射された計2本の魚雷を回避した。その後備砲の砲撃をもってスヌークを一旦は射程外に追いやる。スヌークは大福丸の頭を押さえる態勢を取り、3本の魚雷を発射。うち1本が船腹に命中し大福丸はの地点で沈没した。5月7日未明、スヌークはの地点で輸送船団を発見し接近。追いついて良い態勢を取ったスヌークは最初に魚雷を4本発射した。魚雷は輸送船東生丸(木原商船、4,363トン)に命中しこれを撃沈。また、他にも何隻かに損傷を与えたと判断された。5月13日にはの地点で2,000トン級輸送船を発見し、魚雷を2本発射して1本を命中させて撃沈したと判断される。また5月16日にも鳥島の西方で2隻の武装トロール船を破壊した。5月23日、スヌークは42日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。6月9日、スヌークは2回目の哨戒で南西諸島方面に向かった。6月24日朝、スヌークはの奄美大島近海で、6隻の輸送船と2隻の護衛艦、第38号哨戒艇と水雷艇隼からなる高雄行きの第169船団を発見。魚雷を4本発射し、魚雷は特務艦大瀬の前部と油タンクに命中して大破させた。スヌークは攻撃後一旦は深く潜航し、やがて潜望鏡深度に戻って観測すると、大瀬が第38号哨戒艇の護衛の下ノロノロと航行しているのが見えた。しかし、直後に航空機の制圧を受けて止めは刺せなかった。7月4日0時前、スヌークはの地点で、レーダーで三池港から馬公に向かっていた第172船団をとらえた。スヌークは第172船団を追跡の上、2時30分ごろから六度にわたって魚雷を発射する。2時30分ごろに発射された計9本の魚雷は、輸送船りばぷうる丸(国際汽船、5,865トン)の左舷船尾に3本命中し、残りの魚雷も陸軍輸送船幸喜丸(橋本汽船、5,290トン)に2本命中。幸喜丸は間もなく沈没し、りばぷうる丸も曳航されたが浸水がひどく沈没した。3時40分ごろから発射された計5本の魚雷は、1本が海軍徴傭船あとらんちっく丸(国際汽船、5,872トン)の船尾に命中し航行不能に陥らせたが、沈没は免れた。そのほかの魚雷は応急タンカー白馬山丸(太洋興業、6,641トン)に向かったが、命中しなかった。一連の攻撃の締めくくりは「もんてびでお丸型輸送船」に対する二度の攻撃で、魚雷を計5本発射したが命中しなかった。7月18日、スヌークは40日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。8月18日、スヌークは3回目の哨戒で東シナ海に向かった。途中、8月31日と9月1日には南鳥島を攻撃する、チャールズ・A・パウナル少将率いる機動部隊の支援任務で偵察と救助配備に従事し、攻撃後は通常の哨戒に戻った。9月11日にはの地点で輸送船団を発見し、4,000トン級輸送船に対して魚雷を二度にわたり3本ずつ計6本発射したが、命中しなかった。9月13日未明、スヌークはの舟山群島沖で第195船団を発見し、魚雷を6本発射。魚雷は2本が船団前列を航行中の台湾航路貨客船大和丸(日本郵船、9,655トン)に命中させてこれを撃沈した。その後は北上して、大連から出てくる日本船を狙う。9月22日にはの地点で輸送船桂浜丸(土佐商船、715トン)を発見し、魚雷を4本発射して1本を命中させ、再度魚雷を4本発射してもう1本命中させて撃沈した。9月29日にはの地点で、400トンから500トンほどの木造船を発見し、浮上して3インチ砲と機銃掃射で破壊した。10月8日、スヌークは52日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。10月30日、スヌークは4回目の哨戒でハーダー ("USS Harder, SS-257") 、パーゴ ("USS Pargo, SS-264") とウルフパックを構成しマリアナ諸島方面に向かった。11月19日未明には、ハーダーが敵輸送船団を攻撃している様子を聴取。11月28日、スヌークはパーゴからの報告に基づいて複数の目標を迎撃する位置に移動する。やがてトラック諸島に向かっていた第3123船団を発見し、23時55分ごろにの地点で艦首と艦尾の両発射管から魚雷を計10本発射。魚雷は特設運送船山福丸(山下汽船、4,928トン)に命中して撃沈する。日付が11月29日に変わって1時ごろに魚雷を計8本発射し、1時50分ごろにも魚雷を計6本発射。魚雷は海軍徴傭船志賀の浦丸(三菱汽船、3,512トン)に1本ずつ命中しての地点で撃沈した。第3123船団への攻撃ですべての魚雷を撃ち尽くしたスヌークは、ここで哨戒を打ち切った。12月7日、スヌークは38日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投、真珠湾に回航された。1944年1月6日、スヌークは5回目の哨戒で東シナ海に向かった。1月23日未明、スヌークはの小笠原諸島近海で1隻の大型輸送船と護衛艦を発見し、魚雷を6本発射。魚雷は特設砲艦まがね丸(日本海運、3,120トン)に2本命中してこれを撃沈。2月8日には、の草垣群島近海でモタ02船団から発せられた煙を発見し、追跡の上夜に入って攻撃に移る。の地点で魚雷を4本発射し、うち2本を陸軍輸送船白根山丸(三井船舶、4,739トン)の船首に命中させたが、白根山丸は沈没せず引き返し、これと相前後して陸軍輸送船りま丸(日本郵船、6,989トン)にも魚雷が命中して撃沈した。2時間にわたって21発の爆雷を投じられたスヌークはこれをしのぎ切り、2月9日深夜から2月10日未明にかけては、の地点で対潜掃討中の敷設艇鴎に対して魚雷を4本発射するが回避される。2月14日夜にはの対馬海峡で輸送船日徳丸(中村汽船、3,591トン)を発見し、魚雷を3本発射して1本を命中させて撃沈。翌15日にもの巨済島沖で輸送船鴎丸(日本製鐵、875トン)を発見して、魚雷を2本発射して1本を命中させ、こちらも撃沈した。2月20日、スヌークはの1隻の大型空母と2隻の駆逐艦を発見するが、19ノットの速力で航行していたため7,000ヤードまで接近するのが精いっぱいだった。ミッドウェー島に帰投途中の2月23日には、の地点で近在の僚艦プランジャー ("USS Plunger, SS-179") とともに輸送船団を発見、攻撃し、夜に入って魚雷を5本発射。この攻撃で輸送船香洋丸(東洋汽船、5,471トン)を撃沈した。3月6日、スヌークは60日間の行動を終えて真珠湾に帰投。ハンターズ・ポイント海軍造船所に回航されオーバーホールに入った。また、艦長がジョージ・H・ブローン少佐(アナポリス1934年組)に代わった。6月24日、スヌークは6回目の哨戒で日本近海に向かった。7月12日にの潮岬沖で2隻の輸送船を発見し、魚雷を4本発射して1つの命中を聴取、6,000トン級輸送船の撃破を報じた。7月27日にもの地点で2隻の小型輸送船を発見し、魚雷を6本発射したが取り逃がした。この哨戒では、この2つのもの以外に目標に対する攻撃機会はなかった。8月14日、スヌークは51日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。9月6日、スヌークは7回目の哨戒でコビア ("USS Cobia, SS-245") 、ポンフレット ("USS Pomfret, SS-391") とともにウルフパックを構成し、ルソン海峡方面に向かった。途中、9月25日にサイパン島に寄港し、整備の上10月4日に出航し担当海域に針路を向けた。10月下旬には、スヌークはルソン海峡に近づきつつあった。この頃、ルソン海峡にはドラム ("USS Drum, SS-228") 、アイスフィッシュ ("USS Icefish, SS-367") 、ソーフィッシュ ("USS Sawfish, SS-276") からなるウルフパックと、シャーク ("USS Shark, SS-314") 、シードラゴン ("USS Seadragon, SS-194") 、ブラックフィッシュ ("USS Blackfish, SS-221") からなるウルフパックが張り付いており、日本艦隊や輸送船団の動向を監視していた。10月23日夕方、折からの悪天候の中、ソーフィッシュがマタ30船団に接触し、船団最後尾の特設運送船君川丸(川崎汽船、6,863トン)を撃沈。スヌークはドラムのウルフパックに近接していたので、ともにマタ30船団への攻撃に加わることとなった。スヌークは速力を上げ、10月24日0時前後に「7,500トン級輸送船」に対して魚雷を4本発射し、2本の命中を確認する。2時10分には、「7,500トン級輸送船」と「7,500トン級タンカー」に対して魚雷を3本ずつ計6本発射し、2つの目標に魚雷がそれぞれ1本ずる命中したのを確認。間髪入れず「1,000トン級護衛艦」に対して魚雷を4本発射したが、命中した様子はなかった。5時ごろには四度目の攻撃で「大型輸送船」に対して魚雷を5本発射し、2本が命中して目標が沈没するのを確認した。スヌークの攻撃はこれで終わり、退避に移った。夕刻に浮上し、シャークとの交信を試みたが反応はなかった。2日後の10月27日未明には「2,000トン級輸送船」を発見して魚雷を3本発射し、1本が命中してものすごい煙を発しているのが確認される。スヌークは11月3日に味方パイロットを救助した後、11月18日に60日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がジョン・F・ウォーリング中佐(アナポリス1935年組)に代わった。マタ30船団攻撃でのスヌークの戦果は次のように認定された。タンカー菊水丸(拿捕船、元オランダ船イリス/三井船舶委託、3,887トン)、輸送船第一真盛丸(原商事、5,878トン)および輸送船阿里山丸(三井船舶、6,886トン)の3隻がそうで、3隻16,651トンと最も多くの戦果を挙げたとする。しかし、日本側記録とスヌークの記録を素直に信用するならば、第一真盛丸の沈没と阿里山丸の被攻撃はそれぞれ24日昼ごろと24日夕方と記録されており、一方のスヌークは5時ごろの四度目の攻撃以降はアクションを起こしていない。また、シードラゴンの戦果として認定されている陸軍徴傭船黒龍丸(大阪商船、7,369トン)の被攻撃時刻にシードラゴンがアクションを起こしておらず、ほぼ同じ時刻に「7,500トン級輸送船」に魚雷を2本命中させたスヌークこそが、黒龍丸を撃沈した真の潜水艦の可能性もある。なお、スヌークの戦時日誌記載の時刻と日本側時刻との時差は約1時間である。12月25日、スヌークは8回目の哨戒で千島列島方面に向かった。択捉島近海から占守島近海を行動したこの哨戒の間、スヌークは2隻のソ連船および1隻の小型警備艇にしか遭遇せず、小型警備艇はすぐに消え失せた。それ以外にはいかなる艦船にも遭遇せず、攻撃機会もなかった。1945年2月17日、スヌークは54日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。3月25日、スヌークは9回目の哨戒でバング ("USS Bang, SS-385") 、バーフィッシュ ("USS Burrfish, SS-312") とウルフパックを構成し東シナ海に向かったが、出撃直後に故障が発生して一旦引き返し、3月28日に再度出撃した。スヌークは気象情報を送信する任務を続けた後、4月1日にティグロン ("USS Tigrone, SS-419") と合流してパイロットの救助任務を命じられた。4月8日にスヌークは僚艦のティグロンにその位置を知らせた。その位置は7時40分現在での「ゼブラ」と称された地点だった。翌日、ティグロンから通信が行われたがそれは受信されなかった。スヌークはルソン海峡に向かったことが考えられた。4月12日にスヌークは先島諸島でイギリス第57任務部隊を救助支援する任務を割り当てられていた。しかし4月20日、第57任務部隊の司令官は、艦載機がスヌークの担当海域に着水したが、スヌークとの通信は取れなかったと報告した。スヌークはその海域を偵察し、命令を確認することを命じられていた。スヌークからの通信がなかったため、バングがスヌークと接触するため同海域に送られた。バングは到着し、漂流中のパイロットを救助したものの、他の潜水艦を確認することはできなかった。5月16日にスヌークは喪失したものと推定され、ウォーリング中佐以下84名の乗員は戦死したものとされた。スヌークの喪失原因は不明である。一時期、伊号第五六潜水艦(伊56)の雷撃が喪失原因とアメリカ側が記述したこともあったが、そのアメリカ側の記録では伊56は4月5日に撃沈されたとしており、この説はティグロンの受信記録を踏まえると矛盾があって現実的ではない。日本側の記録と照らし合わせると、第九五一海軍航空隊の水上偵察機が4月9日に潜水艦を攻撃している記録と、4月14日に舟山群島付近で対潜戦闘を実施した海防艦沖縄、第8号海防艦、第32号海防艦、第52号海防艦の記録が、スヌークの喪失原因として有力視されている。しかしながら、どちらの攻撃がスヌークを葬ったかを断定するには至っていない。スヌークはその2年半の現役任務の間に17隻の敵艦を撃沈した。スヌークは第二次世界大戦の戦功で7個の従軍星章を受章した。

出典:wikipedia

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