ミシェル・ステー(Michel Soutter、1932年6月2日 ジュネーヴ - 1991年9月10日 ジュネーヴ)は、スイスの映画監督である。1932年6月2日、スイス・レマン湖畔ジュネーヴに生まれる。最初は、スイスのジュネーヴとフランスのパリで、地下キャヴァレーの作家兼作曲家兼通訳であった。1961年にテレヴィジオン・スイス・ロマンド()の演出部に入り、演出助手として働いたのちに、1964年に演出家として一本立ちした。映画においては、1966年、34歳のときに『"La Lune avec les dents"(歯の生えた月)』で長篇映画デビュー。その後、 テレビ局TSRで出会った仲間のアラン・タネールとクロード・ゴレッタとともに、「ヌーヴォー・シネマ・スイス」の主要三人組を構成し、ジャン=ルイ・ロワ、ジャン=ジャック・ラグランジュとともに、1968年、「グループ5 "Le Groupe 5"」となった。1974年、第27回カンヌ国際映画祭の審査員になり、『"James ou pas"(ジェームズか否か)』が1970年第23回カンヌ国際映画祭パラレルセクション、『"Les arpenteurs"(測量士)』が1972年第25回カンヌ国際映画祭コンペティション部門でそれぞれ上映された。1991年の第44回カンヌ国際映画祭では特別招待作品として、ローザンヌの映画史家フレディ・ビュアシュ、映画監督のジャクリーヌ・ヴーヴとマルクス・インホフとともに共同脚本・共同監督として名を連ねた『"Le film du cinéma suisse" 』が上映された。1985年の『Signé Renart(契約されたルナール)』では、共同脚本にジャン=リュック・ゴダールの公私にわたるパートナー、アンヌ=マリー・ミエヴィルを起用し、撮影監督にも、ゴダール監督の『フレディ・ビュアシュへの手紙』(1981年)でデビュー、『カルメンという名の女』(1983年)でもカメラを持ったジャン=ベルナール・ムヌーを初めて起用した。アラン・タネール作品、ダニエル・シュミット作品の常連で、ゴダール監督の『勝手に逃げろ/人生』(1979年)の録音技師リュック・イェルサンも初起用であった。1991年9月10日、ジュネーヴで癌のため死去。。死後ちょうど10年の2001年9月6日、フレディ・ビュアシュが『"Michel Soutter"』(L'Age d'Homme刊、205 p. ISBN 282511510X)を執筆、出版した。ダニエル・シュミット同様オペラの演出もこなしたが、日本ではいまだに一本たりとも劇場公開されていない映画作家である。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。