LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

駒橋 (潜水母艦)

駒橋(こまはし)は、日本海軍の潜水母艦。当初は運送船として計画され、1914年(大正3年)に雑役船「駒橋丸」として竣工した。しかし直後に潜水母艦として使用されることとなった。当時まだ潜水母艦の類別が無かったため二等海防艦に類別され、艦名も「駒橋」となった。日本海軍最初の潜水戦隊(第4潜水戦隊)の母艦となり、大正期は韓崎とともに潜水母艦として運用された。しかし艦型が小型だったため元々母艦任務には適しておらず、1924年(大正13年)に潜水母艦に類別変更はされたが、それ以降は馬公を基地とした測量任務に就いている。1932年(昭和7年)の改装の際に測量艦として整備され、その後は南洋群島や北方海域での測量、警備任務に当たった。大戦中はアリューシャン方面の測量のほかは、日本近海、特に横須賀鎮守府管轄の由良内・横須賀・室蘭間船団の直接・間接護衛任務に従事した。1944年(昭和19年)に入り尾鷲を基地とした対潜掃討部隊の旗艦となったが、終戦直前の1945年(昭和20年)7月28日に同地で敵機の攻撃を受け損傷浸水し着底、そのまま終戦を迎えた。なお、この「駒橋」に取り付けられていた「菊の御紋」は、尾鷲市にある曹洞宗金剛寺に保管されている。大日本帝国海軍の軍艦に取り付けられていた菊の御紋で現存しているものは、本艦を含め7例のみである。本艦は1932年(昭和7年)に測量艦として整備された。また同時に老朽化した主機をディーゼルと交換した。その時点での要目は以下の通り。この項は『海軍艦艇史 3』による。公試成績が悪く(計画1,800馬力のところが1,200馬力弱)、翌年にディーゼルを修理した。この時ラ式ディーゼルから池貝ディーゼルに交換した可能性もある。駒橋に関する文献やサイトの中には、「特務艦(測量艦)に類別変更された」という記述が現れる。一方で、『写真 日本の軍艦 第13巻』93ページには「類別上は最後まで潜水母艦のままであったとするのが正しいようである。」とある。しかし、前者に関してみると、転籍日とされる1942年7月20日には、確かにこの日、海軍大臣から鎮守府、艦隊、警備府の各長官に宛てて官房機密第二九三番電が発信されているが、その中の第三項には「三. 勝力ヲ軍艦籍ヨリ」と、同じ日に測量艦に転籍した勝力とは違って駒橋の名前はない。一方、後者に関してみると、第二復員局が終戦後に編纂した「「阪復」三重県区内接収関係引渡目録」のうちの「艦艇目録」によれば、駒橋の艦種は「軍艦」であってその他の艦種にはなっていない。海軍省が作製した「艦艇類別等級(別表)」では、駒橋は最後まで潜水母艦の欄にあり、その後の内令や達号でも帝国軍艦籍を離脱させるものは出ていない。さらに駒橋が空襲で大破着底した翌日の1945年7月29日、駒橋艦首の菊花紋章が取り外されて尾鷲市内の寺に収容されていること、8月1日付内令第697号による予備艦指定では軍艦籍にある他艦と同様第四予備艦に定められており、文書と物品の2つの面で駒橋が昭和17年7月20日以降も帝国軍艦籍のままであったことが確認できる。軍艦籍にある艦艇が特務艦的な用途に使用された例としては、太平洋戦争中の水上機母艦能登呂があり、駒橋の場合も上に掲げた数少ない文献を見る限りでは、能登呂同様、軍艦籍にありながら特務艦的な用途で使用されていたものと考えられ、この点では水上機母艦から特務艦に戻った神威とは対照的な例となっている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。