本多 忠寛(ほんだ ただひろ)は、三河西端藩の初代藩主。天保3年(1832年)、9000石の大身旗本である本多忠興の次男として江戸で生まれる。兄の万之助が早世したために世子となり、嘉永5年(1852年)に家督を継いで旗本となった。元治元年(1864年)の天狗党の乱に出兵し、さらに江戸警備などで功績を挙げたことから、12月23日に伊豆田方郡・賀茂郡6か村などで1100石の加増を受け、高直しで1万500石の大名として取り立てられ、西端藩主となった。しかし旗本時代から財政が苦しく、嘉永6年(1853年)の時点で1万5000両の借金があった。このため、財政再建と称して慶応元年(1865年)から慶応2年(1866年)にかけて御用金を厳しく取り立て、藩札も発行するなど悪政を行なっている。慶応3年(1867年)5月20日、病気を理由に家督を長男の忠鵬に譲って隠居した。明治14年(1881年)に死去、享年50。
出典:wikipedia
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