初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ(, 、1592年8月28日 - 1628年8月23日)は、イングランドの政治家、貴族。ステュアート朝初代国王ジェームズ1世と第2代国王チャールズ1世の2代にわたって重臣として仕え、イングランドの国政を主導、海軍卿(在職:1619年 - 1628年)等の官職を歴任した。はじめ議会やプロテスタント勢力から人気のある政治家だったが、三十年戦争での敗戦が続いたため、批判を受けることが多くなり、1628年には議会から突き付けられた「権利の請願」を受け入れることを余儀なくされ、課税には議会の同意が必要であることや臣民の自由を侵害してはならないことを政府として再確認した。同年に暗殺された。1592年8月28日、と2番目の妻(旧姓ボーモント)の三男としてレスターシャーのに生まれる。ヴィリアーズ家はフランス系の中産階級だった。13歳の時に父が死去した。母は幼少期からジョージを廷臣にしたがっており、剣術とダンスを習わせ、フランスへ留学させたりしている。1614年にロンドンへ帰国した際、国王ジェームズ1世の引見を受けたが、それをきっかけに王の寵愛を得るようになり、以降として宮仕えするようになった。1615年にはに任じられるとともにナイトに叙される。1616年には北トレントの(在職:1616年 - 1619年)、(在職:1616年 - 1628年)や(在職:1616年 - 1628年)などの官職を得る。また同年、ガーター勲章を受勲し、ヴィリアーズ子爵とに叙された。1617年には枢密顧問官(PC)に列し、バッキンガム伯爵に叙される。1618年にはバッキンガム侯爵に叙される。1619年には海軍卿や南トレントの巡回裁判官となる。以降、海軍卿を主任務としつつ、内政や外交などあらゆる分野に影響力を及ぼすようになった。このヴィリアーズの短期間での急速な昇進の背景には国王の寵愛だけではなく、やペンブルック伯ウィリアム・ハーバートら宮中内の改革派(プロテスタント強硬派)による後押しがあった。1610年に財政改革案「大契約」が議会から否決されて以降、王庫の財政は危機的状況に瀕していた。1614年に議会が再招集され、政府は議員買収や派閥工作などで議会懐柔に努めたが、国王秘書長官ウィンウッドが議会対策に不慣れなうえ、政府内でも財政改革案について意見が分裂していたため、政府と議会の和解は難しい情勢になっていた。そうした中でジェームズ1世が、財政援助(持参金)を受けるためだけにスペイン王室との婚姻に動く恐れがあり、それを恐れたプロテスタント強硬派が、国王を抑える人物としてヴィリアーズを昇進させようとしたのである。ヴィリアーズはその期待にこたえ、国王をサフォーク伯トマス・ハワードら親スペイン派から引き離したばかりか、1618年にはサフォーク伯を失脚にまで追い込んでいる。ジェームズ1世は、ヨーロッパ大陸で発生した三十年戦争への参戦に消極的だったが、スペインに占領されたプファルツの原状回復には前向きだった。しかし1621年に召集された議会はその費用を認めなかったので実施は不可能だった。そんな中皇太子チャールズ(後のチャールズ1世)は自分とスペイン王女マリアの婚約話を進めることで、持参金としてプファルツ回復をスペイン王フェリペ3世に認めさせることを考えた。バッキンガム侯も次期国王への影響力を確保しようという意図からチャールズのこの構想を支持した。1623年2月、チャールズ皇太子とバッキンガム侯は国王に相談することもなく独断でスペイン・マドリードへ渡った。2人は半年間マドリードに滞在してスペインと交渉にあたったが、スペイン側からはチャールズ皇太子のカトリック改宗とイングランドの反カトリック法撤廃を要求されたため、交渉は頓挫した。プファルツ回復を持参金とする確約も得られず、2人は何の成果の無いまま9月に帰国の途に就いた。しかしこのスペイン訪問でバッキンガム公はスペインの狙いがイングランドとの交渉を長引かせてイングランドを三十年戦争の枠外に置いておくことだと見抜いた。そのためこれ以降のバッキンガムは反スペイン派の筆頭に転じた。スペイン滞在中の1623年5月にバッキンガム公爵に叙されている。1624年2月に召集された議会において、バッキンガム公は反スペイン派の英雄として称賛された。議会は用途をスペインとの戦争に限るという条件付きで30万ポンドの課税を許可した。ただ議会の多数派はエリザベス時代と同じく対カトリック戦争を想定し、戦術も私掠船による海上決戦を志向したのに対し、バッキンガム公はあくまでプファルツ回復とハプスブルク君主国拡大阻止のみを目的とし、そのためにはプロテスタント諸国だけではなくカトリックのフランスとも同盟を結ぶ必要があると考えていた。もっとも今会期の議会の最大の焦点は外交問題ではなく、大蔵卿の財政改革への批判であった。宮廷内の最大派閥の指導者となっていたバッキンガム公も今や既得権益を守る立場に転じ、財政改革に否定的になっていたため、議会のミドルセックス伯爵糾弾に加わった。国王はミドルセックス伯爵を擁護したが、それもむなしく、伯爵は収賄罪を犯したとされてロンドン塔へ幽閉され、失脚した。これについて国王は「スティーニー(バッキンガム公の渾名)よ、お前は何と言う馬鹿者だ。お前はすぐにこの愚行を後悔する時が来るだろう。人気に溺れてお前は将来自分を叩く鞭を自分でこしらえたのだ」とつぶやいたという。1624年中にチャールズ皇太子とフランス王女(アンリ4世の娘でルイ13世の妹)アンリエットの婚約を成立させ、フランスがスペインとの戦争に協力する見返りにイングランドの反カトリック法を緩和することを約束した。ところが、反スペイン機運の高まるイングランドでは逆にカトリックを弾圧すべきとの意見が強まっていたため、反カトリック法緩和を議会に認めさせるのは不可能であった。バッキンガム公は止む無くチャールズの家庭内だけでカトリックに寛容な態度を取るということで妥協を図ろうとしたが、これをきっかけに二枚舌と批判されるようになり、バッキンガム公人気が低下しはじめた。おまけに1624年末に英仏軍事同盟の締結に伴って大陸へ派遣された遠征軍も疫病で自滅したため英仏同盟も不安定になっていった。ジェームズ1世が亡くなりチャールズ1世が即位した2ヶ月後の1625年5月にバッキンガム公はアンリエットを迎えに訪仏したが、フランス王ルイ13世はもはや英仏同盟に乗り気ではなくなっていたらしく、祝典を欠席している。またこの訪仏の際にバッキンガム公は、ルイ13世の不在をいいことにフランス王妃アンヌと恋愛騒動を起こして問題となった。1625年3月に即位したチャールズ1世のもとでも寵臣として権勢をふるい続けたが、同年6月に召集された議会では税制問題やプファルツ奪還作戦の失敗、国王がアルミニウス主義を奉じていることなどについて宮廷(特にその中心人物であるバッキンガム公)批判が高まった。バッキンガム公はそうした批判を懐柔しようと、10月に議会が志向するスペインとの海上決戦を目指してカディス遠征を実施したが敗北した。これはバッキンガム公の無能さというより、軍艦の技術が高くなりすぎて武装商船では対抗できなくなっていたことが原因だった。つまり議会が志向する海上決戦の構想自体がもともと無理があったのだが、議会はそれを斟酌せず、バッキンガム公批判を強めた。また当時のイングランドではフランスがイングランドから借りた軍艦をユグノー弾圧に使ったために反仏世論が高まっていた。国王とバッキンガム公もフランスがスペインと積極的に戦おうとしないことに苛立っていたので1625年末に至って外交方針を転換し、オランダと同盟を結んでフランスのユグノーを援助することを決定した。国王とバッキンガム公はこの方針ならプロテスタント強硬論に立つ議会多数派から支持が得られると踏んでいたが、翌1626年2月に召集された議会は完全に反バッキンガム公ムードに傾いており、かつてはバッキンガム公支持派だった議員の主導で大々的なバッキンガム公批判を展開した。結局、チャールズ1世とバッキンガム公は目的を達成できないまま議会を解散することになり、国王と国民代表の距離が広がっていることを顕在化させただけに終わった。1627年3月にフランスがスペインと和解し、国内のユグノー弾圧を強化するようになった。これに反発したバッキンガム公は同年6月からフランスの都市ラ・ロシェルのプロテスタントを支援すべく出兵したが、フランス軍にサンマルタン要塞に籠城され、イングランド軍はそこを陥落させられず、11月に撤退に追い込まれた(ラ・ロシェル包囲戦)。この惨敗によりバッキンガム公批判が一層激しくなった。財政は苦しくなる一方で1627年末にはこれ以上の戦争継続が困難となった。政府は強制借り上げ金徴収と軍隊宿泊強制で乗り切ろうとしたが、この処置は「議会の同意のない私有財産権侵害」と批判されて反対運動を巻き起こした。政府は反対運動を主導した者を逮捕したが、裁判所は裁判の中で国王による強制借り上げ金を合法とは認めなかった。これに不満を抱いた法務次官が判決を勝手に改竄して裁判所が強制借り上げを合法と判決したかのように見せかけた。1628年3月に召集された議会は、法務次官による判決の改竄に驚愕し、「イングランド人の自由が恣意的課税・恣意的逮捕によって脅かされようとしている」と批判し、改めて臣民の自由を確認する法律の制定が必要との認識を強めた。財政的困窮を深める国王とバッキンガム公としては議会と対立するわけにはいかず、特別税を議会が承認することと引き換えに議会が求める「権利の請願」を認めることとなった。「権利の請願」は、議会の同意なき課税の禁止、恣意的逮捕からの臣民の自由、軍隊強制宿泊の禁止、民間人への軍法適用禁止などを内容とする。内容的にはすでに明文化されていた臣民の権利の再確認に過ぎなかったが、臣民からは広く歓迎され、ロンドンではお祭り騒ぎになったという。「権利の請願」を認めたことで議会から多額の補助金を手に入れたバッキンガム公は再びラ・ロシェル遠征を開始しようとしたが、1628年11月27日にポーツマスで遠征準備中に海軍軍人(陸軍中尉?)に暗殺された。バッキンガム公の遺体はウェストミンスター寺院に埋葬された。バッキンガム公の死後、チャールズ1世は1629年にフランス、1630年にスペインと和睦して三十年戦争から離脱したが、チャールズ1世は有能な側近を持つことなく親政を開始し、王妃やその取り巻きに頼って現実的な政治から遠ざかるようになり、最終的には議会との対立が激化してピューリタン革命で処刑されることになる。1620年に第6代ラトランド伯爵の娘と結婚し、彼女との間に以下の4子を儲けた。ヴィリアーズ家はバッキンガム公以外にも栄達した人物が多く、同母弟クリストファーはアングルシー伯に叙任、異母兄エドワードの孫で又姪に当たるバーバラ・パーマーはチャールズ2世の愛人の1人として権勢を振るいクリーヴランド公に叙爵された。バーバラの従弟エドワードはジャージー伯に叙任、エドワードの妹エリザベスはチャールズ2世の甥ウィリアム3世の愛人となった末に遠縁のオークニ-伯ジョージ・ダグラス=ハミルトン(同母姉スーザンの曾孫)と結婚、ジョージは後にイギリスの陸軍元帥になった。1620年代、ヴィリアーズはヨーク・ハウスという邸宅を所有していた。この建物はイングランド内戦後も残り、長男で同名の第2代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズにより1672年に3万ポンドで売り払われた。この周辺には、バッキンガム公にちなんでジョージ通り、ヴィリアーズ通り、デューク通り、バッキンガム通りという地名が残った。スペインとの外交で露見したように、バッキンガム公は横柄で傲慢な性格であった。彼の肖像画を描いたルーベンスはこう評している。「気まぐれで傲慢なバッキンガム公のことを考えると、若い王(チャールズ1世)が気の毒でなりません。とんでもない助言者のおかげで、彼の王国はまっしぐらに破滅に向かおうとしているのです」(タッシェン:ニューベーシック・アートシリーズ「ルーベンス」より)
出典:wikipedia
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