詫間海軍航空隊(たくまかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。当初は水上機の実機練習部隊として訓練に従事していたが、沖縄戦に備えて飛行艇実施部隊・特攻作戦基地として偵察・攻撃に従事した。本稿では、詫間空の分遣隊として設置され、のちに独立した西条海軍航空隊(さいじょうかいぐんこうくうたい)・天草海軍航空隊(あまくさかいぐんこうくうたい)についても述べる。太平洋戦争開戦とともに、航空要員の大量養成を図るために、実用機を用いた実機練習航空隊を急造した。1943年(昭和18年)2月には、横須賀鎮守府と呉鎮守府が統率する3個練習連合航空隊を統括する「連合練習航空総隊」が編制された。この一連の増強計画の中に、呉鎮守府第12連合航空隊所属の水上機実機練習航空隊の一つとして、香川県三豊郡詫間に設置されたのが詫間空である。詫間空では12機の水上偵察機とともに、48機もの練習飛行艇を備え、飛行艇搭乗員の重要な養成施設となった。詫間空跡地には、香川高等専門学校詫間キャンパスや三豊市立詫間中学校、その他企業が建設されている。詫間空時代の構造物としては、滑水スリップが現存している。また、現存する唯一の二式飛行艇は、詫間空に残されていた残存機のうちの一機(詫間31号機)である。1944年3月15日 詫間海軍航空隊西条分遣隊として開隊。分遣隊長には、愛媛航空機乗員養成所長の室井留雄中佐(兵 39応召)が兼任した。飛行長兼飛行隊長は野村親正少佐。任務は陸上練習機による操縦専修生教育1944年5月25日三重空より特乙4期生入隊(第38期飛行練習生)1944年9月20日土浦空より甲飛13期2次生79名が入隊(飛練41期)1944年12月28日特乙4期生、練習機教程を終業1945年1月20日分遣隊長に、大阪警備府附海軍大佐(兵37応召)小橋義亮発令1945年1月25日三重空奈良分遣隊より甲飛13期2次生140名が入隊(飛練41期)1945年3月1日西条海軍航空隊に改編1945年3月19日アメリカ軍艦載機の攻撃を受ける。1945年4月教員、特乙4期生で特別攻撃隊2隊を編成。1945年6月20日司令に、佐世保鎮守府参謀海軍大佐土井美二(兵50)発令1945年6月特別攻撃隊、大分県宇佐基地(指揮官・野村少佐 50機)と鹿児島県岩川基地(指揮官・今井隆久大尉 50機)へ進出。愛知県の第三岡崎航空隊より、中練特攻隊が西条基地に進出。1945年8月8日西条航空隊(甲航空隊 司令・土井大佐)と内海航空隊西条基地隊(乙航空隊 指揮官・柏屋特務少佐)に空地分離が行われる。使用されていた格納庫の1棟が戦後、日本国有鉄道に譲渡の上多度津工場に移築され、現在も会食所として使用されており、2012年には国の登録有形文化財に登録されている。1944年(昭和19年)4月1日に詫間空の分遣隊として、熊本県天草郡佐伊津村に設置された。8月15日をもって博多海軍航空隊に移管された。昭和20年3月1日に独立し、水上機訓練を継続したが、最終的に実施部隊へ転換され、特攻作戦に3度参加した。司令は山下深志予備役大佐が分遣隊長から横滑りしたが、4月1日より室田勇次郎大佐に交代し、解隊まで統率した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。