中沢 啓治(なかざわ けいじ、本名同じ。1939年(昭和14年)3月14日 - 2012年(平成24年)12月19日)は、日本の漫画家。代表作に『はだしのゲン』等、広島市への原子爆弾投下による自身の被爆体験を元に、戦争・平和を題材とした作品を数多く発表している。代々漆塗りを生業としていた家に、4男1女の5人きょうだいの下から2番目として出生した。広島県広島市舟入本町(現在の広島市中区舟入本町)に生まれ育つ。父は日本画家、蒔絵師で、演劇活動にも参加。反戦主義者のため、思想犯として特別高等警察により連行され1年2ヶ月拘置。拷問を受けた人物だったという。1945年(昭和20年)8月6日、広島市立神崎国民学校(現在の広島市立神崎小学校)1年生だった時に広島で被爆した。友達の母親に呼び止められて自身は建物の塀の影に入って熱線を浴びずに奇跡的に助かるが、父、姉、末弟の3人を失った。次いで原爆投下当日に生まれた妹も4ヶ月半後に死亡。これらは『はだしのゲン』の原爆投下時のエピソードとほぼ同じである。終戦後に手塚治虫の『新宝島』を読んで感動し、漫画を描き始める。広島市立江波中学校在学中は『漫画少年』などへの投稿に熱中。やがて漫画家になることを決意する。中学卒業後に看板屋に就職し、そこで当時の中卒最高額の給料を貰った。看板や勤務の傍ら、夜は漫画を執筆し、日曜の休みに三本立ての映画を見る生活の中、漫画の投稿を何度も行い『おもしろブック』に時代劇の読み切り漫画が入選した。掲載されたのは表紙のカットのみだったが初めて原稿料をもらう。上京した際に相談した出版社の編集者にプロになることを勧められ、紹介してもらった一峰大二のアシスタントになるため1961年2月に上京。山手線日暮里駅のそばのアパートに住んだ。1962年、『少年画報』に「スパーク1」でデビューし、アシスタントを続けながら1年間連載した。やり直すために辻なおきのアシスタントになり、『週刊少年キング』では「宇宙ジラフ」を3ヶ月連載。その後も一峰と辻のアシスタントで生活をしながら、『冒険王』『まんが王』『少年』『ぼくら』『週刊少年サンデー』などに読み切り作品を発表した。1966年2月、看板屋時代の仲間に紹介された女性と結婚、翌年1月に娘をもうけた。上京当初は周囲の原爆被爆者に対する差別の視線から、もう二度と原爆と言う言葉を口にすまいと決心し、自らが被爆した過去を語りたがらず、専ら少年向け漫画誌に原爆とは無縁の漫画を描いていた。転機となったのは1966年(昭和41年)の母の死で、広島に戻り火葬した際に放射能のために母の骨がすべて灰となり遺骨がひとかけらも残らなかった事に強い憤りを覚え、火葬前にアメリカのABCC(原爆傷害調査委員会)に母の遺体の解剖を迫った。これを機に原爆という言葉から逃げ回るのでなく、漫画の世界で戦うと決意した。初めて原爆を題材とした漫画「黒い雨にうたれて」を描き、完成した原稿を各出版社に持ち込むが、1年ほどの間、どこの出版社からも掲載を断られた。その間に生まれた娘の養育費を稼ぐため、テレビ番組や映画などのコミカライズを描いて過ごした。1968年になって、持ち込んだ芳文社の『漫画パンチ』で一読して感動した編集長の理解により、描き上げてから2年の時を経てようやく5月に掲載された。他の漫画家や他社の編集者からの「黒い雨にうたれて」の好評を得て、編集長からの依頼で「黒い川の流れに」「黒い沈黙の果てに」「黒い鳩の群れに」といった“黒いシリーズ”を描いた。『はだしのゲン』は、中沢が33歳の時に1972年10月の『月刊少年ジャンプ』で各漫画家の自伝を掲載するという企画がきっかけで誕生した。中沢の自伝漫画『おれは見た』に感動した『週刊少年ジャンプ』編集長の長野規にこれを下敷きにした長期連載を勧められて始まったものである。1973年6月から1年半『週刊少年ジャンプ』で連載された。広島の原爆で父、姉、弟を失った主人公の少年、中岡元(なかおか げん)がたくましく生きる姿を描いている。主人公の元の姉と妹の名前は中沢自身の姉と妹の名前をそのまま使用しているなど自伝的要素が強い。連載中の人気は高くなかったものの、1975年の自身初の単行本とともに『朝日新聞』の社会面で報道されたことをきっかけにマスメディアで取り上げられて、爆発的な売れ行きとなった。その後も掲載誌を変えながら『はだしのゲン』の続きが描かれ、1985年に第一部完結で未完となっている。10数ヶ国語に翻訳され、単行本は累計で1千万部を越える代表作となった。『はだしのゲン』は1976年に映画化され、その後三部作となったが被曝シーンは実写では表現が困難だったことから、1983年に製作費を調達して自らの手でアニメ化も行った。翌1984年にも自作『黒い雨にうたれて』のアニメ映画を製作。1999年には実写映画『お好み八ちゃん』を製作し、初の映画監督も務めた。2001年(平成13年)頃から患っていた糖尿病による、左目の網膜症と右目の白内障で視力が低下したため執筆活動からは遠ざかって行った。2002年(平成14年)、第14回谷本清平和賞を受賞する。2004年(平成16年)、アングレーム国際漫画祭環境保護に関する最優秀コミック賞を受賞する。2008年に肺癌が発見され手術を行った。その後も肺炎や心臓病でペースメーカーを入れるなどして入退院は3度にわたった。読者からの要望に応える形で太田出版からの依頼で『はだしのゲン 第二部 東京編』の連載を決意し、32ページのネームまで出来たところで、眼底出血により中断、周囲に迷惑をかけることを気にして連載は断念しその後のゲンは読者の想像に委ねるとした。2009年1月に白内障の手術を行うも、網膜症と白内障で細かい絵が描けず体調も芳しくないことから、同年9月14日に正式に漫画家の引退を表明した。同年12月8日、かねてから『はだしのゲン』の原稿を寄託していた広島平和記念資料館へ、現存する全ての漫画原画や『はだしのゲン 第二部』のネームなどをに寄贈すると報じられた。2011年(平成23年)8月、自身の生い立ちを語ったドキュメンタリー映画『はだしのゲンがみたヒロシマ』が公開された。2012年(平成24年)12月19日午後2時10分、肺がんのため広島市民病院で死去した。73歳没。亡くなる直前には「好きなマンガを描いて、食べていけたんだから、こんな幸せなことはない。『ゲン』は俺が死んでも残る。『ゲン』が世代を超えて歩んでいってくれれば、それだけでいい」と語っていたという。21日に、本人の意向で家族葬を行った。死去の事実は同月25日に明らかになった。中沢の母の遺骨が残っていなかった経緯から、自伝『はだしのゲン わたしの遺書』の担当編集者が中沢の遺体を火葬した際に「骨はありましたか?」と尋ねたが、中沢の妻・ミサヨは「普通は遺骨を見ると悲しくなるんでしょうけど、私は反対に骨太のしっかりした骨が残っていて、うれしくなりました」と述べた。熱狂的な広島東洋カープファンであり、代表作である『はだしのゲン』にもカープが登場するほか、カープをテーマにした『広島カープ誕生物語』などの作品がある。『はだしのゲン』や『広島カープ誕生物語』には球団草創期における熱狂的なカープファンの常軌を逸した様子も描かれている。中沢は球場観戦も好きで、よく妻をカープ観戦に連れて行っており、カープ見たさに甲子園球場に出向くほどだった。そんな中沢の影響で結婚するまでカープに興味がなかった妻・ミサヨも、一緒にラジオを聴いたり観戦するうちにファンになっていった。2011年8月にマツダスタジアムで「ピースナイター」として開催されたカープ対巨人戦では始球式を務めている。中沢は「カープのグラウンドで始球式できるとは夢にも思わなかった。こういうとき(東日本大震災発生から間もない、2011年8月)に野球をやると不謹慎と言われるけど、平和だからできることを喜ばないと」と語っている。被爆者でありながら悲惨な被爆体験のため2010年(平成22年)まで広島市主催の平和記念式典に出た事はなかった。「原爆に触れるのが嫌だった。(慰霊の日)8時15分が迫ると気分が重い。逃げ回った姿が蘇る」と述べている。広島平和記念式典については、やらないよりはやった方がいいとは思ったが、被爆体験への忌まわしさと戦争責任を追及しない内容に「あんな白々しい式典で、あの原爆地獄の苦しみと怒りと、悲しみが、鎮められるかっ」と中沢自身は参加したことはなかった。しかし広島市から招待され、2011年に「今生の別れのつもりで」と初めて出席した。中沢の漫画は、妻に手伝ってもらう他には一人で描いていた。これは中沢がアシスタントを雇って作業する方法を嫌っており、自分一人で描くというポリシーを持っているためである(ただし週刊誌連載時には、2人のアシスタントに手伝ってもらっていた)。そういった中沢のこだわりもあり、違う職業の人としか顔を合わせないこともある。理由は、原爆漫画家と同業者からレッテルを貼られていることが不快で、自分の顔を見られることが嫌だからと語っていた。国家元首だった昭和天皇の戦争責任を主張しているため、戦後も昭和天皇を激しく批判し、昭和時代は天皇制の廃止を強固に求めていた。戦後も戦争責任を取らず退位もしなかった天皇に対する中沢の怒りは、一切の妥協を許さないまでに厳しく、広島に行幸した天皇をさして『人間の神経をもたない冷血人間』『厚顔破廉恥な野郎』と評するほどであった。中沢いわく、「天皇や軍部はポツダム宣言を無視し、その結果、広島・長崎で多くの人が亡くなった。なのに戦後、天皇が広島に来た時には日の丸を振るように学校で言われた。なぜ万歳なのか。今でも腹の中が煮えくり返る思いがある。日本人は甘いと思う」、「天皇ヒロヒトと皇族を助けるために広島と長崎は犠牲にされたのだ」。また日本の戦争責任者の昭和天皇が生き延びた事がイタリアの戦争責任者のベニート・ムッソリーニが逆さ吊りにされてイタリア国民に石を投げつけられる末路と正反対である事を比較している。しかし中沢は作中で天皇制批判を描いても嫌がらせがなく拍子に抜けたと言い、自伝や週刊誌や新聞で天皇制批判を載せている。『はだしのゲンへの手紙』では読者に「天皇は憎いですか?」という質問に対し、「天皇の名によってアジアで2000万人、日本では300万人も殺された、私は天皇が憎い」と返答しており、『はだしのゲン 自伝』で沖縄に米軍駐留を申し出た天皇に対して激しい怒りを露わにしているものの、(『はだしのゲンへの手紙』で)1975年(昭和50年)の日本記者クラブで秋信利彦(中国放送記者)の質問の返答で昭和天皇が「戦争中の事だからやむを得ない」と失言した事に対しては悪意がないためか激しい批判は描かず「被爆者に対して土下座して謝って欲しかった」と述べている。原爆投下の当事者のアメリカに対し怒りを持っており、原爆投下をしたアメリカにはナチスドイツのホロコーストを批判する資格はないと述べている。アメリカの原爆投下について『黒い雨にうたれて』では「勝てば官軍、負ければ賊軍、でも勝手すぎる」『はだしのゲン』では「喧嘩両成敗」と主張している。ただし、アメリカの国力と文化に対しては敬意を示しており、ウォルト・ディズニーの白雪姫が戦前のカラー映画である事に気が付き舌を巻いたと言う。またアメリカに訪問しており、ダラスでアニメ『はだしのゲン』の上映を見たり、エノラ・ゲイが展示されているスミソニアン博物館を見学し、ニューメキシコとネバダの核実験場、テニアン島を訪れている。原爆不要論を唱えるピーター・カズニック歴史学教授とも交流がある。中沢は常に「真珠湾を忘れるな」と原爆投下を正当化するアメリカに対して戦争と核兵器の恐ろしさを知って欲しいと訴えており、アメリカの児童やオバマ大統領とその子女に英語版『はだしのゲン』を読んで欲しいと述べ、実際に贈与しているが、実際には届かなかったようである。「原爆しょうがない」発言で辞任した、久間章生に対して「恥ずかしくて大臣を続けていられなかったんでしょ。『はだしのゲン』でも読んでほしいね」と、皮肉たっぷりに述べた。日朝関係に対しては、日本統治時代の植民地支配を批判し、朝鮮に対し贖罪意識を持っており、朝鮮語版『はだしのゲン』を北朝鮮に持ち込みたいと述べている。2002年には初めて韓国を訪ね、ソウル中心部の仁寺洞で記者会見を行った。日中関係に対しては平和交流を期待しており、「日本人が被害者ぶるのではなく他の国で何をしたのかも知っておく必要がある。南京虐殺の資料が出てくると、なんと日本人が酷い事をしたのかというのが出てくる。申し訳ない気持ちでいっぱいになります。」と述べている。ソビエト連邦が当時構成国だったカザフスタンのセミパラチンスク核実験場で、核実験を行ったことを批判している。反戦漫画家のイメージが強いが、『超艦不死身』等の戦記漫画も執筆している。また、原爆を題材にした漫画の他、『グズ六行進曲』『お好み八ちゃん』など、主人公が一人前の職人や調理師等を目指して努力する「仕事シリーズ」や、『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』等の怪獣映画のコミカライズも多数手掛けている。『はだしのゲン』を除いては短編漫画が多く、一部作品は連載が打ち切りになるなどの憂き目にも遭ったが、ほぼ全ての作品は汐文社によって『平和マンガシリーズ』『仕事の詩シリーズ』としてまとまっている。またほるぷ出版も図書館向けに同様のシリーズを刊行している。ほか多数
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。