国鉄DD13形ディーゼル機関車(こくてつDD13がたディーゼルきかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が製造した入換用液体式ディーゼル機関車である。ヤード構内での車両入換作業に用いることを主目的として開発された機関車である。本形式が製造される以前、車両の入換作業には明治・大正時代から戦前にかけて製造されたB6形や、9600形、8620形等の古豪蒸気機関車が使用されていたが、都市部では煤煙による周辺環境への悪影響が、国鉄部内でも機関車自体の老朽化、動力費と人件費の増加などが問題視され始めていた。しかし、その当時、国鉄が保有していた入換用ディーゼル機関車は、DD11形およびDD12形(アメリカ製)の10数両のみで、それらはいずれも出力は300ps級にとどまっており、ヤード構内での入換には力不足であった。そこで、動力近代化計画の一環としてDD11形より出力を増強し、入換用として適切な出力を備えたディーゼル機関車が計画された。こうして1958年(昭和33年)から製造されたのが本形式である。入換のほか、支線などでの小運転に用いることも想定された。蒸気機関車を置き換える入換機関車の決定版として量産されたが、規模の大きなヤードで使用するには不向きであること、軸重が14tとローカル線(丙線)での運用には大き過ぎるうえ、客車暖房用の蒸気発生装置を持たないという欠点もあり、DD20形の試作を経て、1966年にこれらを解消したDE10形や、これを基に入換用途に特化したDE11形が開発されたことから、1967年(昭和42年)をもって製造が中止された。(なお、私鉄や臨海鉄道向けには、その後も同類機が継続的に製造された。→後述)外観はDD11形およびDD12形と同様に、2台のエンジンの間に運転室を設けた凸形のセンターキャブ形状である。ディーゼルエンジンは、1937年(昭和12年)に試作されたキハ43000形電気式気動車用 DMF31H(横型 = 水平シリンダー、直列6気筒、排気量31リットル、渦流室式。連続定格出力240ps/1,300rpm)をベースに、国鉄・新潟鐵工所・振興造機・ダイハツ工業で共同開発したDMF31S形(縦型 = 直立シリンダー、直列6気筒、排気量31リットル、予燃焼式、連続定格出力370ps/1,300rpm)を2基搭載する。変速機は液体式で、振興造機が開発した変速2段、直結1段のリスホルム・スミス式シンコー DS1.2/1.35 を2基搭載しており、DC11形のTC2、DF115の変速1段、直結1段よりも伝達効率が高められている。両端のボンネットには、機関とそれに装備された液体変速機が搭載されており、動力の伝達は、両端のボンネットに搭載された2つの機関からの出力軸を、一旦運転席床下に設置された逆転機に集められ、前後の台車に推進軸で動力を振り分ける方式を採用しているが、片側のエンジンだけを使用して運転することも可能である。110号機までは前照灯が各エンドに1個ずつ設置され、両ボンネット前面のラジエーター用ルーバーは、冬季のオーバークール対策からシャッター機能付きとされ、エンジンも連続定格出力 370ps/1,300rpm の DMF31S 形であったが、111号からは、排気過給機(ターボチャージャー)が装備され、連続定格出力が500PS/1,300rpmに増強されたDMF31SB 形エンジンとなり、従来クランク軸によるベルト駆動であった冷却ファンは、静油圧駆動に変更となり、ボンネット上面に設置された。前面は通風口が廃止され、前照灯がシールドビーム2個となり、外観が一変した。1958年から1967年まで基本番台264両、300番台83両、500番台18両、600番台51両の計416両が汽車製造・日本車輌製造・新三菱重工業・三菱重工業・川崎重工業・日立製作所で製造されたが、後述の912形への改造のため、全416両が同時に存在したことはない。1961年(昭和37年)製造の111号機からは大規模な仕様変更がなされ、外観・エンジンが一新されている。基本番台(0番台)は264両製造されたが、製造時期により構造・外観に差異がある。1958年から製造された初期型。外観的にはDD11形2次車を発展拡大したようなスタイルだが、白熱灯1灯の前照灯はボンネットに半埋め込みとなり、排気量拡大による煙突の設置、サイドロッド式駆動台車を廃し、台車内部でシャフトとギアにより2軸駆動するつりあい梁式DT105台車を採用するなど、各部の仕様に新しい試みがなされた。後年、41号機がDD14形との重連運転用に「半重連」方式の総括制御機に改造された。また、13両が912形に改造された。台車が新設計のウイングばね式DT113に変更された。元空気溜めが運転席下から台車側方に移設され、燃料タンク容量が1,000リットルから2,000リットルに拡大された。1961年に製造された試作的要素をもった車両。エンジンが出力増強形のDMF31SB形 (500ps/1,300rpm) となり、機関車全体の出力は従来の740psから1,000psに強化された。車体の形状も変更され、機関出力増加に伴う発熱量の増大に対応するため、ボンネット前端側面にラジエーターを移設、同時にラジエーター用送風ファンがボンネット上に設置された。前照灯も従来の白熱灯1灯からシールドビーム2灯になったため、外観的には別形式のような変化がある。この111号機は試験的に運転席が2組になっているほか、制御系等や空気ブレーキ装置に新しい技術が採用されたが、1973年に量産機と同等にする改造が行われている。これら同機での試作要素はのちのDD20形・DE10形の設計に活かされている。本車は1977年に912形に再度改造された。111号機から試作的要素を取り除き、外観の変更や機関出力の増強はそのまま採用して新たな一般型として1961年から1965年(昭和40年)にかけて製造された。111号機では運転台が2組設置されていたが、本グループ以降は再び1組に戻っている。142・143号機は試験的に「半重連」方式の重連総括制御仕様で落成している。1963年度製造分 (171 - ) 以降は、塗色が従来のぶどう色2号と黄1号の帯から、上部ねずみ色1号、下部朱色4号、その境目に白帯を配した新しいディーゼル機関車塗色に変更になった。2両は912形に改造された。1966年(昭和41年)から翌年にかけて83両製造されたもので、車軸に取り付けてある減速機の曲り歯傘歯車(ハイポイドギア)を破損防止のため従来品からDD51用に変更、組み合わせる斜歯(はすば)歯車も911形のものに変更した。そのため歯数比(減速比)も0番台とは異なるものとなった。台車も改良が加えられ、形式がDT113形からDT113E形になった。これらの改良により、従来機とは互換性がなくなったことから既存機と区分するため300番台とされている。基本番台の 112 - 264 のグループをベースに重連総括制御仕様としたもので、300番台よりも早く1965年から18両が製造された。制御機器が重連総括制御対応に変更されたほか、車端部に制御回路引き通し用ジャンパ栓受、釣合管等の増設が行われた程度で外観的に基本番台(112号機以降)と大きな変化はない。300番台の重連総括制御対応版である。台車には300番台と同様の変更が加えられて台車形式がDT113形からDT113E形に変更になったため、新たに600番台に区分されたもの。他に変更はない。1966年から翌年にかけて51両が製造された。製造当初はヤードでの入換や小運転に用いられたが、DE10形が登場してからは専ら入換用あるいは貨物支線用となった。ごく一部に旅客列車の牽引を行った事例(水郡線・清水港線・福知山線(尼崎港支線)・山陽本線(和田岬支線))や重連で本線貨物列車を牽引した事例(羽越本線)も存在する。国鉄末期、貨物列車の減少と赤字増大による貨物輸送システムの改革により、ヤードや貨物支線が廃止されたことで余剰となったため1979年(昭和54年)以降急速に廃車が進み、JR各社には912形に改造されたものを除き1両も継承されることなく、国鉄最後の日である1987年(昭和62年)3月31日までに全車廃車となった。その用途から、地味な存在ではあったが、後にDD51形の開発において、本形式で得られた経験はすべて生かされており、国鉄が液体式ディーゼル機関車で成功を収めることができた事実から、日本の鉄道車両史におけるマイルストーンとして記憶されている。本項では国鉄籍の車両を記載する。譲渡車等の保存車については後述する。廃車となった後に先頭のボンネット周辺部分のカットモデル(912-64)が交通科学博物館に搬入され、ブルーシートが掛けられて保管されていた。その後、2016年4月29日にオープンした京都鉄道博物館で展示されている。番号の新旧対照は次の通り。中小規模の地方鉄道・臨海鉄道などにおいては、本形式の汎用性の高さと仕様・性能の適合から、同系の自社発注車両や国鉄からの譲渡車が多数導入された。国鉄では既に淘汰された形式であるが、2015年現在においても多数の事業体が構内の入換作業や小運転などの用途に重用している。本形式および自社発注による同系車両の使用歴を有する主な事業体を以下に示す。
出典:wikipedia
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