木村 小左衛門(きむら こざえもん、1888年2月2日 - 1952年2月28日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。初名吉郎。多額納税者・木村義三郎の次男。地方実業界の重鎮として多年活躍したが、1924年衆議院議員に当選以来、中央政界で活動した。若槻禮次郎(元首相)との関係極めて密であった。総理大臣秘書官、大蔵大臣秘書官等を経て農林大臣、内務大臣、国務大臣建設院総裁(初代、後の建設大臣)、国務大臣地方自治庁長官等を歴任した。島根県大原郡大東町(現在の雲南市)に生まれる。松江中学(現島根県立松江北高等学校)、早稲田大学に学ぶ。郡会議員・郡会議長を経て1924年の第15回衆議院議員総選挙に故郷の島根県から憲政会公認で初当選。若槻禮次郎の側近として知られ、憲政会・民政党時代には若槻には内相秘書官・首相秘書官として仕え、その後も蔵相秘書官・拓務参与官等を歴任した。戦後は第1次吉田内閣では農林大臣(現在の農林水産大臣)、片山内閣では日本最後の内務大臣(1947年6月1日-12月31日)・初代建設院総裁(後の建設大臣、1948年1月1日-3月10日)、第3次吉田内閣では地方財政委員会委員長・地方自治庁長官を務めた。戦後進歩党・民主党に所属していた時は両党を戦前の民政党の流れを受け継ぐ政党と位置づけ、犬養健が民主党の総裁に就任することに反対したことで知られている。民主党の分裂の際には一旦連立派に所属したものの民主自由党との合同には参加せず民主党野党派や国民協同党とともに国民民主党の結成に参加した。死亡する20日前に改進党の結成に参加した。木村家は武将木村重成の末裔とされる。猪野三郎監修『 大衆人事録』(昭和9年)キ一五頁に「当家は島根縣に於ける豪家にして木村長門守重成より出づ。先代義三郎は多額納税貴族院議員たり。君は其二男。」とあるが、父義三郎が貴族院多額納税者議員との記述は誤り。
出典:wikipedia
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