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蒼国来栄吉

蒼国来 栄吉(そうこくらい えいきち、1984年1月9日 - )は、中国内モンゴル自治区赤峰市バイリン右旗出身で荒汐部屋所属の大相撲力士。本名は恩和图布新(モンゴル語のラテン文字表記でEngketübsin、キリル文字表記・、日本語カナ表記・エンヘトゥプシン)、愛称はエンクー。身長185cm、体重144kg、血液型はO型。好物は羊の塩茹で。得意手は右四つ、寄り、投げ。最高位は西前頭4枚目(2016年3月場所)。解雇処分の後、裁判で勝訴し幕内力士としての地位を取り戻すという、珍しい経歴を持つ。7歳からモンゴル相撲に親しみ16歳で全国優勝、そして内モンゴル第3スポーツ体育委員会所属レスリング学校に進み、84kg級中国全国ジュニア・ランキング8位という実績を残した。2003年4月に訪中した荒汐親方が体格に恵まれた目当ての弟子候補との交渉がまとまらず帰国の期限に迫られた際に恩和图布新は荒汐が滞在していたホテルまで足を運び自ら入門を直談判した。恩和图布新の熱意に折れた荒汐が入門を許したことで同年6月に来日して荒汐部屋に入門、2003年9月場所で初土俵を踏んだ。蒼国来は入門時点で部屋に1人しか弟子がいない状況の中の新弟子であった。蒼国来が裁判闘争を勝ちぬくまでの様子を記述した言語教育学者の谷岡ケイは「どことなく老成した雰囲気が強すぎる」と当初の印象を自身の報告書に伝えていた。来日直後は日本食に馴染めず、さらに1食にどんぶり飯1杯が限界という小食であったためご飯にヨーグルトをかけて食べていたこともあった。2003年11月場所では序ノ口優勝を果たし、2004年1月場所は右上腕骨折のため全休(記録上は1不戦敗6休)するが、3月場所は序二段で7戦全勝(優勝同点)、同年11月場所では幕下に昇進した。その後は幕下と三段目の往復が続いていた。2007年5月場所では三段目筆頭で7戦全勝優勝を成し遂げ、翌7月場所は一気に幕下11枚目まで昇進し、ここでも5勝2敗と勝ち越し、翌9月場所は幕下5枚目に昇進して4勝3敗と勝ち越した。しかし、11月場所には自己最高位の東幕下2枚目で3勝4敗と負け越した。その後も幕下上位での一進一退が続いていたが、2008年に入り十二指腸潰瘍のため体調を崩し番付を大幅に落とした。体調が回復した7月場所では6勝1敗の成績で優勝決定戦に進出した。9月場所では東幕下10枚目と再び関取が見える幕下上位15番目以内まで番付を戻して4勝3敗で勝ち越し、11月場所では西幕下4枚目まで番付を上げたが2勝5敗に終わり、西18枚目まで番付を落とした。しかし2009年7月場所では幕下西4枚目で4勝3敗と勝ち越し、9月場所では自己最高位である幕下西筆頭まで番付を上げ、ここでも4勝3敗と勝ち越したが十両からの陥落者が少なく11月場所は東幕下筆頭に留め置かれた。東幕下筆頭で迎えた2009年11月場所では5勝2敗と勝ち越し、同年12月2日に開かれた番付編成会議で2010年1月場所での新十両昇進が決定した。中国人(中華人民共和国籍)力士の関取昇進は、1974年7月場所の清乃華(生まれ・育ちは大阪府で、新十両を機に福建省を出身地とした)以来36年ぶり2人目、内モンゴル出身者では(さらに言えば中国の生まれ・育ちである中国人の中でも)史上初である。また、部屋創立8年目の荒汐部屋にとっても初の関取誕生であった。新十両となった2010年1月場所から4場所連続で勝ち越し、9月場所で新入幕。西前頭13枚目で8勝7敗と勝ち越した。翌11月場所は6勝9敗と負け越したが、翌年1月場所は8勝7敗と勝ち越し、幕内定着を果たしたかに思えた矢先、八百長問題(後述)により解雇処分となる。この後、約2年半後に幕内力士として復帰するまでの間、所属していた荒汐部屋で生活しつつ稽古を続けていた他、日野自動車ラグビー部の練習に参加して体力を鍛えたり、代々木公園で行われるモンゴル・ブフ・クラブの稽古に参加して勝負勘を維持した。裁判(後述)を経て西前頭15枚目の幕内力士として復帰し、2013年7月場所に自身2年半ぶりの本場所を迎えた。関取衆からは「ブランクは致命傷、絶対大怪我する」とまで危惧され、師匠の荒汐からも「勝って3番ぐらいだろう」と予想されていたものの、解雇期間中もトレーニングを怠らなかった甲斐もあったのか、心配された故障の発生は無かった。しかしながら2年以上のブランクの影響は隠し切れず、復帰場所は6勝9敗、続く9月場所は東十両筆頭の地位で4勝11敗、翌11月場所を西十両7枚目の地位で5勝10敗と3場所連続での負け越しに甘んじた。東十両11枚目まで地位を下げたことで関取維持が危ぶまれていた2014年1月場所には、14日目に3年ぶりの勝ち越しを果たすも、千秋楽にはその一番に十両優勝が懸っていた千代丸に敗れて8勝7敗で場所を終える。翌3月場所は東十両9枚目の地位で土俵に上がり、2日目から9連勝と中盤までは豊真将と十両優勝を競っていた。最終的に豊真将の方が13日目で優勝を確定させたが、蒼国来はこの場所を11勝4敗の好成績で終え、これが自身初の2ケタ勝利となった。翌5月場所には再入幕を果たし、復帰時には122kgまで落ちていた体重が142kgまで増加しており、好調である様子が場所直前に伝えられていた。この場所で、2011年1月場所以来となる、3年半ぶりとなる幕内での勝ち越しを果たした。翌7月場所も勝ち越せば2年半のブランクを乗り越えて最高位を更新するところであったが、13日目から給金相撲を3番連続で落とし、7勝8敗の負け越しとなり、悲願は達成できなかった。続く二場所も負け越し、11月場所では西前頭14枚目となった。この場所で11日目に早々と勝ち越しを決めて9勝6敗とし、解雇以前の自己最高位更新を確実とした。2015年は怪我による休場もあり、十両まで番付を落とした事もあるものの、番付は基本的には幕内下位を維持している。前頭7枚目まで番付を上げた事もあり、解雇騒動によるブランクの影響は完全に払拭された。2016年3月場所には自己最高位である前頭4枚目に番付をあげ、初の上位戦が組まれたが、インフルエンザで途中休場となってしまった。2016年9月場所は5勝10敗と自身初の幕内での皆勤2ケタ黒星。千秋楽の取組後、支度部屋で「ボロボロ。体に力が入らない。心も痛い」とコメントしていた。2011年の大相撲八百長問題では、特別調査委員会により蒼国来が八百長に関与したと認められたと3月31日に報道されたが、報道後間もなく荒汐部屋公式サイトにて「八百長に関与したことは一切ございません。本人親方共に認定を証明する」という内容を記している。4月1日の相撲協会の発表によると、蒼国来は本日の処分はなく調査続行とされたが、8日、9日に行われた特別調査委員会の会合で、蒼国来の八百長関与が認定され、これを受けて4月11日、日本相撲協会の臨時理事会は、当人を引退勧告処分とした。処分に際し、師匠の荒汐は「こういう結果になって本当に申し訳ない。こんなことになるなら内モンゴル自治区から連れてこなければ良かった」と涙した。蒼国来は処分に応じず引退届を提出しなかったため、更に重い解雇処分となった。退職金は満額支給すると相撲協会は表明したが、蒼国来は受け取らなかった。4月22日、相撲協会に対し不当解雇に対する幕内力士としての地位保全及び給与支払い仮処分を東京地方裁判所に申請した。大相撲八百長問題で相撲協会に対し法的手段に出たケースは初めてであった。5月6日に発表された5月技量審査場所用の新地位表には、解雇された蒼国来と星風の四股名は記されていない。6月9日、4月22日に起こした地位保全の仮処分申請に対し、相撲協会は幕内力士の月給に当たる約130万円を1年間支払う内容で東京地裁で和解した。今まで解雇力士による地位保全の仮処分申請はすべて却下されており、和解に至ったケースは初めて。6月18日、日本相撲協会に力士としての地位確認及び給与の支払いを求める本訴訟を東京地裁に起こした。弁護団は関与認定の根拠とされた協会の特別調査委員会による春日錦と恵那司の証言に基づいて作成された供述書に両名が署名拒否していたと発表した。第1回口頭弁論は7月14日に行われた。10月6日、第3回口頭弁論で蒼国来側代理人は放駒理事長(当時)が師匠の荒汐親方に、解雇処分後も荒汐部屋で生活する蒼国来を追放するよう命じていたことを暴露。法廷で協会側代理人に、協会を指導するよう異例の抗議を行った。蒼国来は6月に力士としての地位保全と給与の支払いでの仮処分で和解済みであり、「仮処分で幕内力士として地位が認められている」。さらに今回の訴訟での準備書面で協会側代理人が部屋運営は師匠に任せるとしており、「部屋の独立性を認めていながら今回の指導はおかしい」と代理人は主張した。なお、部屋を出るよう警告を受けたことに対し、蒼国来は友人宅などを転々として対処していた。2012年(平成24年)3月1日、証人として恵那司が登場し、5回ほど蒼国来の八百長に関与したと証言した。蒼国来は「一度も話したことがない」と反論した。2013年(平成25年)3月25日、東京地裁は「八百長相撲だったと認める十分な証拠はない」、「協会内の秩序を乱すとの理由による解雇処分も手続きが十分でない」として解雇は無効と判断し、幕内力士としての地位を認めた。その一方で、過去の八百長に関与したことが「うかがえる」とも判決文には記されていた。一方、蒼国来と共に裁判を戦った星風は上告審まで争った末、2013年10月に敗訴が確定。角界復帰はならず、総合格闘技に転向することになった。東京地裁による解雇無効判決を受けて、日本相撲協会は危機管理委員会の委員長を務める宗像紀夫外部理事(元東京地検特捜部長)を中心に対応を協議。判決を覆す証拠は乏しいと判断して控訴断念の方針を固め、4月3日の臨時理事会で満場一致によりこれを承認した。この結果、蒼国来は約2年ぶりに現役力士として復帰することが決定した。相撲協会には離職者の復帰を認めない規定があるが、敗訴を受けて異例の決断に至った。北の湖理事長(元横綱)は理事会後、国技館内で蒼国来、師匠の荒汐らと面談。本人の意向も踏まえて復帰時期を決めた。2013年4月9日に放送されたTBSテレビ『Nスタ』内の特番では、特別調査委員会が春日錦や恵那司の証言だけを頼りにした調査を行い、蒼国来自身が通帳や携帯電話の提出を進んで行う意思を見せても殆ど履歴調査をされず、証拠も無いまま「クロ」と決めつけられた事実が明らかになった。そもそも、八百長に関与したとして名前が挙がった力士27人(八百長認定を受けた25人に加えて一度関与を疑われて候補に入った翔天狼と臥牙丸、合わせて27人)中押収された携帯電話から明らかになった八百長の証拠メールに名前が確認された力士は半分未満の13人に過ぎなかった。2013年10月3日、日本相撲協会危機管理委員会は「蒼国来問題に関する検証報告書」(9月20日付)を報道陣に公開、同日午後3時から国技館大広間で記者会見を行い、八百長問題に関する蒼国来らへの調査、処分がいかに杜撰であったかを説明した。蒼国来は5月の夏場所前に開かれる横綱審議委員稽古総見(4月27日)から相撲協会の行事に加わり、7月の名古屋場所で本場所に復帰。番付は解雇時の地位と同じ西前頭15枚目となった。なお、蒼国来以前に一時日本相撲協会構成員ではなくなりながら、復帰した力士としては春秋園事件で離脱していた男女ノ川が有名である。また、玉ノ富士は一旦脱走により正式に廃業したものの、当時はおおらかであったため再入門が許されたという。その玉ノ富士は関脇にまで昇進し、引退後は片男波部屋を継承し、定年退職後も現在に至るまでなお再雇用される形で年寄を務めている。基本的に右四つになって寄るか投げで勝負を決める。2016年3月場所前の座談会では振分親方(元高見盛)が「勝機を逃さないところがありますよ。受けて土俵際に詰まることはあるけど、勝機があると素早く動くというか」と話しており、高崎親方(元金開山)も「勝負勘はいいと思いますよ」と同様の評価を下している。こうした相撲が取れるのは稽古熱心さからであり、浦風親方(元敷島)も「稽古場では見ていますけどね、本当に淡々としてますね。コンディションなんかを考えて、その日にやるべきことをやるという感じで」と稽古態度の良さを高く評価している。復帰前は右四つ一本であったが、復帰後は少しずつ左四つやもろ差しも取り入れており、投げに頼らなくもなっている。2016年9月場所終了現在

出典:wikipedia

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