桜井 広大(さくらい こうだい、1983年7月1日 - )は滋賀県野洲郡野洲町(現・野洲市)出身の元プロ野球選手(外野手)。1983年に滋賀県野洲郡野洲町(現・野洲市)で生まれる。野洲町立三上小学校3年時に野球経験のある父の影響で野球を始め、三上スポーツ少年団で滋賀県大会優勝。小学6年生の時点で身長170 cmに成長していた。野洲町立野洲中学校時代は滋賀野洲ボーイズに所属し、関西選抜として世界大会3位。3年時に陸上競技の3種競技A(走高跳、砲丸投、100 m)で県大会優勝。にPL学園高校へ入学し、2年時に第82回全国高等学校野球選手権大会に出場。(3年時は部内暴力で活動停止処分で出場できず。)高校通算26本塁打。のドラフト会議において、阪神タイガースから4巡目で指名され、入団。PL学園高校から直接、阪神に入団した、初めての選手となった。新人時代から二軍の中軸を任されるなど打撃面での期待を寄せられたが、守備難や一軍外野陣の存在もあって入団から5年間は一軍昇格がなかった。6年目のに二軍で打率.333と好調を維持していたところ、濱中治・今岡誠・アンディ・シーツが不振に陥ったため、5月18日の横浜戦で一軍初出場し、翌日には初先発出場を果たすと同時にプロ初安打を放った。その後も好調を維持していたが、10月14日のクライマックスシリーズ第1ステージの中日戦でタイロン・ウッズと激突して左膝膝内症と診断され、オフはリハビリに費やした。に初のシーズン二桁本塁打を放ち、規定打席には届かなかったが自己最多の103試合に出場し、打率.302、12本塁打、42打点を記録した。は開幕からレギュラーとなり、同年のチーム初本塁打を放つも、7月11日に右肘痛が原因で降格する。8月10日に再昇格した2日後の広島戦で城島健司・狩野恵輔と共に3者連続本塁打を放った。しかし復帰はしたものの右肘は完治しておらず、オフに右肘の手術に踏み切った。も右肘の痛みが完治せず、一軍出場がないまま10月9日に戦力外通告を受け。12月2日に自由契約公示された。2月16日に独立リーグ・四国アイランドリーグplusの香川オリーブガイナーズ入団が発表され、背番号は0に決まった。2012年のシーズンは主に指名打者として78試合に出場、打率はリーグ2位の.320、6本塁打、44打点の成績で、リーグのベストナイン(指名打者部門)に選ばれた。11月9日にはKスタ宮城で行われた12球団合同トライアウトに参加、倉敷マスカットスタジアムでの東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストも受験したが合格とはならなかった。2013年のシーズンも引き続き香川で主軸を打ち、10本塁打、59打点をマークして本塁打と打点の二冠王となった。11月18日、現役を引退することを表明した。引退後は兵庫県明石市内のバッティングセンターで野球を教えている。2015年4月30日、香川オリーブガイナーズの「アンバサダー兼臨時コーチ」に就任。下戸であり、煙草も吸わない。筋肉質の体格で、高校3年の時にはベンチプレス120kg、背筋力280kg、握力70kgを記録している。阪神入団時の計測では胸囲110cm、太もも周り64cm、遠投110メートル、100メートル走11.06秒であった。阪神時代は金本知憲が左翼手を、赤星憲広とマット・マートンが中堅手を不動のレギュラーとして務めていたため、主に右翼手のレギュラーを争った。長打力が持ち味であり、大砲としての将来を嘱望されたが、外野守備のまずさに加え故障の多さが安定した出場機会を得られない一因であった。以下の数値は四国アイランドリーグplusウェブサイト掲載の各シーズン選手成績による。
出典:wikipedia
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