蔦田 二雄(つただ つぎお、1906年3月19日 - 1971年7月25日)は、日本のキリスト教(プロテスタント)牧師・伝道者、イムマヌエル綜合伝道団の創設者・初代総理(代表)。シンガポールで、歯科医師・蔦田顕理(つただけんり)を父として生まれる。シンガポール時代には、父と同じくメソジスト監督教会に所属し、青年会のメンバーとして活動していたが、聖書の語る「新生」の経験は未だ持たず「善行を積み重ねることによって、神に受け入れられる」という信仰理解に立っていた。青年時代は日本に戻って、岡山で過ごした。その後、ロンドン大学に留学し、外交官としてのキャリアを目指した。ロンドン留学への船上で、イギリス人の学者であった父親(山口県秋吉台の発見者)と日本人の母親(ガントレット庸子/キリスト教矯風会)の間に生まれたオーウェン・ガントレットと出会い、「信じる者は永遠のいのちを持ちます」(ヨハネ6:47、新改訳)の聖書のことばから、「持ちます」は現在形であることを示され、永遠のいのちとは死後のいのちではなく、キリストを信じる者、すなわち、キリストの十字架による贖いのみ業に依り頼む者は、現在、この地上の生涯に「永遠のいのち」を持つことを教えられた。その後、外交官としてではなく、神からの召命を受けたという認識の下、福音の役者(えきしゃ)として、堅い決意とともに日本に帰国。中田重治のもとで展開しつつあった日本ホーリネス教会に身を投じ、その教役者として日本橋教会で奉仕した。1942年、東条軍閥内閣の宗教弾圧に遭い、2年間の巣鴨刑務所での独房生活を経験。その間に「すべてが奪われても、神の臨在・同行を奪われることはない」、すなわち「インマヌエル」の事実に対する信仰の確信を得、機会が訪れたなら「インマヌエル」(神ともにいます)の名で新しい働きを興すことを決意した。第二次世界大戦終戦直前、巣鴨プリズンから釈放された蔦田は、1945年10月21日、他の2人のクリスチャンと共に「イムマヌエル綜合伝道団」を創設した。戦後の社会情勢を反映して、まず「医務部」を千葉県船橋市に設けた。翌1946年3月「伝道部」が発足し、同年6月、イムマヌエル綜合伝道団の第1次年会が持たれた。蔦田二雄は、イムマヌエル綜合伝道団の総理(代表)として労するかたわら、福音的な諸教会間の協力のためにも精力的に労し、ビリー・グラハム国際大会の実行委員長として仕え、また、日本プロテスタント聖書信仰同盟、さらに、日本福音同盟の結成のために努力した。また、広く国外にも関心を持ち、1960年代に日本の教会の中では、早期に世界宣教への取り組みを始め、1949年に創設し、初代院長ともなったイムマヌエル聖宣神学院の卒業生たちを国外へ、宣教留学生、また、宣教師として派遣した。イムマヌエル聖宣神学院の「メソジズム」のクラスのため、テキスト・ブックとして出版された。これらの書は、イムマヌエル丸の内教会(現・中目黒教会での「聖別会」でのメッセージをテープから起こしたもので、「聖化・きよめ」の主題が扱われている説教集である。第4の「エプワース流れ」は、ジョン・ウエスレーによる「標準説教」の幾つかが取り上げられ、その解説がなされている。
出典:wikipedia
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