六所神社(ろくしょじんじゃ)は、神奈川県中郡大磯町にある神社である。相模国の総社で、毎年5月5日には往古神領であった大磯町国府本郷の神揃山(神集山)で国府祭(こうのまち)を催行し、相模国の一宮から四宮および五宮格である平塚八幡宮の神輿渡御を受ける。当地に元々あった柳田大明神社に、相模国の一宮から四宮まで、および五宮格の平塚八幡宮の祭神を合祀したもので、六社の神を祀ることから六所神社という。崇神天皇の時代、出雲国(現在の島根県東部)より移住しこの地を開墾した人々は、この地を柳田郷と名附け、出雲の祖神である櫛稲田姫命・須佐之男命・大己貴尊を祀って柳田大明神と称し、現在地より北西1kmの石上台(伊勢神台)に社殿を築いた。『六所明神之縁起』によれば、創建の年は崇神天皇甲申年と伝えられる。養老2年(718年)元正天皇より国司に対し、勅を以って当社を相模国の神祇の中心として総社に定めるという宣下がなされ、これにより同年閏4月8日に現在地へ遷座した。平安時代には国府に近い当社に国内有力5社の祭神の分霊を勧請し、国府六所宮とも称されるようになった。また社伝によれば、天応元年(781年)5月5日の早良親王夷賊征討に際し退攘祈願が行われたとしている。『吾妻鏡』にみられる当社に関連する記事を、時系列的に並べる。戦国期に入り、永正年間(1504年 - 1520年)に北条氏綱が社殿を造営、『六所明神之縁起』によれば天正年間(1573年 - 1593年)に北条氏政が本殿を修復し、現在の本殿ができあがった。またに見える拝殿基壇の石垣も後北条氏の寄進によるものである。天文13年(1544年)12月23日付けの『北条家朱印状』では65貫78文の知行高を安堵し、さらに造営方として30貫500文の追加が認められており、後北条家から厚く保護されたのが分かる。天正19年(1591年)徳川家康より御朱印状が下され、御朱印地50石が寄進された。『六所明神之縁起』によれば、以後代々の将軍家からも寄進を受けたと言う。『新編相模国風土記稿 巻之40』によれば、正保4年(1647年)4月に府中祭礼における狼藉や喧嘩の禁止、社殿修築における百姓の助成などを定めた制札が江戸幕府より出され、保護を受けている。明治の近代社格制度では郷社へ列格された。
出典:wikipedia
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