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日本ヌーヴェルヴァーグ

日本ヌーヴェルヴァーグ(にっぽんヌーヴェルヴァーグ、日本ヌーベルバーグとも、英語The Japanese New Wave)は、1950年代末から1970年代初頭に出現した日本の映画監督などからおこった、日本映画の内部におけるムーヴメントである。1980年代以降の影響についても言及する。フランスのヌーヴェルヴァーグとは違い、日本のムーヴメントは当初、撮影所の内部で始まった。若く、それまではほとんど知られていない映画作家たちによるものである。「日本ヌーヴェルヴァーグ」の語は、ヌーヴェルヴァーグの日本版として撮影所の内部で(そしてメディアで)最初につくりだされた。それにもかかわらず、「日本ヌーヴェルヴァーグ」の映画作家たちは、フランスの同僚たちをインスパイアしたのと同じ国際的影響を受けており、その語が定着するにつれ、人工的に見えたムーヴメントが批評的になり、ますますインディペンデントな映画運動に急速に発展し始めた。フランスのムーヴメントのすぐれたところは、そのルーツが『カイエ・デュ・シネマ』誌とともにあることである。多くの未来の映画作家たちが、自らのキャリアを批評家としてそして映画を脱構築する者として始め、新種の映画理論(、もっとも顕著なものは作家理論である)が彼らとともに出現したということが明らかになるのである。一方、日本のムーヴメントは、ラフにいえばフランスと同時に発展した(いくつかの重要な先駆的作品は1950年代に生まれている)が、社会的な慣例に疑問を抱き、分析し、批評し、ときには慣例を揺るがすことに捧げられたムーヴメントとして起こっている。フランスの同僚たちに近いバックグラウンドから起こった日本の映画作家が大島渚であった。彼は撮影所に採用される以前は左翼活動家であったし、分析的映画批評家であった。大島の最初期の作品(1959年 - 1960年)は、初期に出版した分析で声に出した意見の直接の結果としてみることができる。大島の記念碑的第二作(1959年 - 1960年の二年間に4本監督している)である『青春残酷物語 "』は、ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』とフランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』のめざめのなかでかなりすみやかに国際的にリリースされたようにみえた。「日本ヌーヴェルヴァーグ」の当初の映画監督は、羽仁進、勅使河原宏、増村保造、篠田正浩、大島渚、蔵原惟繕、そして今村昌平である。すでにキャリアを開始していた一定のほかの映画作家、鈴木清順、中平康、新藤兼人も、ときおりこのムーヴメントに関わってきた。個々に活動していたが、彼らは、より伝統的な日本映画には従来さほどみられることのなかったいくつかの理想を探究した。それは、社会から追放された人間(犯罪者あるいは非行少年を含む)を主人公として描くこと、奔放な性、社会における女性の役割の変化、日本における人種差別と人種的マイノリティの位置、社会構造と社会通念への批評あるいは脱構築である。今村監督の『にっぽん昆虫記 "』(1963年)の「トメ」のような主人公たち、あるいは大島監督の『青春残酷物語』(1960年)の非行少年たちが表象するものは、「反乱 」であるが、映画的な注意を逸らしてしまうかもしれないような人生への一瞥を、国内外の観客にちらりと省みさせもするものである。1960年代前半の松竹出身の映画監督達を指して言った言葉。大島渚の『青春残酷物語』の興行的ヒットがきっかけ。奔放さや反権威の姿勢が、フランスで勃興しつつあったヌーヴェルヴァーグと似ていたことから、それらの新しい映画に対して、マスコミによって名づけられた。命名したのは、当時「週刊読売」の記者であった長部日出雄である。具体的には大島渚、篠田正浩、吉田喜重の三人の映画監督と彼らと関係があった映画制作のメンバー等を指す。上記三人に高橋治、森川英太郎、石堂淑朗、田村孟を含めて七人で代表する場合もある。大島渚は『日本の夜と霧』を松竹が自主的に上映中止したことに抗議し、またそれまでの会社の監督に対する処遇への不満もあって、松竹を退社した。数年後、吉田喜重や篠田正浩も独立した(「創造社」または「ATG」)。松竹ヌーヴェルヴァーグは数年しか続かなかった。しかし、この三人(を中心とする人物達)には作風における共通点が少ないばかりか、本家ヌーヴェルヴァーグや、後述の立教ヌーヴェルヴァーグにあったような党派性や協調性に乏しく、閉塞性を打破し、新しいなにかを見出そうとした彼らの姿勢に対し「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれたに過ぎない、とまとめる見解が大勢である。「日本ヌーヴェルヴァーグ」は、1970年の初期には(フランスと同様に)離れ離れになりはじめた。撮影所システムの崩壊に直面し、おもな監督たちはドキュメンタリー作品に撤退し(羽仁、しばらくは今村も)、ほかの芸術を追求し(勅使河原は彫刻を実践し、華道の流派の家元になった)、あるいは、国際的な合作映画(大島)へと突入していった。このような困難に直面し、「日本ヌーヴェルヴァーグ」のキー・パーソンのうちには、特筆すべき映画を生み出すことのできた者もいた。大島監督の1976年作品『愛のコリーダ "』は歴史劇とポルノグラフィ的側面のブレンド(歴史的事実から描かれている)で国際的に悪名高くなり、映画製作に帰還した勅使河原監督は実験的ドキュメンタリー『アントニー・ガウディー "』(1984年)、長篇劇映画『利休 "』(1989年)や『豪姫 "』(1992年)やで賞賛を勝ち取った。今村監督は、カンヌ国際映画祭でパルムドールを複数回獲得したたった4人の映画作家のひとりとなった。その作品は『楢山節考 "』( 1983年)と『うなぎ "』(1991年)である。(各年内、監督 名のアルファベット順)1956年1957年1958年1959年1960年1961年1962年1963年1964年1965年1966年1967年1968年1969年1970年1971年1972年1973年1974年1976年1980年前後に活動した、立教大学の自主映画制作サークルのパロディアス・ユニティーのメンバーおよびその一連の動向のこと。黒沢清、万田邦敏、塩田明彦、青山真治、周防正行、森達也(卓也)、浅野秀二等がいる。元々個々人は大学入学前から映画に親しんでいたが、当時立教大学の講師で映画表現論の講義を受け持っていた蓮實重彦の絶大な影響を受け、単なるサークル活動を超えた一定の党派性を持った活動を行っていた。もっとも作風自体は「ゴダール風」(黒沢清)、「エリック・ロメール張り」(塩田明彦)、「小津安二郎への敬愛」(万田邦敏、周防正行)など千差万別であり、作風ではなく相互に映画制作を助け合うなどの行動面において本家ヌーヴェルヴァーグとの共通性がある。1990年代から2000年代に台頭してきた大阪芸術大学出身の映画監督や俳優などをさす。熊切和嘉、山本浩司 (俳優)、宇治田隆史、本田隆一、元木隆史、山下敦弘、寺内康太郎、呉美保、柴田剛、石井裕也など。「大芸ヌーヴェルヴァーグ」という名称については、俳優の津田寛治が2000年代の中頃に雑誌「TVブロス」の連載でパブリックに発言し、衆目の知るところとなった。

出典:wikipedia

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