日本中国友好協会(日中友好協会)は、日本の中国との友好関係に関わる日本側の団体である。1966年、中華人民共和国(中国共産党政権)における文化大革命の評価をめぐる対立により2つのグループに分裂し、同協会を名乗る団体は現在でも2つある。本項では便宜上1を(主流派)と、2を(非主流派)とする。なお1と2はいずれも「1950年10月1日に創立」としている。公益社団法人日本中国友好協会(にほんちゅうごくゆうこうきょうかい)は、東京都千代田区に本部を置く公益社団法人である。略称は日中友好協会(にっちゅうゆうこうきょうかい)。機関紙は『日本と中国』。だが、1966年6月11日付の491号から『日中友好新聞』と改題して発行し、同年11月21日付から再度改題。現在に至る。『日中友好新聞』は、もう一方の日中友好協会の機関紙として、現在に至る。文化大革命の評価をめぐって1966年に分裂した(中国側の文革の対外路線への波及として「世界革命」を標榜し、あるいは「4つの敵」の一つとして日本共産党指導部の打倒を公然と打ち出した路線の中で文革評価をめぐる”踏み絵”を用いて日本共産党党員などの中国絶対化に距離を置くメンバーを組織排除し、日中貿易を文革政府の”朱印”を持つ勢力に独占させ、友好商社方式で対日工作資金を持ち込み、中国いいなりの工作機関と議会ロビーを育成する大方針があったとされる)当時文革を礼賛した側である。分裂脱退した当日の協会理事の参加者の数は主流派の方が多数であったが、非主流派に秘密にかねてから用意してあった別の事務所に移る準備を整え、集団で会議を中座し出て行った事件の経過があるので「日中脱走派」と反主流派に呼ばれた。現在では「社団日中」として区別している。当時の機関紙には中国直輸入の文革の立場から軍事革命を賛美する文書が多数掲載された。一時はその中でも分裂騒ぎがあり、さらに「黒田日中」(機関紙『日中友好』)と「宮崎日中」(機関紙『日本と中国』)の二派に分裂し機関紙をそれぞれ発行し、相互に暴力行為を働いて相互に機関紙で非難しあっているがこれは関係修復して再合同。なお、根拠は無かったが、連合赤軍などにかかわりのあった人物も出入りしていたと言う噂まで広まった。この主流派のHPの「協会のあゆみ」という項目には、1967年6月の「黒田寿男氏、日中友好協会第2代会長に就任」から、1971年3月の「第31回世界卓球選手権大会、中国チーム参加・ピンポン外交」までの間の文革を奉じて組織分裂した当時の記述が未だにない。1978年5月の第22回全国大会にて、これまで用いてきた「(正統)」の名称を外し、もとの日中友好協会の名に改めた。所謂日中友好7団体(日中友好議員連盟、日中経済協会、日中協会、日本国際貿易促進協会、日本中国文化交流協会、日中友好会館)を構成するのはこちらである。日本中国友好協会(にほんちゅうごくゆうこうきょうかい)は、1966年以来中国政府から分派「ニセ日中」と名指しされた団体である。1950年設立当初のマークをそのまま使用している。1998年の日中両共産党の合意を受け1999年に中国との関係を修復した。結成当時は中国との国交がなかったので草の根民間外交としてきりえ講座、中国語講座などが主な活動スタイルであった。組織分裂後は中国政府から攻撃もされ、国交正常化後は「ニセ日中」と相手にされない時期が長く続いたが、国交がない当時からの活動を踏襲して中国政府からも日本政府からも独立した立場を保つことができた。(協会HPから抜粋)「中国の文化大革命(1966年)の時期に、日中友好運動に対して中国側から「毛沢東主義」の礼賛などの干渉がおこなわれましたが、協会はこれに反対し、日本国民の自主的運動の立場を守り抜きました。そのために33年もの長い間、中国との関係が断絶しました。1999年、中国がこの誤りを認め、「真剣な総括と是正」を表明したことで関係が正常化し、自主独立・対等平等・内部問題不干渉の国際友好の原則に立つ新しい友好関係を確立しました。協会は現在、中国国際交流協会及び中国日本友好協会と友好関係を持っています。」
出典:wikipedia
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