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慈恩寺 (寒河江市)

慈恩寺(じおんじ)は、山形県寒河江市にある仏教寺院で現在は慈恩宗の本山。山号は瑞宝山。本尊は弥勒菩薩で脇侍として地蔵菩薩、釈迦如来、不動明王と降三世明王を配する国内でも珍しい五尊形式である。宗教法人としての登録名は「本山慈恩寺」。行基によって見いだされ、聖武天皇の勅によって創建したとされる。その後、鳥羽天皇の勅で再建され後白河法皇と源頼朝によって山号を与えられた。平安時代は荘園主である藤原摂関家から、鎌倉時代から室町時代にかけては地頭・寒河江大江氏の庇護を受け、寒河江大江氏が滅ぶと最上氏や江戸幕府によって寺領を認められた。江戸時代には東北随一の御朱印地を有し、院坊の数は3ヵ院48坊に達した。修験による祈願寺として御朱印地を拝領していたため檀家を持たず、明治の上知令により一山は困窮し帰農する坊が続出した。現在は3ヵ院17坊を伝える。創建当初弥勒菩薩を本尊、八幡大菩薩を鎮守として祭っていたが、時代の変化とともに法相宗、真言宗、天台宗を取り入れ、現在は天台宗真言宗兼学の一山寺院として慈恩宗を称する。境内地は周囲の中世城館群や行場などとともに2014年10月に国の史跡に指定された。慈恩寺は山形盆地葉山の山裾の、寒河江川扇状地より一段高い段丘上に位置する。院坊屋敷地と境内地は概ね東西700m南北200mの範囲に収まる。扇状地辺縁は標高約125mで仁王坂を上ると標高約146m、参道を160m進むと標高156mとなる。参道の階段が比高差約13mあり、山門は標高169mに位置する。山門をくぐると階段があり本堂が位置する平坦地は概ね標高172mである。参道付近の院坊屋敷地は東側が標高180mの尾根に囲まれており、西へ行くにしたがって緩やかに下るが、田沢川によって隔絶される。つまり、南は比高差20m以上の崖地、東は標高180mの尾根、西は田沢川、北は葉山の山塊に守られている。さらに、この外側に結界を守る4つの神社があり、西は史跡に含まれる八面大荒神(はちめんだいこうじん)、東は箕輪の折居権現、南は八鍬の鹿島神社、北は白山権現である。この結界は東西2.1km、南北3.6kmに及ぶ。伝承によれば、神亀元年(724年)行基がこの地を選び、天平18年(746年)聖武天皇の勅により婆羅門僧正菩提僊那が寺院を建立したのに始まるとされる。山号を寒江山とし大慈恩律寺と称した。しかし、奈良時代盛時の勅願寺であれば平地に七堂伽藍を建築するべきところを、慈恩寺は山中に伽藍を構築しており山岳寺院の傾向を持つ。麻木脩平によれば、慈恩寺開創の時期は平安初期の9世紀と考えられるという。その根拠として第一に、全国的に弥勒菩薩を本尊とするか本尊に準ずる扱いを受けている寺院はほとんどが平安初期に創立されたものであること。第二に永仁の大火(1296年、後述)で焼失した本尊は平安初期に盛行した檀像風の像であったと考えられること。第三に慈恩寺が、寺号や弥勒菩薩との関わりが深い法相教学の寺院として創建されたと考えると、この寺を開いた僧侶は南都(奈良)仏教系の人であると考えられ、南都系僧侶が出羽国にまで教線を拡大する情熱と力を失っていない時期は平安初期までで、それ以後とは考えられない。法相宗の徳一が会津で活動したのは9世紀前半であり、山形県内にも徳一開基を伝える寺院があり、南都の法相宗が県内に進出したのはほぼ確実なことを挙げている。さらに、平安時代に出羽国に設置された定額寺の中に慈恩寺の名が見えないことから、慈恩寺は当初、定額寺に列せられるような規模の大きな寺ではなく、小規模な法相系の私寺だったのではないかと論じた。本山慈恩寺管長布施慶典の『法相宗について』によれば、現在でも本堂で行われる行事、修正会・一切経会などは法相宗の様式を伝えているという。天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により藤原基衡が阿弥陀堂(常行堂)・釈迦堂(一切経堂)・丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置した(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。このとき山号を雷雲山と改め、鎮守として白山権現を加えた(『慈恩寺縁起』)。一切経の納入や丈六釈迦如来像の建立など藤原清衡の建立した天台宗毛越寺との類似点は多い。既に寛徳2年(1045年)の時点で寒河江荘は摂関家領として成立していたことから、天仁の再興時の荘園主で当時摂政だった藤原忠実が信仰していた天台宗の影響も考えられる。仁平年間(1151年 - 1153年)に興福寺の願西上人を本願者、平忠盛を奉行として再興した(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。南都興福寺は藤原摂関家の氏寺であり法相宗の総本山であった。寒河江荘の荘園主である藤原氏の庇護と、公卿への昇進を目前に控えた忠盛の財力をうかがわせる。また、慈恩寺再建にあたっての藤原基衡から平忠盛への奉行の転換については、久安5年(1149年) - 仁平3年(1153年)にかけて奥州藤原氏と藤原摂関家が年貢増徴をめぐって争ったことが遠因ではないかとの指摘もある。堀裕は「興福寺」願西上人は寒河江荘で活躍した法華経を信奉する修行僧ではなかったかと論じている。堀によれば、12世紀の慈恩寺の什物や建築物には天台宗の影響が色濃く見え、後の天台宗と真言宗の争いにより寺伝から天台宗が主流であった痕跡を消すために、法相宗の総本山である「興福寺」願西上人を作り出したのではないか、とする。鳥羽天皇が崩御した保元元年(1156年)、保元の乱が起こり実権を握った後白河天皇の勅宣により今熊野十二所権現を勧進し社殿を建立する。保元2年(1157年)火災で本堂が焼失するも、永暦元年(1160年)に再建された。この前年(1159年)平治の乱が起こっており、後白河院と二条天皇の対立は膠着状態であったが、やがて二条天皇及び関白藤原忠通が実権を握っていく。しかし、長寛2年(1164年)に忠通が、翌1165年に二条天皇が立て続けに死去すると、幼少の六条天皇を忠通の子藤原基実が摂政として補佐するものの永万2年(1166年)に急死してしまう。基実に伝領されていた寒河江荘は藤原基通が成人するまでの間、平盛子が一時的に預かるという形で、盛子の父平清盛の影響下に入った。平家との協調路線を模索していた後白河上皇もこれを黙認し、後白河の院政が開始する。 しかし安元2年(1176年)後白河の寵愛を受けた平滋子が死去すると後白河と清盛の間にも亀裂が入り、鹿ケ谷の陰謀・平重盛の死去で関係は修復不可能になっていく。やがて治承3年(1179年)平盛子が24歳で死去すると、盛子が一時的に相続した摂関家領の相続問題が発生する。盛子が准母となっていた高倉天皇への伝領を清盛が画策したのに対して、摂政氏長者松殿基房が伝領を求めて後白河へ訴えたのである。後白河はこれに介入して自己の管理下に置いてしまう。これが引き金となり治承三年の政変が起こり後白河は院政を停止され、藤原基通が関白・氏長者となり、寒河江荘も摂関家領に戻った。関白・藤原基通は平家の都落ちに際して京都に残り、後白河院の側近となって度々関白を務め、後白河の死後も関白・摂政を歴任した。文治元年(1185年)後白河法皇の院宣と源頼朝の下文により、瑞宝山の山号を賜った。この時、高野山の弘俊阿闍梨により真言宗がもたらされ、翌文治2年(1186年)法皇の院宣により熊野権現社殿が修造された。白山権現は鎮守から外れることになり、天台宗も中心的役割を失っていく。後白河法皇は生涯34度におよび熊野を詣でており、その信仰心がこの地方まで影響していたことを示している。弘俊は修験を導入し、葉山を奥の院として葉山修験の中心地となった。文治5年(1189年)奥州藤原氏が滅び、寒河江荘の地頭に大江広元が補任されると、慈恩寺も次第に大江氏(寒河江氏)の庇護を受けるようになる。広元の長男大江親広は建久3年(1192年)寒河江荘を譲り受けるが、承久3年(1221年)承久の乱で失脚し寒河江荘に隠棲する。ただし、親広の子の大江広時、広時の子の大江政広は鎌倉幕府の要職にあり鎌倉に定住していたため、政広の子の大江元顕が初めて寒河江に入部したと言われている。『永正本大江系図』によれば、広元の末子・尊俊が別当坊を継いだことが記録され、『最上院系図』によると親広の孫・成広が別当二十二代を相続して幸繁を称し、三十代幸海・三十五代幸道も大江氏から入った。このことは端的に、慈恩寺と大江氏が密接な関係を結んでいたことを示している。安貞2年(1228年)勧進僧恵玄房経円が白山神社御宝前に木造の聖観音懸仏を納める(奈良国立博物館所蔵)。正応3年(1290年)良源阿闍梨により求聞持堂が築造され、虚空菩薩像を安置し聞持院と称した。ここでは虚空蔵求聞持法という密教の修行を行った。ここにはこれ以前薬師堂が建てられており、薬師三尊及び十二神将を安置していたという。永仁4年(1296年)に火災で本堂及び本尊弥勒菩薩以下の諸仏が焼亡するが正安元年(1299年)再建が開始され8年後に完成している。正慶2年(1333年)鎌倉幕府が新田義貞によって攻め込まれると、中央で鎌倉方に与した大江貞広なども北条高時に殉じた。貞広の弟懐顕や子顕広は寒河江氏を頼って落ち延びてくることになるが(『大行院大江系図』)、このことが契機となり、寒河江氏は南朝方陸奥守北畠顕家の配下に付いた。元顕の子元政は建武3年(1336年)に北畠軍による足利尊氏の攻撃に参加し、戦功を挙げている(『金仲山眼明阿弥陀尊略縁起』)。しかし、尊氏が軍を立て直し京を奪回すると延元3年(1338年)には北畠顕家が和泉国堺石津で戦死、同年新田義貞が戦死、翌年後醍醐天皇が没し、南朝は苦戦を強いられるようになる。東北地方においては、北畠顕家の弟北畠顕信が下向し寒河江氏はその元で寒河江荘北方を奪還するなど慈恩寺近辺においても戦乱の様相を呈する。文和3年/正平9年(1354年)斯波家兼が北朝の奥州管領として下向すると陸奥国は北朝の勢力下となり、延文元年/正平11年(1356年)子の斯波兼頼が出羽国に進出し、延文4年/正平14年(1359年)大江元政が打ち取られたという。これ以降、寒河江氏は斯波氏(後の最上氏)の圧力にさらされることになり、延文元年/正平11年(1356年)火災により慈恩寺本堂・釈迦堂以外が焼亡しているが、大規模な造修の記述も乏しくなる。さらには、応安元年/正平23年(1368年)大江氏と斯波氏は漆川の戦いで激突し、大江氏は滅亡こそ免れたものの寒河江時氏以外の一族61人を失うという壊滅的な打撃を受けて北朝へ降伏。時氏の子元時を鎌倉に人質として出し、所領は縮小されたものの安堵された。これ以降東国における南朝側の組織的な抵抗は収束し、慈恩寺も一時の平穏を得ることになる。しかし、慈恩寺を庇護する寒河江氏の勢力縮小は、寺社経営を宗徒による自活へと舵を切らせる。康暦2年/天授6年(1380年)伊達氏が長井氏領置賜に侵攻し、鎌倉公方が近隣豪族へ救援を命令し退却させることに成功する。しかし伊達氏の侵攻は執拗に続き、至徳2年/元中2年(1385年)長井氏は本拠地置賜郡を失い衰退してしまう。伊達氏と長井氏はともに北朝側であり、伊達氏は国人領主として力を蓄え長井氏は幕府の要職であった。伊達氏のこの行動は幕府権力からの強い独立志向を感じさせる。この伊達氏の侵攻により、寒河江氏は伊達氏・最上氏と接することになり、双方の内訌や争いにたびたび巻き込まれることになる。応永2年(1395年)、慈恩寺衆徒が弥勒堂の神輿を箕輪郷(寒河江市箕輪)に振置きして、箕輪郷を寺領としたという。応永6年(1399年)稲村・篠川に鎌倉方の御所が開設されると、伊達・大崎氏が反旗を翻し幕府(京都)側がこれを支持したため、京都、鎌倉の代理戦争が勃発する。寒河江氏はこの時、幼少期を人質として鎌倉で過ごした寒河江元時の時代であったので鎌倉側に付いたと思われ、応永9年(1401年)には伊達氏苅田城攻めに参加している(『戸沢家譜』)。結局、永享の乱の終結により稲村・篠川御所が廃止される1440年頃まで小規模な戦乱状態であったと考えられる。応仁元年(1467年)応仁の乱が始まると室町幕府の衰微が明らかとなり、東北地方においても国人領主の台頭が顕著になる。文明11年(1479年)伊達氏が寒河江城を攻めるが、寒河江氏一族の結束に乱れがあり、慈恩寺弥勒堂に誓紙を納めている(『幹縁疏』)。この時は冬の厳しさにより干戈を交えず撤退した伊達氏だったが、文明12年(1480年)再び侵攻すると菖蒲沼(現:寒河江市大字寒河江字菖蒲沼)付近で激闘となり、寒河江氏は伊達側大将桑折播磨守を打ち取っている。同年桑折播磨守の菩提を弔う時宗松蔵寺が開かれ、後に最上院滅罪の寺となった。永正元年(1504年)山形城主最上義定が寒河江領に攻め入り、兵火により一山仏閣、坊舎が悉く焼亡してしまう。これと同時に宝物も散失してしまったが、本堂の諸仏は難を逃れ1躯も焼失しなかった(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。仮本堂が築造されるが、寒河江氏において白岩氏・溝延氏・左沢氏などの庶流が独立傾向を強めたことや、たびたび伊達氏・最上氏の抗争に巻き込まれたことから往時の本堂を再建する余力はなく、再建は江戸時代を待つことになる。天文年間(1532年 - 1555年)に葉山との関係を断ち、これ以降は三合山(十部一峠)を奥の院とした。このことが契機となり葉山修験は次第に衰退し、江戸時代には出羽三山から葉山が外れることになる。天正11年(1583年)最上氏は庄内武藤氏の攻略を企図し、武藤義氏は家臣前森氏に謀反を起こされてしまう。寒河江高基は義氏救援のために六十里越を庄内に向けて進軍したが、途中で義氏自害の報に接し、引き返している。この時高基は大綱注連寺より三千仏の画像三幅対を持ち帰り、慈恩寺弥勒堂に寄進した。天正12年(1584年)最上氏の攻撃によりに高基が自害し寒河江氏が滅亡すると、慈恩寺は最上氏の庇護を受けるようになり、所領は黒印地として安堵された。慶長5年(1600年)山形城主最上義光は関ヶ原の戦いに際して、慈恩寺に対して「立願状」を出して戦勝を祈願した。江戸時代に入り、慶長11年(1607年)最上義光が三重塔を築造し、慶長16年(1611年)慈恩寺領の指出検地を行った。『最上義光分限帳』によれば2,889石であったという。元和4年(1618年)義光の孫の義俊の時、本堂の再建が完了した。元和8年(1622年)最上氏が改易になると、慈恩寺領と衆徒所有の土地が幕領となってしまう。一山は幕府による寺領の安堵を求めて、同年寺領存続の願書を提出する。願書は翌元和9年(1623年)許可されるが、別当坊(池本坊、後の最上院)は江戸幕府での宗教政策に強い影響力を持つ南光坊天海に接近し、慈恩寺を高野山南光坊(天台宗)直末とする請願をして許される。華蔵院と宝蔵院は改宗に反対して長年にわたり抗争を続けたが、寛永19年(1642年)別当坊は上野東叡山寛永寺の末寺となって最上院と改め、天台宗に改宗する。その後も双方の争いは続き、寛文2年(1662年)幕府の裁定により争いはようやく終結する。慈恩寺は真言宗・天台宗兼学の寺院として存続することになった。この裁定により、寛文5年(1665年)幕府は御朱印状を下付し、最上院は一山で最多である687石余の御朱印地を受け、一山の寺領は18ヵ村にまたがり東北随一となる2,812石3斗の御朱印高を有した。一山は3ヵ院を中心として多くの子院・坊・末寺を抱え、東北における真言宗・天台宗の中心的な寺院であった。江戸時代前半の本堂再建以降、本堂宮殿(くうでん、「厨子」と同義)内に秘仏として本尊弥勒菩薩像及び30数体の仏像を安置したが、本尊以外の仏像は享保10年(1725年)の時点で忘れ去られ、既に失われたと考えられていた。これらの諸仏が再発見されるのは戦後の事である。文政3年(1820年)隣家からの類焼により三重塔が焼失した。一山寄合のうえ、文政8年(1825年)幕府に再建願いを出して許され、文政13年(1830年)完成した。なお、本尊の大日如来は焼失を免れた。慶応4年/明治元年(1868年)1月戊辰戦争が勃発すると、2月頃から佐幕派の庄内軍が寒河江に駐屯するようになる。しかし、3月仙台に奥羽鎮撫総督及び新政府軍が入ると庄内軍はいったん引き揚げ、4月には仙台藩を主力とする官軍が入る。慈恩寺では天童に宿泊する副総督・澤為量に見舞いを出して様子をうかがっている。4月25日から26日にかけて、庄内軍千余名が慈恩寺に宿泊し官軍をけん制していたが、閏4月4日庄内軍は最上川を越えて天童に攻めかかり230戸余を焼き討ちしたのち庄内へ撤退した。8月1日米沢・上山・山形・天童の各藩が官軍となり、慈恩寺に砦を築きたいと地所借りを申し出、日和田(現:寒河江市大字日和田)の楯に砦を築いた。9月20日寒河江に駐屯する庄内軍・桑名軍と官軍が戦闘におよび、庄内軍から慈恩寺を本拠地として抗戦すると申し出があったが、結局慈恩寺は戦火に巻き込まれず、庄内・桑名軍は庄内へ撤退した。なお薩兵隊を率いた西郷隆盛・黒田清隆は白岩から慈恩寺を通って新庄方面へ進軍した。明治元年(1868年)に神仏分離令が出され、明治4年(1871年)には寺社領の返上を求める上知令が出された。また明治5年(1872年)修験禁止令が出され、慈恩寺修験の諸行事は行われなくなり一山は困窮の極みに達する。困窮した坊は帰農し、神仏習合の典型であった修験は姿を消すことになった。しかし、明治14年(1881年)「行者会」を結成し、年1回当番宅へ集まり山伏の服装をしてお経を唱え山伏料理を出して修験の遺風を今日に伝えている。明治43年(1910年)法令改正により、華蔵院は智山派総本山智積院の本寺、宝蔵院も智積院の末寺、最上院は比叡山延暦寺の末寺となる。同年乃木希典大将が拝観し、招魂碑を揮毫した。三重塔脇に石碑が残る。昭和27年(1952年)慈恩寺は天台真言両宗慈恩寺派として独立することになり、昭和47年(1972年)慈恩宗大本山慈恩寺として独立した。各院坊の住職は、真言方は宝蔵院・華蔵院で修行し位階を取得、天台方は最上院で修行し山寺立石寺で伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受けて僧侶としての位階を取得する。昭和35年(1960年)明治5年以来88年間途絶えていた柴燈護摩会(さいとうごまえ)が復活した。以前の作法を元にしながら、宝寿院流にのっとった方法で行っている。昭和54年(1979年)の文化庁文化財主任調査官鷲塚泰光の来訪を端緒として悉皆調査が行われ、享保10年(1725年)の時点で既に失われたと思われていた平安時代の仏像について、発見・文化財指定に至った。平成4年(1992年)山形県で行われた「べにばな国体」に合わせて秘仏開帳が行われた。平成22年(2010年)慈恩寺国史跡指定推進委員会を設置し慈恩寺文化財の基礎調査を開始する。平成23年(2011年) - 平成25年(2013年)にかけて慈恩寺調査検討委員会を設置し、学術的裏付け調査・史跡範囲の確定・総合報告書作成を行った。また同時に史跡範囲の地図作成・地権者の同意を得た。平成26年(2014年)3月「未来に伝える山形の宝」(10選)のひとつに選定された。平成26年(2014年)1月29日寒河江市教育委員会から文化庁に対し国史跡指定にかかる意見具申書を提出し、同年10月6日付で「慈恩寺旧境内」の名称で国の史跡に指定された。平安時代に作成された仏像14躯、鎌倉時代に作成された仏像29躯を現在まで伝え、岩手県の中尊寺、福島県の勝常寺と並んで、当地方を代表する寺院である。慈恩寺は3ヵ院48坊からなる一山寺院を形成し、鎮護国家、除災招福を祈願する寺院であった。一山を代表する支配職は、真言方は宝蔵院・華蔵院、天台方は最上院の3ヵ院で、所属の院坊をまとめ、幕府など大檀那への年礼を主とした。現在は3ヵ院17坊が一山を支える。創建当時の姿を知るには今後の研究を待たねばならないが、天仁の再興以後の伽藍については文献等により垣間見ることができる。天仁の再興では釈迦堂、阿弥陀堂、丈六堂が築造され、続いて仁平の再建では妙楽院弥陀堂、鐘楼、講堂、宝蔵、二王門、中門、廻廊、温室などが築造されたという。これらは永正の兵乱(1504年)を経て全て焼失してしまっている。現在の伽藍は本堂を中心として東から阿弥陀堂、薬師堂、本堂、天台大師堂、釈迦堂の順番に並ぶ。瑞宝山慈恩寺堂社之目録(是古来目録也)を元に1504年以前の伽藍を記載する。山形県で開催された「べにばな国体」に合わせて公開された。6月1日から7月21日まで公開され、慈恩寺開山千三百年、寒河江市市制施行60周年、山形デスティネーションキャンペーンに合わせて行われた。拝観料一般800円、団体(20名以上)500円。公開された秘仏は以下の通り。ほか5月23日から7月20日まで「慈恩寺の美仏と阿弥陀仏たち」が開催された。拝観料一般700円、団体(20名以上)500円。公開された仏像は以下の通り。6月1日から7月18日まで「天台大師と慈恩寺修験」が開催される。拝観料一般600円、団体(20名以上)400円。中学生以下無料。公開される仏像などは以下のとおり。ワシントンで開催された国際彫刻展に十二神将立像から卯神将と巳神将が出展された。横浜市立博物館で開催された企画展「中世の世界に誘う 仏像 院派仏師の系譜と造像」に薬師如来及び両脇侍像が出展された。東京国立博物館で開催される特別展「みちのくの仏像」に十二神将立像から丑神・寅神・卯神・酉神の4体が出展された。イタリア・クイリナーレ宮美術館で開催される日本仏像展に十二神将立像から丑神・巳神・戌神・亥神の4体が出展される。2012年より『悠久の里 慈恩寺コンサート』を境内で行う。境内へは無料で入ることができるため、重要文化財である本堂・山門・三重塔などの外観は自由に拝観することができる。慈恩寺の所在する旧慈恩寺村は江戸時代をとおして慈恩寺の寺領であり、明治22年に町村制が発足すると日和田村・箕輪村と合併して醍醐村となった。昭和29年他の村とともに寒河江町と合併し寒河江市の一部となっている。

出典:wikipedia

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