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佐古地区

佐古地区(さこちく)は、徳島県徳島市の中心部にある行政上の地区である。徳島市中央部に位置し、都心(中心市街地)北西に接する。北から北佐古・佐古・南佐古・佐古山町の4町が並ぶ。ただし佐古地区の境界は町境に沿っておらず、佐古・北佐古・南佐古のそれぞれ一部は佐古地区ではない。4町はおおよそ、JR徳島線・佐古川・眉山山麓を境とする。国道192号(伊予街道)を中心に都市化が進んでおり、人口も集中している。192号線が通る以前は、旧道である讃岐街道が佐古地区の中心道路(佐古町・佐古本町)であり、江戸時代は布屋や染色業者など新興商人が多く軒を並べている。佐古駅周囲には、大手スーパーのキョーエイをはじめ、ボウリング場(ダイヤレーン)やゲームセンターなど、若者のレジャースポットとなっている半面、治安の悪い面もある。商業施設だけでなく、企業や専門学校なども多く構えており、徳島駅に近いという意味でも交通が便利であり、人口も非常に増え続けている。地域には佐古愛日連(あいじつれん)という阿波踊りの連がある。1882年(明治15年)10月に創立。佐古小学校の生徒を中心に、佐古に住む人々が阿波踊りを地域で一体となり楽しむべく結成された。佐古小学校の別称である「愛日」からこの名がついた。愛日とは、古代中国の名言で「時日を惜しんで学ぶ」という意味。2011年6月1日。徳島市の調査より。「サコ」とは、柳田邦男の『地名の研究』(1948) によると「一つの水流の岸が連続して平地を作っている所」、『阿波志』によると「山谷で水がないもの」という。佐古地区は近世以前には鮎喰川の氾濫原で、洪水時に鮎喰川が佐古川を流れ流域は水害に遭っていたが、徳島城築城時に鮎喰川右岸(南東岸)に築堤され、鮎喰川が流れてくることはなくなった。その後、吉野川中流域を経て伊予まで伸びる街道が整備され、その両側が佐古町(現 佐古南部)となった。さらに南北の平行な通り沿いに中級・下級藩士の武家地が造られ、狭義にはこれを佐古と呼び、また周辺の農村と合わせて佐古町と呼んだ。1812年の『島々丁名改目録』によると、以下の町があった。明治初期、(広義の)佐古には、街道沿いの佐古町とその両側の佐古村があった。佐古村の佐古町より北の部分と南の部分は繋がっていたが、1880年から1881年にかけ佐古村の一部が佐古町に編入され、佐古村の北と南が分断されたので、1881年、南側は南佐古村に分離された。1889年の市町村制施行により、これら1町2村は徳島市に組み入れられ、佐古町・北佐古町(旧 佐古村)・南佐古町(旧 南佐古村)となった。市制施行時(直前?)の人口は、佐古町が4998人、佐古村が5131人、南佐古村が1042人で、計1万1171人だった。大正時代までは、鮎喰川水系の地下水を利用した酒造や染色工業が盛んだったが、大恐慌で衰退した。1941年、小字が廃止され町名と丁目だけで呼ぶようになった。短い裏通りが小字から独立した町となり、が並んだ。1953年、国道192号が拡幅され、これ以降、この道が地区の本通りとなった。1964年、現在の町割となった。大まかには(このほかにも細かい変更があるが)、北佐古町の一部が北佐古、南佐古町が南佐古となり、北佐古町の一部・新佐古町・中佐古町・上佐古町・佐古町・東佐古町が佐古となった。地区の南端一帯は眉山で、眉山北斜面(南佐古・佐古山町・南蔵本町1~3丁目)は「佐古山」とも呼ばれる。東端には新町川が流れており、その支流である佐古川が地区の南部を流れている。

出典:wikipedia

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