ヌマ・ドニ・フュステル・ド・クーランジュ(Numa Denis Fustel de Coulanges、1830年3月18日 - 1889年9月12日)は、19世紀のフランスの中世学者。祖先はブルターニュ出身で、父や祖父は海軍士官をつとめた。パリで生まれ、生後1年3ヶ月で父を失う。1853年にエコール・ノルマル・シュペリウールを卒業すると同時に、アテネ・フランス学院の研究生に選ばれ、2年間をアテネで遊学した。この期間で彼がもっとも好んで訪れたのはキオス島であり、それは処女作「キオス島についての覚書」として結実した。帰国後、5年間を中学教師として過ごし、1860年にはストラスブルク大学の教授に任命された。代表作『古代都市』(『La Cité Antique』)は、大学で行われた連続講義によるものであったが、当時クーランジュは無名であり自費出版で600部が公にされたに過ぎなかったという。1870年に文相であり歴史家でもあったヴィクトール・デュリュイに推薦されて、母校のエコール・ノルマルの教授に任命され、ついで1875年にソルボンヌ大学に転じ、1880年にはエコール・ノルマルの校長となり、1883年にソルボンヌに復帰した。学問上の刻苦勉励、過労により病を得て59歳でパリに没する。クーランジュの著作群と研究方法は2つに分けられる。クーランジュは自身の方法を「デカルト的懐疑を史学に適用したもの」と語っている。彼の掲げた史学研究のモットーはであった。クーランジュの文献資料に関する知識は当時としては最高であり、その解釈についても他人の追随を許さなかった。しかし、彼は古代作家を無批判に信頼し、原典の信憑性を確認せずに採用した。さらに通説にことさらに反対する傾向があった。クーランジュの文体は明晰かつ簡明であり、事実と推理のみをあらわし、当時のフランス史家の悪弊であった「漠然とした概括」や「演説口調の慣用語」から脱却していた。後にティボーデは「クーランジュは歴史記述の文体を改革した」と評した。クーランジュは、「フランス中世の領主は、征服者であるゲルマン人の子孫であり、農奴は征服されたガリア人・ローマ人の子孫である」という俗説を批判した。さらに侵入したフランク人は制度をもたらすことはなく、フランク王国の制度や法はローマに起源を持つものである、と主張した。タキトゥスが『ゲルマニア』で述べているような民会は存在しなかった。自由なるゲルマン国家が専制的なローマ帝政に取って代わったという説は誤りである、と。「封建制度」の起源についてクーランジュは、ローマの土地制度がフランク王国において継続された、と考えている。フランク王国に土地共有制が行われたという通説は誤っている。したがって封建制度はローマ的でもなければゲルマン的でもない。それは政治組織から生まれたのではなく、個人生活の習慣から生じたものである。これらの学説の多くはロマニストの見解と同じであり、その後の歴史研究によって斥けられはしたが、クーランジュが論破した俗説もまた復活することはなかった。
出典:wikipedia
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