松山 昇(まつやま のぼる、1932年7月20日 - )は、大阪府藤井寺市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。興國商から1952年に広島カープに入団。 3月22日の松竹ロビンス戦で初登板。1回に金山次郎、綱島新八、小鶴誠を三者連続三振に仕留めて、派手にデビューした。しかし、成績は振るわず19試合を投げて1勝5敗、防御率5.24だった。2年目も未勝利に終わり苦しいピッチングが続いた。3年目となった1954年は1月にフィリピン遠征のメンバーに名を連ねていたが、旅費不足が原因でメンバーから外れた。前年オフに故郷で壮行会が催され、盛大に送り出してもらっていたため地元に帰るにも帰れず、一人で合宿場「向陽荘」に寝泊まりし、同僚の長谷部稔らと共に比治山で自主トレに励んだ。その自主トレで制球力を鍛え、新たにシンカーを投げられるようになったことで松山は大きく変わった。この年の開幕から6月までに9連勝を含む10勝をマーク。その後も勝ち続け18勝をマーク。エースだった長谷川良平や大田垣喜夫とも肩を並べるほどの投手に成長した。1955年も10勝をマークし、この年の4月14日の中日ドラゴンズ戦ではノーヒットノーランまであと少しだったが、9回に1軍初出場だった代打の中利夫に投じた外角際どいシュートをセーフティーバントで安打にされ、惜しくも逃した。1956年以降は肩、肘を相次いで故障したこともあり不調が続き、1958年に26歳の若さで引退した。
出典:wikipedia
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