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落語協会分裂騒動

落語協会分裂騒動(らくごきょうかいぶんれつそうどう)とは、1978年に、江戸落語の団体である落語協会において、当時の協会長5代目柳家小さんらが行った真打大量昇進に反発し、前会長で同会顧問の6代目三遊亭圓生が脱退して新団体の落語三遊協会を設立した事件。1965年から1972年まで落語協会会長を務めた6代目三遊亭圓生は、真打昇進の基準をそれまでよりも厳しくして僅かな者しか真打にさせなかった。当時の落語協会では真打昇進に師匠・協会長・席亭全体の承認を必要条件としていたが、実際には会長または顧問の専断で決定していた。1972年に圓生が顧問に退き、後任として5代目柳家小さんが会長となった。小さんは5代目三遊亭圓楽や7代目立川談志などを新理事に登用し、また理事会での合議制を導入した(圓生会長時代は、理事会に決定権はなかった)。小さんが会長に就任した時点で、二つ目を10年以上勤める者が40人にまで膨れ上がっていた。その中には圓生の弟子も二人いた。三遊亭さん生(後の川柳川柳)と三遊亭好生(後の春風亭一柳)で、この騒動で思わぬ伏兵となる(後述)。真打になかなかなれず不満が募りつつあった二つ目の処遇が課題となり、小さんは5代目圓楽に二つ目たちを集めて話を聞くように指示した。彼らから「真打になりたい」という意見が次々に出され、圓楽は小さんに大量昇進を進言した。そこで1972年の理事会で、翌年(1973年)の3月と9月に10人ずつ、合計20人を真打に昇進させることが提案された。圓生は「安易に真打昇進させるべきでない」と主張して反対したが、理事会の賛成多数で大量昇進が可決された。落語家としての圓生は、5代目古今亭志ん生や8代目桂文楽などと並び、20世紀を代表する名人の一人である。また他の落語家に先駆けて膨大な量の落語を録音するなど、落語の近代化や古典落語の記録に果たした役割も大きい。しかしながらその人柄については存命当時から評価の分かれるところで、他の落語家等との人間関係は良いものではなかったと言われている。当時の落語協会会長の小さんは「(一人前の落語家としての)真打はスタートライン」と考えており、長い間二つ目の落語家は真打にしてやればよい、昇進したら後は売れるも売れないも自己責任という考え方であった。一方で圓生は、「真打は落語家の最終目標である」として、実力が劣る、あるいは伸びない者は二つ目のままで昇進させずに真打育成のシステムから脱落させる、その結果一生二つ目のままの者や落語界から消える者を出しても構わない、いわば真打を“修業と研鑽の末に芸道を極めた者に与えられる地位”とする考え方であった。実際、圓生という人物について弟子の5代目圓楽は「芸のこととなると、信じられないほど冷酷無残になる」と評している。他方で、そもそも当の圓生本人にしても、19歳で真打になった時には落語家としての評価は低く、実力というよりは義父の5代目圓生の力添えで昇進したと周囲に受け取られており、自分と他人とで昇進の基準が違うのではないかという批判もあった。真打昇進に関する圓生の立場と小さんの立場は、かつては必ずしも矛盾するものではなかった。落語協会では第二次世界大戦終戦後から1970年頃までは、実力優先で抜擢人事を行いつつも、芸の拙い者も「親孝行者だから」「良く師匠の世話をするから」といった理由をつけて数年遅れで真打昇進させる仕組みになっていた。しかし入門者が増えて落語家自体の頭数が多くなったために、圓生会長期の末期から小さんが会長になった1970年代には従来の仕組みが破綻してしまい、圓生の理想通りに「真打に成れない者を大量に発生させる」か、現役会長の小さんの方針通りに「大量に真打昇進させる」の二者択一を迫られていた。また、圓生は、古典落語・新作落語の別を問わず人気先行で芸を磨く事を怠る芸人を嫌い、「草花は綺麗だが1年で枯れるしそればかりでは花壇になってしまう。日本庭園の松の木の様なしっかり磨いた芸を育てなければ」と語っていた。芸を磨く事に不熱心と圓生自身が判断した落語家たち(特に初代林家三平とその一門など)を徹底的に否定し、会長時代は冷遇していた。また当時圓生は正月興行のトリを除いてほとんど寄席に出演をしなくなっており、席亭との関係も極めて希薄となっていた。このことは後述のように、分裂騒動が勃発した際には新作落語の落語家たちの身の振り方の選択に影響を与え、新団体の処遇を巡る席亭の会議でも、新宿末廣亭席亭・北村銀太郎の意見に従う形で、4つの落語定席(新宿末廣亭、浅草演芸ホール、鈴本演芸場、池袋演芸場)すべてが圓生の新協会設立に反対するその遠因になった。理事会の決定で1973年に20人の真打昇進を行った後、1974年から1978年の春までに真打昇進した落語家は6名しかおらず、落語協会では再び二つ目の落語家が溜まりつつあった。そこで会長の小さんと常任理事の3代目三遊亭圓歌、4代目三遊亭金馬、5代目春風亭柳朝は、1978年5月8日の落語協会定例理事会で、同年秋に10名を真打昇進させることを提案した。6年前の理事会で20名の昇進を決めた時と同様、顧問の圓生は「安易に昇進させるべきでない」と反対したが、またも賛成多数で可決された。すると圓生は、上記の常任理事3名を解任し、「自分の言うことをきく若手の理事3名(5代目圓楽・7代目談志・3代目古今亭志ん朝)を常任理事に昇格させろ」と要求した。しかし会長の小さんは、「圓楽ら3名の登用は認めるが後の3名は解任しない」と突っぱね、逆に常任理事を3名から6名に増やすことで対応しようとした。圓生はその日のうちに落語協会脱退を決意した。圓生は自分だけやめてフリーランスになるつもりであったが、圓楽は「師匠がやめるなら私もやめます」と言い、圓生の決意を談志と志ん朝に伝えた。談志はかねてから第3の団体を設立し、落語協会、落語芸術協会と新団体で1ヶ月のうち10日ずつ寄席を担当するという案を抱いていた。談志とそれに賛同する圓楽は、圓生の落語協会脱退を絶好の機会だと考え、圓生の同意を取り付け、志ん朝も誘って新団体設立に動き始めた。圓生は5月12日に総領弟子の圓楽を除く弟子達を集め、落語協会を脱退することを伝えた。しかしこの時点で弟子達の大半には新団体のことを知らせておらず、圓生が単独で脱退し、弟子達は落語協会に全員残留、真打になっていない者と特に希望する者は圓楽の弟子となるようにと伝えていた。一門全員で脱退して新団体を設立するという話が圓生門下の全員に知らされたのは3日後の5月15日のことであった。談志と圓楽は新協会の参加者集めに着手した。まず7代目橘家圓蔵を引き入れた。次に色物として、漫才師の春日三球・照代と手品師の伊藤一葉に参加を呼びかけ、承諾を得た。また圓楽は桂歌丸、2代目桂小南ら落語芸術協会所属の噺家にも参加を呼びかけ、賛同者を増やそうと動いていた(両者とも参加せず、結局落語芸術協会からは誰も新協会には参加しなかった)。ここに分裂騒動が勃発する。落語協会定例理事会が行われた16日後の5月24日に、圓生は、東京都港区の赤坂プリンスホテルで、5代目圓楽、志ん朝、7代目圓蔵、圓蔵の2番弟子5代目月の家圓鏡(後の8代目橘家圓蔵)と共に記者会見を開き、落語協会を脱会して、第3の団体・「落語三遊協会」を設立することを発表する。圓生は、脱会して新団体設立に到った理由として「真打の乱造による落語の低質化」を問題として挙げた。当時そうした落語の低質化が嘆かれていただけに、圓生の訴えは落語ファンだけでなく一般人の心も掴み、小さんら落語協会執行部に対する批判が噴出した。こうして新団体は世間の後押しを受けることに成功したが、この時点で既に誤算続きであった。圓生は落語協会所属者の半数以上が新団体に移り、これにより寄席の席亭からも了承を得られるものと予想していたが、参加を見込んでいた10代目金原亭馬生一門、初代林家三平一門、立川談志一門などが記者会見以前に落語協会残留を決めており、また圓生の直弟子である三遊亭さん生と好生も不参加を表明していた。会見後も有力な参加者は現れず、結局「落語三遊協会」は主に圓生、志ん朝、圓蔵一門だけの規模の小さな団体となってしまった。落語芸術協会は、新協会設立によって芸術協会の寄席出演機会が減らされることに強い危機感を持った。芸術協会会長の4代目桂米丸は「これまでも馬鹿にされてきたが、今度は死活問題だ。成田の学生を連れて来てでも戦う」と述べている。以前にも圓生会長時代の落語協会に浅草演芸ホールの正月初席を奪われるといった被害にあっていた落語芸術協会は、組織として新協会に強く反対した。5月25日、新宿末廣亭で東京の4つの寄席の席亭会議が開かれた。鈴本演芸場(上野)は新協会に賛成であったが、新宿末廣亭(新宿)席亭・北村銀太郎が「一見良さそうな顔ぶれだが一握りの売れっ子と無名の若手しかおらず、層が薄い」と指摘し、圓生をはじめとする売れっ子がテレビ出演や地方興行の仕事で寄席を休んだ場合に適当な代演者がいないため、10日間の寄席興行を満足に運営できないだろうという理由で反対した。また、北村は、真打昇進に関しては、もともと小さんに近い考えを持っていた。上述の圓菊の「オンブ真打」が実現したのも、志ん生から懇請された北村の強い後押しがあったからである。各席のうち、浅草演芸ホール(浅草)と池袋演芸場(池袋)は新宿に白紙委任に近い状態で、新協会の側に立とうとしたのは鈴本だけだった。しかし、鈴本も意見を撤回して新協会反対に回り、4席亭の総意として「新団体・落語三遊協会の寄席出演は認めない。席亭会議は圓生が落語協会に復帰することを勧告する」という声明が出されるに至った。これが決定打となり、圓生に吹いた追い風は、新団体設立発表から1日で止まってしまった。当時、落語三遊協会への参加を有力視されながらも実際には参加せずに落語協会への残留を選択した落語家には、それぞれに不参加の理由・事情・思惑があった。林家三平は、圓生とは落語観が根本的な部分から噛み合わないため、圓生が率いる新団体に移籍しても冷遇されるだけだと判断して不参加を決めた。三平門下の当時若手真打であった林家こん平も師匠に全面的に付き従う形で不参加を選んだ。10代目金原亭馬生は、小さんなど落語協会側の慰留を受け、自身の年齢などの要素も考慮して参加を見送った。7代目立川談志は新団体設立の発表直前の段になって急遽参加を取り止めた。彼はそもそも新団体設立の発案者であり、「新団体の次期会長は自分だ」という自負を持っていた。しかし圓生に確認したところ古今亭志ん朝が参加することになっており「次期会長は志ん朝」と言われたことで協会残留へ翻意したとされる。談志は、もともと後輩の志ん朝に真打昇進で先を越され、香盤で下位に甘んじていたことを遺恨に思っており、新団体設立の功績により香盤で志ん朝の上位に返り咲こうとしたのである。そもそも新団体設立構想自体が香盤で志ん朝を追い抜くための陰謀だったという説さえあるが、これはさすがに邪推であろう。新宿末廣亭席亭・北村銀太郎も「下司の勘ぐりみたいになる」「そんなことは談志にしかわからない事」と語っている。ただ、談志が新団体の香盤で志ん朝の下位とされたことが不満だったために新団体への参加を取りやめたのは事実である。そして、圓生自身の門下からも不参加者が出た。2番弟子三遊亭さん生は経緯をまったく知らされておらず、「圓生個人が脱退」という話から一転して「圓生一門を中心に新協会設立」と変わったことから、5代目圓楽に対する強い不信感を抱き、参加しなかったと自著に記している。3番弟子の三遊亭好生も同様に経緯を知らされておらず、新団体に参加しなかった。さん生はもっぱら新作落語を演じていたこと、好生は「圓生の影法師」と言われるほど師匠の芸風に似てしまったことが原因となり、以前から圓生に疎まれていた。両名は生え抜きの圓生門下であるにも関わらず、真打昇進に当たっての改名で、三遊派の落語家の原則である「圓」の一字を用いた芸名の使用を許されず、弟子入りに当たって命名された「生」(圓生の偏諱)の字の入った芸名を名乗り続けざるを得なかった。また8代目春風亭柳枝門下から移籍した6番弟子6代目三遊亭圓窓や4番弟子三遊亭圓彌に真打昇進で先を越され、また5代目圓生追善会で口上から外されるなど、徹底的に冷遇され続けていた。この様に、三平(およびこん平)・談志・さん生・好生などが不参加を選択した経緯にはいずれも圓生の圭角のある人柄や芸に対する信念が要因として絡んでいる。北村も圓生について「芸域の広さでは当代一だったが、人間性が芸のレベルに及ばなかった」と評価している。当時の落語界のスターであった三平・談志や『笑点』へのレギュラー出演で知名度を得ていたこん平の不参加は多かれ少なかれ痛手となるもので、北村が指摘した「層が薄い」という新団体の弱点にさらに追い打ちをかけることになった。新団体三遊協会を立ち上げようとした者が事前に目論んでいた構想については、上述もされているが、まとめればおおむね以下の様なものであった。しかし、4席亭連名によって出された「新団体の寄席出演を認めない」という声明は、三遊協会参加者にとっては参加予定で計算していた中からの不参加者の続出により想定外に少数派の団体となったという誤算に追い打ちをかける事態で、もはや当初描いた構想が完全に崩壊したことは誰の目にも明らかだった。実際、席亭会議による声明の直後には、たまらず志ん朝と圓鏡が圓生のもとを訪れており、寄席に出られないのでは弟子の育成ができないという理由で、一緒に落語協会に復帰しようと説得を試みた。しかし圓生は今さら戻っては体面が保てないとして拒絶した。結局、圓蔵・圓鏡一門と志ん朝一門は数日も経たぬ内に新団体を離脱し、落語協会に戻ることを決めた。その後も席亭らによって圓生に落語協会復帰の働きかけがあったが、圓生は最後まで説得に応じなかった。落語協会会長の小さんは当初、復帰者に対する処罰を考えていた。しかし、これを聞いた北村銀太郎が「今回の騒動は落語協会の現執行部にも責任がある。復帰組を処罰するのであれば小さん以下執行部も総辞職しないと釣り合いが取れない」と反論し、処罰なしで復帰を受け入れるべきだと主張したため、小さんもそれに従い復帰者は処罰なしとなった。圓生の意向に背いて落語協会に残留したさん生・好生は、既に5月17日に破門を通告されており、5月28日に強制的に芸名を返却させられた。さん生は落語協会長小さんの一門に移籍し川柳川柳と名乗った。好生は圓生と不仲だった8代目林家正蔵(後の林家彦六)の一門に客分格として移籍し春風亭一柳に改名したが、「春風亭」の亭号使用許可を与えたのは、これまた新作落語のスペシャリストという事情から圓生とは折り合いの良く無かった当時の落語芸術協会副会長の5代目春風亭柳昇で、正蔵の依頼もあり柳昇は所属団体の枠を超えて好生救済のために一役買ったのであった。6月1日、「落語三遊協会」はわずかに圓生・圓楽の一門だけでの寂しい発足となった。旗揚げ公演こそ6月14日に上野本牧亭で行ったが、その後は4つの落語定席から締め出され、後援者の招きなどを中心とした公民館やホールなどでの公演・余興のみで活動することを余儀なくされた。三遊協会の顔として圓生は休む間もなく仕事を続けた。だが、1979年9月3日、79歳の誕生日に千葉県習志野市の習志野文化ホールで開かれた落語三遊協会後援会発足式で、小噺『桜鯛』を口演した直後の楽屋で急性心筋梗塞を発症して倒れ、病院に搬送されたものの急死するという突然の幕切れとなった。寄席出演の目処も立たぬまま公演会や余興に全面的に頼ることを余儀なくされるなど苦境が続いていた落語三遊協会は、会長圓生の突然死によって精神的主柱を失い事実上崩壊する。残された門下の落語家はその後も紆余曲折を経た末についには落語三遊協会を正式に解散し、圓生夫人の山崎はなや遺族の口利きという形で1980年2月1日付で落語協会に復帰する運びとなった。こうして1年以上続いた分裂騒動は終止符が打たれた。ただし、後述するが圓楽だけは落語協会への復帰を拒絶し、一門弟子と共に独自の道を歩むことになった。落語協会における旧落語三遊協会からの復帰者への表立っての制裁といえるものは、圓窓が香盤を一枚下げられたことのみであった。ただし、三遊亭旭生など圓生直門の前座・二つ目の復帰者は全て師匠無しの協会預かりの身分とされた。これは三遊派の本家本流とも言えた圓生一門を落語協会が事実上“解体”することを意味するもので、圓生の遺された弟子を兄弟子が引き取れないというのは圓生一門に対する事実上の制裁であった。また、旭生は分裂騒動前に内定していた真打昇進と新団体設立後に改めて内定した真打昇進が、騒動の一連の混乱でいずれも白紙となってしまった。余談ではあるが、この旭生改め圓龍は翌1981年3月に落語協会で真打に昇進するが、これは当時42歳、入門から16年掛けての悲願叶っての真打昇進であった。また、志ん朝・圓鏡など短期間で落語協会に復帰した者たちも含めて「復帰組」はいずれも落語協会内部での発言力を大きく失うことになった。入門から僅か5年で真打ちになるなど異例の才能として若くして頭角を表し、分裂騒動までは落語協会のホープとして遠からず協会の牽引役となることを期待されていた志ん朝も同様で、この一件以後は組織内部の政治的な向きには距離を置いて高座に専念し続け、2001年63歳で没するまでに協会で務めた主な役職は晩年の5年間の副会長のみであった。この騒動の結果は形式的には落語協会側の一応の全面勝利と言えるが、いずれにしても落語協会・三遊協会参加者・圓生に近い立場で落語協会残留を選んだ者、のいずれにとっても実りのない落着であり、騒動の後遺症ともいえるギクシャクした人間関係は落語協会内部のみならず落語界の中で長い間尾を引き続けた。分裂騒動後の反省から落語協会は1980年10月2日に、大量真打昇進制度に代わる新制度「真打昇進試験」を導入した。しかしある回は全員合格、ある回は過半数が不合格というように基準は不明瞭なものであった。このような状況の下、1983年に理事・談志が試験制度の運用に異議を唱えて脱会した。この年の昇進試験は受験者10名中合格者4名で、談志門下の立川談四樓、立川小談志(後の4代目喜久亭寿楽)が不合格とされたことで、合否基準に異議を唱えた事が発端である。談志は自らを家元とする落語立川流を立ち上げ、真打・二つ目の昇進に厳格な試験制度と基準を設けるという自らの持論を実践に移した。1987年の真打昇進試験では、初代林家三平の息子で親の七光りと揶揄されていた林家こぶ平(後の9代目林家正蔵)が合格した一方で、多数の受賞歴があり、芸を高く評価されていた古今亭志ん八(後の古今亭右朝)が不合格となった。しかし、席亭たちは結果に承服せずに落語協会に強く抗議したところ、協会側は急遽追試を行い、志ん八を合格させた。これにより真打試験は無価値となり、同年を最後に試験制度そのものが廃止された。以後落語協会では、柳家花緑、林家たい平、柳家喬太郎など数人の抜擢を例外とすれば、真打昇進については香盤を基本とする年功序列の順番がストレートに反映されることとなった。現在の制度は今のところ不満なく動いている。ただし、いまなお真打昇進について圓生の考え方を支持する者も少なくない。圓生没後、直弟子たちが落語協会に復帰する中、5代目圓楽だけは落語協会に復帰しなかった。他の脱退者と同様に復帰の話はあったが、悩んだ末に「出戻りになる上、協会の実力者であった師匠が亡くなってしまっては戻っても冷や飯を食わされるのは確実」と復帰しない道を選んだ。一門弟子たちもこれに同調し、圓楽は1980年2月1日に一門弟子を集めて、新団体大日本落語すみれ会を設立。これはその後数回の改名を経て、円楽一門会として存続している。圓生が大量真打昇進による落語の質の低下を問題視して落語三遊協会を設立したが、円楽一門会では真打昇進の基準を入門から8年程度としており、これは落語協会や落語芸術協会で入門から真打昇進に要する平均15年のおよそ半分である。「真打は芸道を極めた者だけが到達できる最終目標であるべきで、一生真打になれずに脱落する者が大量に出ても構わない」という圓生の信念は、円楽一門会にも引き継がれなかったと言える(5代目圓楽はもともと「売れる売れないは誰にも予想できない。いつまでも真打にさせなかったら大器晩成型の芸人が花咲かぬまま終わるかもしれないし、上が昇進しないと下がどんどんつかえてしまう」との考えから真打昇進については圓生と正反対の考えを持ち、むしろ小さんの立場に一定の理解を示していた)。1980年7月、圓生の元3番弟子春風亭一柳は著書『噺の咄の話のはなし』を発表し、その中で圓生に対する痛烈な罵倒を記していたことから世間を驚かせた。しかし、その後一柳は精神を害し、翌1981年7月9日に飛び降り自殺してしまった。その悲惨な死については、兄弟子の川柳をはじめ少なからぬ者が圓生との対立などの長年の心労の蓄積が引き起こしたと見ている。1986年4月、同じく圓生の7番弟子三遊亭圓丈が著書『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』を発表、自身の置かれた視点から分裂騒動を描き分析している。その中において、首謀者は兄弟子5代目圓楽であるとし、旧圓生一門を分裂させた分裂騒動とその後の混乱の責任は、落語三遊協会の事実上の中核となる位置を独占しながらも周囲の信頼や求心力を自ら失う様な行動を取り続けた圓楽にあると非難している。圓生は自ら引き起こした分裂騒動で、自らの一門を事実上の空中分解に追い込んでしまった。「圓生」の名跡も遺族らにより「止め名」として封印され、誰も継げなくなってしまい、現在まで圓生は空き名跡のままである。1998年からは圓生の命日にあわせて三遊亭圓窓一門と圓楽一門が共同で「六代目 圓生物語」という興行を始めるなど歩み寄りが見られたが、2001年は圓楽一門が「圓生物語」をキャンセルし、単独で二十三回忌追善興行を行ったことから、両者の関係修復は白紙に戻った。5代目圓楽は、圓生の名跡を鳳楽に継がせたい旨を生前に明言しており、圓生の遺族の一部の同意を取り、圓生三十三回忌を目処に襲名する方向で調整していた。しかし落語協会に戻った圓生の直弟子などから「孫弟子が『圓生』の名跡を継ぐのは筋が通らない」との反発があり、圓丈が圓生襲名に名乗りを上げた。その後、圓生の件とは別にさらに別の遺族が圓窓に襲名させたいと表明するなど、名跡問題は落語協会所属の圓生系の弟子、圓楽一門会の弟子、さらには周辺関係者が入り乱れ対立し混迷したが、結局、この際には誰も7代目を襲名せず収束した(三遊亭圓生#7代目圓生襲名問題)。圓生死後も協会を脱退したままで活動を続ける5代目圓楽一門の存在により、定席に出演せずホールや会館などで活動することで、東京の落語においても「フリーランスの落語家」の活動が可能であることが明らかとなった。これが、後年の談志一門の脱退や、完全フリーランスの落語家(2代目快楽亭ブラック等)の登場にも繋がってゆく。落語協会脱退後、圓楽の一門と圓丈の一門は袂を分け、2010年に6代目圓楽が襲名してからも特段の交流はなかったが、2013年の圓丈の著書「落語家の通信簿」について6代目圓楽から誤認の箇所があるとの指摘があり増刷時に修正したのを機に両者で意気投合し、2014年3月より合同落語会「三遊ゆきどけの会」を開催している。騒動の7年前、ザ・ドリフターズは映画「春だドリフだ全員集合!!」(1971年、松竹)で、この騒動の予言とも言えるストーリーを展開している。この映画では圓生、小さんを俳優として起用している。特に圓生はドリフと並ぶ準主役の座を与えられている(セリフの数も多い)。圓生は“落語協団”幹部である大看板の落語家で、いかりや長介はその弟子で二つ目という役。小さんは同協団の会長。ラストシーンでは落語協団幹部が旅館で会合を開き、圓生が弟子いかりやの真打昇進をもちかけるが、その瞬間にいかりやとドリフメンバーがテロリスト用の爆弾を持って乱入。幹部を爆弾で吹き飛ばすという落ち。最後に、圓生が、小さんに対し手をついて、「この責任を取って今日限りで落語協団を辞めます」と告げる。この映画を再発見したのは2代目快楽亭ブラックである。ブラックの発言を受け、2007年にシネマアートン下北沢の落語映画特集の一本として当作が取り上げられた。ビデオはVHSカセットで松竹ホームビデオから発売されている。

出典:wikipedia

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