野田 豁通(のだ ひろみち、天保15年7月24日(1844年9月6日) - 1913年1月6日)は、日本の武士(熊本藩士)、陸軍軍人、陸軍経理組織の創設者。最終階級は陸軍監督総監(のちの陸軍主計総監)。旧姓石光。熊本藩士石光文平の三男。藩産物方頭取石光真民の末弟。箱館戦争軍監、青森県初代知事、日清戦争の野戦監督長官、男爵、貴族院議員。清浦奎吾、後藤新平、斎藤実、柴五郎などを育てた。熊本藩士石光家に生れ、15歳で同藩勘定方の野田淳平の養子となる。横井小楠を慕って京都に出奔し、勤皇党に投じ、小楠が仆れた後は同郷の先輩大田黒惟信を頼って江戸に出て倒幕運動に参画した。戊辰戦争では征討大総督軍の一員として奥羽に転戦し、箱館戦争では軍監として活躍する。軍事参謀試補、軍監、胆沢県少参事、弘前県参事と歴任。弘前県の県庁を青森に移し、青森県と改称、同県大参事。勧農寮大属。明治5年(1872年)11月、陸軍兵学寮八等出仕、翌年8月、陸軍会計軍吏となり、以後、陸軍の経理関係の役職を担う。第5局第2課長を経て、会計軍吏正として西南戦争に出征。戦地で食料、軍夫の調達に当たった。その後、第5局第8課長、会計局計算課長、会計局次長、会計局第1課長などを歴任。1885年、ドイツ留学。帰国後は、軍の経理組織と規則を確立し、軍の経理学校を創設。会計局次長、監督長、会計局長と昇進し、初代陸軍経理局長、主計総監。日清戦争では、大本営野戦監督長官として出征した。1897年4月、監督総監に進級し、1901年4月15日、予備役に編入された。1906年4月1日に後備役となる。1911年4月1日に退役した。1895年8月、男爵の爵位を授爵し華族となり、1904年から1913年まで貴族院議員を務めた。野田は人材の育成を心がけた人物であり、戊辰戦争時の敵藩の子弟も区別せず面倒をみていた。柴五郎、斎藤実は野田の庇護の下、それぞれ陸海軍に進んだのである。柴はその遺書の中で感謝の言葉を繰り返している。
出典:wikipedia
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