平 維茂(たいら の これもち)は、平安時代中期の武将。大掾維茂とも呼ばれる。陸奥守平繁盛の子。『今昔物語集』によると二話とも平貞盛の弟陸奥守平繁盛の孫で上総介平兼忠の子とされているが、伯父の平貞盛の養子となった。平貞盛はたくさん養子を取っており、子としては15番目だったことから余五(十を超えた余りの五)君、また後に将軍となったと伝えられることから余五将軍と言われる。『今昔物語集』では巻第25第4「平維茂が郎党、殺され話」、第5「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」に出てくる。また『後拾遺往生伝』中巻には平維茂が仏教に帰依した事がつづられている。恵心院の源信僧都(げんしん そうず)に帰依し極楽往生を願い臨終間際に極楽迎接曼荼羅(ごくらくぎょうしょうまんだら)を授かったとし、享年八十才と記している。『吾妻鏡』の第八1188年文治四年九月十四日の条には城四郎長茂の祖先が平維茂だと書いている。『元亨釈書』にも後拾遺往生伝とほぼ同じ記述がある。その他信濃守のときの伝承は能の演目『紅葉狩』等として劇化されており、広く知られる。『尊卑分脈』では平貞盛の弟陸奥守平繁盛の子で平兼忠(上総介・出羽守従五位上)の弟とある。官位官職には鎮守府将軍(或いは非将軍云々)・信濃守・従五位上。その他「帯刀奥山城鬼等流」「世人号余五将軍」の注記がある。『続群書類従』収録の「桓武平氏系図」でも繁盛の子となっており「同将軍号余五」「将軍出羽介」と注記がある。それ以外には同時代の記録に見えないことから、野口実は『中世東国武士団の研究』「平維茂と平維良」において平兼忠の子の鎮守府将軍平維良と同一人物と言う説を展開している。長男・繁貞は越後において勢力を得たが、その子孫は奥山を名字とし京都で検非違使となるなど、朝廷に仕える武士として続いた。子孫には奥山度繁や、その娘の阿仏尼がいる。三男・繁茂の子孫は秋田城介(国司)として越後国に土着し(城氏)、繁貞の子孫に代わって越後で繁栄した。長野県旧戸隠村、旧鬼無里村(現長野市)など鬼女紅葉伝説があり、勅命を受けた平維茂が八幡大菩薩より授かった破邪の刀でこれを退治する話が広く伝えられている。平維茂が戸隠山(荒倉山)で鬼退治したとする書物は江戸時代以降で『大日本史』(第140巻・列伝67)や『和漢三才図会』(信濃・戸隠明神)に記述がある。また信濃の地誌である『信府統記』、『菅江真澄遊覧記』(1784年天明4年)の記述、『信濃奇勝録』、『善光寺道名所図会』等々に記述がある。ストーリーは謡曲『紅葉狩』に沿ったものや北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳全など近年に創作されたものに影響されている。平維茂の墓所とされる新潟県東蒲原郡阿賀町三川には維茂の夫人(御前ヶ遊窟・ごぜんがゆう)が川に身を投げた伝説がある。『維茂夫人は御前ヶ遊窟(ごぜんがゆう)という山深い洞窟に住んでいました。夫である維茂の死期が近くなり、3月10日の明方までに来なければ間に合わないと知らせが届きました。夫人は急いで夫の元へ駆け付けるが夜明けの鶏の声を聞き、夫の死を悟った夫人は阿賀野川へ身を投げてしまいます。身を投げた場所を御前ヶ鼻(ごぜんがはな)といいます。しかし鶏の声は天邪鬼(あまのじゃく)のいたずらだった。それ以来この土地の人は鶏を食べないと云われます』
出典:wikipedia
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