浅井城(あさいじょう)は、富山県高岡市赤丸(旧・福岡町)に在った日本の城(山城)。「丸山城」ともいう。同県射水市にあった「浅井城」とは別個。平野部に突き出した丘陵の先端部(57m)に築かれていた。比高差は40m。曲輪、櫓跡、堀切が残る。南西約600mにある越中国赤丸城より規模はやや小さい。付近を旧北陸道である『山根道』、また宝達山を通り能登国志雄(現石川県宝達志水町)へと抜ける道が通っていた。至近には延喜式内論社である浅井神社が在る。浅井神社には江戸時代前期まで「川人明神」という神社があったと伝えられている事から古代北陸道における「川人(川合)駅」がこの周辺に在ったものと思われ、浅井城周辺が古代から交通の要衝であった事を示している。延元年間(1336年-1339年)、石黒光景によって築かれた。興国2年(1341年)には南朝方であった光景によって宗良親王が浅井城に奉迎されている。天正年間(1573年-1591年)、五位庄の領主であった中山治部左衛門国松が拠り(この時、浅井城は「赤丸村の古城」と呼ばれている)、弟の次郎兵衛を赤丸城に配置している(これ以前に「下間和泉」が拠っていたらしいが、後に越前一向一揆に参加した下間頼俊の事か)。その後上杉謙信によって攻められたという。天正9年(1580年)、中山氏が佐々成政の配下となる。天正12年(1584年)、中山直治が能登国末森城の攻防戦において初陣を飾る。天正13年(1585年)、富山の役によって成政は豊臣秀吉に降伏して越中国新川郡に追いやられ、中山氏も浅井城を退去した。この後さして時を置かずして廃城になったと思われる。以前から赤丸城が本城とされ、付近にある浅井城はその出城であると見られていたが、近年の調査によって、浅井城こそが本城であり、赤丸城はその出城であった事が判明した。浅井城の近くに「鍛冶屋町」、「鉄砲町」などの地名が伝わっている事が明らかとなり、この事から浅井城周辺に城下町が存在していたと考えられると云うのがその論拠である。
出典:wikipedia
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