フランスの軍服(フランスのぐんぷく)はフランスの軍人により着用される衣類であり、主に陸・海・空軍及び海兵隊の制服を指す。本項では陸軍に制服が導入されたルイ14世の1660年代以降現在に至るまでのフランスにおける軍服の変遷及びその世界各国への影響について述べる。1661年にルイ14世が親政を開始し、フランスはヨーロッパの政治・文化の中心となった。そして、軍制や服飾に関してもフランスがヨーロッパにおいて主導的な役割を果たすようになった。しかし、18世紀に入ると軍服に関してはドイツの影響が強まり、フランスも1762年にはドイツ式の制服を採用した。また、男性用服飾一般についてはイギリスの影響が強まり、1720年頃には自然主義の影響でイギリスの服装が流行した。そのため、フランス革命の頃に現われた様々な新しい服装の多くはイギリスを始めとする、外国で生まれたものであった。フランスは革命からナポレオン戦争の過程で近代国民国家の軍隊の原型を作り上げた。しかし、ナポレオン1世は軍事制度や戦術に於ては革新的である一方、服飾等の文化芸術面に於いては復古的であり、軍隊の制服もルイ16世時代に逆戻りした。そのため、この時代のフランスの軍服が他の国に与えた影響は殆ど見られない。ナポレオン1世によって時代遅れとなったフランスの軍服であったが、19世紀中頃、当時ヨーロッパのファッションリーダーの1人とされていたナポレオン3世の時代になると、軍服に関してもケピ帽がなどの独自のデザインが見られるようになった。この「フランス式」はドイツやイギリスがリードする世界基準に対する「個性」として、他の国にも影響を及した。現在でもかつて影響を受けた諸国の礼装や旧フランス領から独立した諸国の軍服にその特徴が見られる。以下、まず陸軍軍服を中心に時代ごとの変遷を述べ、ついで海軍、空軍の軍服について述べる。フランスのルイ14世が親政を開始し、軍制改革の一環としてジュストコール(Justacorps/上着)、ジレ(Gilet/胴着)、キュロット(半ズボン)、クラバット(Cravat/ネクタイ)等から成る新しい服装を制服として導入した。この服装はヨーロッパ各国でも採用され、その構成は現在に至るまで紳士服の基本となっている。帽子や装備には変化が見られるが、服装はルイ16世時代の1786年制式から殆ど変わっていない。革命の頃にはボトムスに長ズボンが用いられるようになったが、ナポレオン時代になると、それもキュロットに戻された。19世紀になると、重火器の発達に伴い絢爛豪華さを誇っていたフランス軍の軍装も次第に機能性を強いられるようになる。とりわけ、革や毛皮で重厚に固められていた帽子は大幅に軽量化がなされた。1830年代仏領アルジェリアを発祥としてシャコー帽を簡略化したケピ帽が登場し、以降制帽として全軍に浸透する。また、騎兵でもに代わって「ボネ・ド・ポリス」(Bonnet de police)と呼ばれる、頭頂部にバズビーから派生したと思われるフェズ帽ないしナイトキャップのような舌を出した山型の帽子が導入された。このボネ・ド・ポリスはイギリス騎兵でも導入され、ギャリソンキャップの発祥の一つになったといわれている。また、フランス本国でも略帽として現在に至るまで使われている。また、騎兵および砲兵のドルマンにペリースという組み合わせも肋骨服一つに簡略化され、それらも19世紀末には他兵科と変わらないシングルブレストタイプの軍衣となった。これらの変更は各国の模倣するところとなったが、それも20世紀に至るころには既に時代遅れとなっており、そのまま第一次世界大戦に突入することとなる。礼装はシングルブレストの短ジャケットであったが、1872年にフロックコートタイプのものが登場した。将校の常服は19世紀末までは黒い肋骨服であったが、1893年に紺のシングルブレストの軍衣が採用される。9つボタンで袖に3つボタンが付いており、腰に2点雨蓋なしタイプのポケットが付く。20世紀初頭まで常服は長らく肋骨服とMle1893が混在していた。騎兵はやや遅れて1898年にM1893とよく似た軍衣が導入された。兵士は短ジャケットの上にダブルのコートを羽織っていた。1910年代までは依然として19世紀来の紺色の上衣に赤い袴という格好であったが、WW1開戦後、ホリゾンブルーの上衣および袴が導入されるようになった。1915年より外人部隊やアフリカ系部隊などの植民地軍にはカーキー色が導入されていたが、本国では一貫してホリゾンブルーのままであり、戦後の1935年にようやくカーキ色となる。また、同時に将兵ともに上衣の襟元からシャツの襟とネクタイをのぞかせるようになった。将校の軍装では、開戦直前の1913年に野戦服が採用された。上下貼りポケットで前が隠しボタンとなっている。この野戦服は1915年ごろから簡略化され、通常のシングルブレストとなる。立襟と立折襟が長らく混在していたが、1929年には立折襟の制服を採用。1935年に襟からシャツをのぞかせるようになって以降、1938年5月には開襟となった。ただしこれはM1929上衣の一番上のボタンを外して襟を広げただけのものであり、代わって1939年2月にはノッチト・カラータイプの開襟の制服が導入された。一方、それまで将校の常服として使われていたM1893は礼装として扱われるようになり、礼用襟章が追加される。1921年になると上下ともにホリゾンブルーに変更、礼用襟章の形状も変更される。1931年には再度上衣の色は黒となり、袖章が追加される。植民地仕様に白のタイプも存在した。兵士は9つのボタンの付いた紺色の短ジャケットのMle1870、下士官は7つボタンで肩章の付いたMle1897を着用していたが、1914年より腰部分に2点貼りポケットの軍衣が導入された。翌1915年にフラップタイプへと変更、1920年には大き目の折襟の軍衣が導入され、1935年改正でカーキ色となる。1938年にも改定があったが、全部隊に支給もままならず開戦となった。ナチス・ドイツによるフランス占領後、自由フランス軍では米軍や英軍からの軍装が供与された。19世紀に植民地各国で現地人が徴用されるようになると、現地の気候に合わせ伝統衣装を取り入れた独自の軍服が形成された。北アフリカでは、歩兵であるズアーブ兵やではと呼ばれるゆったりとしたズボンとチョッキが使われ、フェズ帽などが被られた。一方、軽騎兵であるスパッヒでは上衣は赤、袴は水色と本国と上下逆転したような色合いの肋骨服にと呼ばれるマントを羽織ったり、と呼ばれるコート状の衣服を着用していた。モロッコ現地兵は「ジャラバ」と呼ばれるヤギの毛が織り込まれた伝統的衣装を着用し、足にはサンダルとホーストップを履いていた。ジャラバの模様や色は部隊ごとに異なっていたが、1944年~45年ごろには黒と茶色、グリーンの細線が織り出された汎用型のタイプが登場した。上記とは異なり植民地部隊の所属だが、インドシナではが編成され、中でもトンキン狙撃兵はアオザイ風の前合わせにゆったりとしたズボン、ノンラーが着用された。こうした独自の軍服も兵器の発展とともに熱帯被服に取って代わられるようになり、現在では式典などで着用されるに留まっている。ケピ帽が植民地での戦闘から生まれたように、多くの植民地を抱えたフランスにとって熱帯用被服の導入は大きな課題であった。将校は1892年にライトカーキ色の熱帯用被服が登場する。翌年のM1893によく似たシングルブレストタイプの詰襟だが、胸と腰に各2点ずつポケットが存在する。1931年にはM1929に似た折襟の被服が導入された。このように将校は内地での被服と大差ない意匠だったが、下士官兵は1898年に3つボタンの詰襟シングルブレスト、1914年に折襟ダブルブレストの上衣が導入され、この上にオーバーコートを着用する事もある。1937年になると、半袖半ズボンの熱帯用被服が採用される。将校は階級章を当初胸に付けていたが、第二次世界大戦勃発後は肩に移行した。将校には白のサンヘルメットと上衣、ズボンの略礼装が用意された。この略礼装は詰襟であったが、1931年改定で詰襟タイプと開襟タイプの2種類が登場する。フランス、北アフリカ、中東勤務のみが連隊番号を付ける。これらの熱帯用被服も、戦後のブレザータイプのM1958をもってフランス植民地帝国とともに終焉を迎えた。海軍は他国同様にイギリスの影響を受けているが、士官や下士官の夏季制服は白いブレザーなど独自の点もある。士官や下士官は冬はダークブルーのリーファージャケット、水兵はセーラー服で頭頂部にポンポンが付いている。空軍は「ルイーズ・ブルー」と呼ばれる紺色のシングルブレストのブレザーにズボンで構成される。制帽の腰部分には階級に応じて金線が入り、クラウン部は夏季にはカバーを付ける。空軍の軍服が制定されたのは1929年である。制定当時は前合わせは5個ボタンで、袖にも陸軍のように3個のボタンがあり、襟はピークドラペルであった。1934年改定で前合わせは4個ボタンに変更され、袖のボタンは廃止、襟はノッチドラペルとなった。これが現在にいたるまでのフランス空軍の制服のベースとなる。下士官用は将校と同一であるが共布地のベルト、上襟に襟章を付ける。兵用は制定当初は下士官や将校のそれとは大きく異なっており、前合わせ6個ボタンの折り襟で襟の中から陸軍のようにシャツとネクタイをのぞかせ、腰には2点の切れ込みポケットが入っていた。1939年以降は襟1番目のボタンを広げ開襟とした。現在は下士官や将校と同一である。
出典:wikipedia
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