登戸研究所(のぼりとけんきゅうじょ)は、現在の神奈川県川崎市多摩区生田にかつて所在した、大日本帝国陸軍の研究所。1939年(昭和14年)1月、「謀略の岩畔」との異名をとった陸軍省軍務局軍事課長・岩畔豪雄大佐(正確には軍事課長就任は同年2月、大佐昇進は同年3月)によって、特殊電波・特殊科学材料など秘密戦の研究部門として、通称「登戸研究所」が「陸軍科学研究所」の下に設立された。登戸研究所の前身は1919年(大正8年)4月に「陸軍火薬研究所」が改編して発足した「陸軍科学研究所」のため、当初の正式名称は「陸軍科学研究所登戸出張所」であった。所長には篠田鐐大佐が就き、1939年(昭和14年)9月に正式発足した。1941年(昭和16年)6月に「陸軍科学研究所」が廃止され、「陸軍科学研究所登戸出張所」は「陸軍技術本部第9研究所」に改編。1942年(昭和17年)10月、陸軍兵器行政本部が設けられ、その下の「第9陸軍技術研究所」に改編。1943年(昭和18年)6月、電波兵器部門を多摩陸軍技術研究所へ移管。1945年1月、「帝国陸海軍作戦計画大綱」が発表され、本土決戦準備のため、登戸研究所は長野に移転した。同年8月15日、敗戦が決定すると、陸軍省軍務課は「特殊研究処理要綱」を通達し、すべての研究資料の破棄を命令した。それらの資料の殆どが処分され、また、ほとんどの関係者が戦後沈黙したため、長らくその研究内容は不明だった。1944年時。原子爆弾、生物兵器、 化学兵器、 特攻兵器、 謀略兵器、 風船爆弾、 缶詰爆弾、 怪力光線、殺人光線、電気投擲砲。上記のとおり、怪力光線などのようにいささか空想じみた研究をしており、実態が不明な点が多いこともあって、各種創作物の中ではオカルトめいた怪しい研究所として描かれることが多い。しかし実際には、どちらかといえば謀略やBC兵器、特攻兵器のような、地味かつあまりイメージのよくない研究が主だった。中華民国の経済を乱すため、当時として45億円もの中華民国向けの偽札がこの研究所で作られ、30億円もの偽札が中華民国で使用された「杉作戦」が有名である。1948年1月26日に発生した帝銀事件では、警視庁は犯行に使われた毒物が登戸研究所が開発したものと推定し、第二科の研究者を中心に捜査が行われた。この中の捜査メモ「甲斐文書」に、関東軍防疫給水部と共同による人体実験の関与を指摘する供述が記録されている。第二科の関係者の多くは、登戸研究所で開発されたアセトン・シアン・ヒドリン(青酸ニトリール)である可能性があると証言している。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、東側に対抗するため、戦犯免責者の公職復帰が行われた。登戸研究所関係者では第三科の関係者がアメリカ軍に協力し、横須賀基地内の米軍印刷補給所で、偽造印刷の技術を使い、共産圏の各種公文書の偽造を行った。1952年に研究班の一部がアメリカ本土に移動。入れ替わりでかつて登戸研究所所長を勤めていた篠田が合流した。戦後、登戸研究所跡地は民間に払い下げられ、慶應義塾大学工学部予科が使用していたが、慶應義塾大学が日吉キャンパスの復興にともなって移転したため、1950年(昭和25年)に11万坪のうち3万坪余を明治大学に譲渡し同大学の生田キャンパスになった。明治大学譲渡後も、建物は校舎として使用された。老朽化のため建物の大部分は取り壊されたものの、枯葉剤の研究が行われたと見られる「36号棟」のほか、動物慰霊碑や消火栓など当時の施設がまだ幾つか現存している。2010年3月29日、前述の「36号棟」の建物をそのまま利用する形で資料館が開館した。当時の貴重な資料や解体された棟のドア、柱などの建築部材が展示されている。開館日並びに開館時間は、毎週水曜日から土曜日の10時より16時まで。
出典:wikipedia
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